五代史演義第四回 康懐貞、塁を築き潞州を囲み、李存勗、夾寨を破る (康懷貞築壘圍潞州 李存勗督兵破夾寨)
唐に抵抗する四国と傍観する五鎮
- 晋・岐・呉・蜀の四国が反梁の檄を飛ばすが、呉越・湖南・荊南・福建・嶺南の五鎮は反応を見せず、それぞれの拠点勢力(銭鏐、馬殷、高季昌、王審知、劉隠)の出自が紹介される。
- 五鎮はいずれも梁との利害関係(恩顧や実利)から梁に恭順しており、朝貢して臣従する姿勢を見せる。
河北諸鎮の去就
- 成徳軍の王鎔は当初河東と結んでいたが、梁の圧力を受けて梁に帰順し、子を人質に出して姻戚関係を結ぶ。
- 魏博の羅紹威も梁と結び、盧龍(幽州)の劉仁恭は当初河東方だったが、贅沢に溺れて政務を怠り、次子・劉守光との内紛(守光が父の愛妾と密通し、逆に父を幽閉して実権を奪う)が起きる。守光は最終的に梁に降り、幽州も梁の勢力圏に入る。
- その他の諸鎮(義武軍・夏州・朔方・匡国軍)も既に梁に臣従しており、四国の反梁の檄はほとんど効果を上げない。
蜀・岐の自立と潞州攻防戦
- 蜀の王建は李克用に共に皇帝を称えようと持ちかけるが断られ、単独で「大蜀」を建国して皇帝を称する。岐の李茂貞は国力不足のため皇帝は称さず、帝制に準じた体裁を整えるにとどめる。
- 梁主・温は最大の脅威である晋を叩くため、大将・康懐貞に潞州を攻めさせるが落とせず、後任の李思安が城を包囲する陣(夾寨)を築いて長期包囲に転じる。晋の周徳威らが後詰めとして展開し、一進一退の攻防が続く。
李克用の死と存勗の家督相続
- 潞州の戦いのさなか、晋王・李克用が病に倒れ、後継に長子・李存勗を指名して没する(享年五十三)。臨終に際し、克用は矢三本を存勗に授け、「梁を滅ぼせ」「燕(劉守光)を討て」「契丹を退けよ」の三つの遺志を託す。
- 存勗の家督相続に対し、養子の李存顥らが不満を抱き、克用の弟・李克寧を担いで謀反を企てるが、監視の宦官・張承業らの働きで陰謀が露見し、存勗は克寧・存顥らを誅殺して内紛を収める。
夾寨の戦い
- 唐の廃帝(昭宣帝改め済陰王)が朱温に殺されたとの報が届き、存勗は喪に服して梁への討伐を宣言する。梁主温は潞州攻めに手こずり、一時撤退も検討するが留まる。
- 存勗は自ら軍を率いて出陣し、周徳威らと合流して霧に紛れて夾寨を奇襲、油断していた梁軍を大破する(梁の招討使・符道昭は討ち取られ、梁軍は一万余りの死傷者と大量の軍需物資を失う)。
- 敗報を受けた梁主温は「わが子らは豚犬にも劣る、李存勗のような子が欲しかった」と嘆いたと伝えられる。
- 詩が挿入される(詩:晋陽の軍が奮起して夾寨を破り覇業の礎を築いたこと、李存勗の武勇を讃える趣旨)。
- 夾寨を破った周徳威が潞州城下で李嗣昭に開門を呼びかけたところ、嗣昭が弓を構えて射かけようとする場面で本回は終わる。
評語
- 著者は、唐滅亡後に四国が梁に反抗したとはいえ、その実態はほとんどが虚勢に過ぎず、真に唐室復興を志したわけではないとし、なかでも晋王李克用だけはまだましだったが、他の諸鎮は利禄に目がくらんで梁に籠絡されたに過ぎないと評する。
- 唐梁交代期の群雄割拠の情勢を整理して読者に示したうえで、夾寨の戦いを梁晋興亡の発端と位置づけて詳しく描いたと述べ、李克用・李存勗父子の代替わりも後の伏線として丁寧に描いたと結ぶ。