五代史演義第二十四回 秦王夫妻、共に刃に斃れ、蜀帝父子、代わる代わる雄を称す (斃秦王夫妻同受刃 號蜀帝父子迭稱雄)
樞密使たちの保身
- 秦王從榮の専横に朝臣は恐れをなし、樞密使范延光・趙延壽は再三辞職を願い出るが許されない。唐主が病臥中、從榮が「自分が即位すれば権臣を族滅する」と放言したと伝え聞き、両人は焦って外任を懇願。
- 趙延壽は駙馬の立場を使い斉国公主から唐主に働きかけ、宣武節度使に転出。後任の樞密使には朱弘昭が強制的に任命された。范延光も孟漢瓊・王淑妃への賄賂を通じて成德軍節度使として脱出に成功、後任は馮贇となった。
- 康義誠は逃げ場がないため子を從榮に仕えさせ、表向き恭順を装って親軍都指揮使・同平章事となるが、実際は日和見であった。
康澄の上疏「五不足懼・六可畏」
- 大理少卿康澄は乱の兆しを見て上疏し、「陰陽の乱れ・天変・小人の訛言・山崩れ・害虫」などは恐れるに足りないが、「賢人の隠匿・民の離業・上下馴れ合い・廉恥の喪失・毀誉の混同・直言の途絶」の六つこそ真に恐るべきだと説いた。唐主は褒めたが実行には至らなかった。
唐主嗣源の発病と秦王の誤断
- 長興四年十一月、雪見の後に発病し重篤となる。從榮・朱弘昭・馮贇が見舞うが唐主は応答せず、宮中に泣き声が聞こえたため從榮は崩御と誤解し帰邸、即位に備え兵を集める密謀を始める。
- 從榮は押衙馬處鈞を使いに立てて朱弘昭・馮贇に威圧的な要求を伝え、両人は恐れて孟漢瓊に急報。孟漢瓊は王徳妃と相談し、康義誠に兵を集めさせて備えることにした。
唐主の回復と從榮の反乱
- 実は唐主は一昼夜の昏睡ののち発汗して快方に向かい、意識を取り戻していた。しかし從榮はこれを知らず、宮中で秘喪があり他者が擁立されると誤解して先手を打とうとする。
- 從榮は牙兵千人を天津橋に集結させ、興聖宮への「入侍」を強行しようとする。孟漢瓊・朱弘昭・馮贇・康義誠は協議し、康義誠の煮え切らない態度に対し馮贇が「息子が秦府にいるからと日和見するな」と叱咤。
- 從榮が端門まで兵を進めたとの報に、孟漢瓊は自ら兵を率いて阻止すると決意し唐主に急報。唐主は驚き「なぜ從榮はこのような真似を」と嘆きつつ、康義誠に事態収拾を命じた。
從珂の子重吉の宮門死守
- 側にいた李從珂の子・控鶴指揮使重吉に唐主は「從榮ごときに大事は託せぬ」と語り、宮門の固守を命じる。
從榮の敗死
- 孟漢瓊は馬軍都指揮使朱弘實に討伐を命令。從榮の牙兵は寡兵の官軍にすら投降を呼びかけられて霧散し、從榮は狼狽して私邸に逃げ帰る。
- 妻劉氏とともに牀下に隠れるが、皇城使安從益に発見され、夫婦ともにその場で斬殺された。幼い子も探し出されて殺害され、首級が届けられた。
事後処理
- 唐主は從榮の死を知って衝撃を受け病状が悪化。從榮の遺児(宮中で養育中の一人)も将吏の強い要求により処刑され、從榮は庶人に落とされた。
- 宰相馮道は連座の拡大を防ぎ、高輦一人のみ処刑、劉陟・王說は遠流、任贊・王居敏・司徒詡らは降格に留めた。
唐主嗣源の崩御
- 宋王從厚が天雄軍から呼び戻されるが、到着時には唐主はすでに三日前に崩御していた(在位八年、享年六十七)。史書は猜疑心なく戦を好まない賢君と評する。翌年四月、徽陵に葬られ廟号は明宗。
從厚の即位と粛清
- 從厚が即位。女官王氏が從榮の悲運に同情を示す発言をしたことがかえって疑いを招き、私通の疑いで賜死。連座で司儀康氏も死罪、王徳妃も危うく罪に問われかけたが曹后の取りなしで免れた。
- 応順と改元、馮道・李愚・劉煦らが要職に昇進、康義誠も検校太尉に進むなど、從榮誅殺に関わった者たちが軒並み加封された。荊南高從誨、楚馬希范、呉越銭元瓘も進封され、蜀王孟知祥のみ検校太師の命を辞退した。
孟知祥の称帝
- 知祥は唐主崩御と幼弱な從厚の即位を見て「執政は小人ばかりですぐに乱れる」と野心を露わにする。趙季良を筆頭に諸将が符瑞(黄龍出現、白鵲群集など)を並べて即位を勧進、知祥は形式的に固辞したのち受諾。
- 国号を蜀、明德と改元して即位。当日は暴風と暗雲が立ち込めたが誰も気に留めなかった。趙季良・王處回・李仁罕・趙廷隱ら旧功臣を要職に任じ、唐の長公主李氏を皇后、夫人李氏(元唐荘宗の側室)を貴妃に追冊した。夫人李氏は後に蜀後主となる子仁贊(昶)を生んでいる。
蜀の勢力拡大と知祥の死
- 唐の山南西道張虔釗、式定軍孫漢韶らが相次いで蜀に降伏、興州刺史劉遂清も撤退し、散関以南は蜀の勢力下に入った。
- しかし降将から酒杯を受けた際に知祥は突然腕が痺れ、まもなく半身不随の症状(中風)となり、初秋に崩御。遺詔により子仁贊(昶と改名、十六歳)が帝位を継いだ。知祥は高祖と諡され、生母李氏は皇太后となった。
- 知祥の即位はわずか半年であった。「灯を得れば倒れる」と唱えた僧の逸話、「車に積める荷は二袋まで」と語った老人の逸話(蜀が二代で宋に滅ぼされる予兆とされる)が伝わる。
評語
從榮が兵を率いて「入侍」しようとした行動は、簒奪の確証があったとまでは言えず、むしろ帝位継承への焦りによるものと見る余地がある。孟漢瓊・朱弘昭・馮贇らが即座に謀反と断定し追討させ、妻子まで誅殺したのはやや行き過ぎであった。唐主嗣源は驕子從榮を抑えられず、莽将たちの暴走も抑えられぬまま、悲嘆のうちに崩御した。宋王從厚が即位した時にはすでに三日が経過しており、もし外にいた潞王(從珂)らがこれを早く知っていれば、内紛はもっと早く起きていたかもしれない。蜀王知祥は從厚の脆弱さを見抜いて即位に踏み切りながら、自らの子仁贊の将来には全く注意を払わなかった点で、他人を見る目はあっても自分を省みる目はなかったと評される。