五代史演義第三回 朱全忠、帝位を簒奪し、朱全昱これを諫める (登大寶朱梁篡位 明正義全昱進規)
王師範の抵抗
- 唐室簒奪を進める朱温に対し、平盧軍節度使・王師範が忠義を掲げて挙兵する。緒戦で温の甥・友寧が討ち死にするが、温自ら大軍を率いて反撃し、師範を降す。
- 温は師範の弟を人質に取って降伏させたが、友寧の妻の訴えにより師範とその一族二百余人を殺害するなど、非情な処断を行う。
唐室への圧迫と弑逆
- 温はもう一人の甥・友倫の急死を口実に、これを唐の宰相・崔胤らの陰謀と決めつけて崔胤らを罷免・殺害し、唐昭宗を洛陽へ強制的に遷都させる。
- 途中、昭宗の側近や宦官らを多数惨殺し、昭宗を事実上の囚人同然に扱う。温は自らの養子・友恭や部将に命じて昭宗を弑逆させ、罪を彼らに着せて処刑する。昭宗の子・輝王祚(昭宣帝)を十三歳で即位させる。
- さらに唐の諸王九人を殺害し、反対派の宰相・裴枢ら多数の重臣を白馬駅で謀殺して河に投げ込む(「白馬の禍」)。
禅譲の強要
- 唐の宰相・柳璨や蔣玄暉らが禅譲の手続きを進めるが、温は形式的な加封(魏王・九錫)を拒み、直接帝位を求める。
- 王殷・趙殷衡の讒言により、温は柳璨・蔣玄暉が唐室存続を図っていると疑い、蔣玄暉と何太后(昭宗の后)を殺害、柳璨や張廷範も処刑する。
- 温は魏博の羅紹威の求めに応じて牙軍八千家を皆殺しにし、幽州の劉仁恭も攻めるが、潞州が李克用方に降ったため撤退する。
後梁の建国
- 唐昭宣帝天祐四年、唐の使者が汴州に禅譲の詔を伝える。温は瑞兆を並べ立てて受禅の正当性を装い、大梁殿で正式に帝位に就き、名を晃と改める。
- 国号を「大梁」、年号を「開平」と定め、昭宣帝を「済陰王」に降格する。汴州を開封府(東都)とし、洛陽を西都とするなど都制を整え、腹心の敬翔を崇政院使として国政の要とする。
- 養子の朱友文(本姓康)をはじめ、実子友裕・友珪・友璋・友貞・友雍・友徽・友孜ら諸子を諸王に封じ、先祖四代を皇帝として追尊する。長兄・全昱は広王に、亡き次兄・存は朗王に追封される。
全昱の諫言
- 即位後の宴で酔った温が皇帝の威厳もなく賭け事に興じ乱暴な物言いをするのを見て、長兄・全昱が「唐三百年の社稷を滅ぼした忘恩の行い」と面と向かって非難し、賽子を投げ捨てる。
- 温は激怒するが、周囲になだめられて事なきを得る。全昱はそのまま故郷の碭山に帰り、天寿を全うするまで静かに暮らした。
唐の遺臣、梁に服さず
- 晋(李克用)・岐(李茂貞)・呉(楊行密)・蜀(王建)の四鎮は梁の正朔を奉じず、唐の年号を使い続けて梁打倒を掲げ、梁と対立する構図が生まれる。
- 各勢力の出自(李克用は沙陀出身、李茂貞は元は宋文通、楊行密は元盗賊上がり、王建は塩の密売人上がり)が簡潔に紹介される。
- 締めの詩が挿入される(詩:人心と世道が地に落ち元凶が公然と帝位に就いたことを嘆きつつ、四鎮がなお梁に抗している一縷の望みを詠む趣旨)。
評語
- 著者は、朱温には唐に対して何ら功績と呼べるものはなく、乱に乗じて狡猾・凶暴な手段で唐の帝位を奪ったに過ぎないとし、王莽・曹操・司馬懿・劉裕らの簒奪者と比べても、朱温の悪辣さは劣らないと断じる。
- 世に媚びへつらう者が多い中、実の兄・全昱だけが正論をもって温を諫めた点を高く評価し、昭宗・何太后・昭宣帝まで弑逆した朱温が、ただ一人の兄には手を下せなかった事実に注目する。
- 全昱がその後平然と故郷に帰り天寿を全うしたことを、俗世を離れた高潔な人物になぞらえて称賛して結ぶ。