魏書卷一百一十一 志第十六 刑罰七

総序

  • 天地陰陽の働きは徳と刑をともに必要とし、聖人は民の喜怒哀楽の情に応じて刑罰を定めた。舜が咎繇に命じて五刑・五流の制を立てて以来、夏・殷・周と刑法は整えられ、周礼は五聴・三刺・八議など慎重な裁判手続きを備えた。
  • 戦国以降は威刑が重んじられ、商鞅の法経・連座制により風俗は険しくなり、秦の始皇帝に至って法網はきわめて厳しくなった。漢の高祖は関中に入り約法三章を布き、文帝は仁厚により断獄を大幅に減らしたが、武帝の代に律は増補され、宣帝の代には路温舒が獄吏の弊害を上書した。于定国が廷尉となったとき、律令は九百六十巻・大辟四百九十条・死罪の事案千八百八十二・死罪決比三千四百七十二条・断罪に用いる条文合計二万六千二百七十二条に達した。
  • 後漢二百年間は律の増減が少なかったが、魏の武帝は甲子科条を作り、明帝は士民の罰金・婦人加笞の制を改めた。晋の武帝は賈充に命じて律を刪定し、二十巻・二千九百余条にまとめた。魏(拓跋氏)は晋末の混乱の後を承け、太祖から太和年間にかけて吏治は清まり断獄も簡略になったので、以下その経緯を記す。

魏初~穆帝

  • 魏初は風俗が純朴で刑禁も簡略であった。宣帝(力微)が南遷したのち、四部大人が王庭で言葉の約束によって訴訟を裁き、契を刻んで記録する程度で、獄も拷訊の法もなく、犯罪者はその都度処断された。神元帝の代までこの慣習が続いた。
  • 穆帝(猗盧)の時、劉聡・石勒が晋室を傾けたのに応じ、帝は乱を平定しようと軍令を厳しくし、寛政に慣れた民は命令違反で多く処刑され、国内は動揺した。平文帝の代になって離散した民を再びまとめた。

昭成帝 建国二年

  • 死罪に当たる者は家が金馬を献じて贖うことを許した。
  • 大逆を犯した者は親族の男女を年齢にかかわらずすべて斬った。
  • 男女が礼によらず交わった場合は死罪とした。
  • 殺人事件は死者の家に馬牛四十九頭と葬儀の器物を送ることで和解させ、拘禁・連座は行わなかった。
  • 官物を盗んだ場合は一を五倍にして弁償させ、私物を盗んだ場合は十倍で弁償させた。これにより法令は明白となり、民は安んじた。

太祖(道武帝)

  • 若くして艱難を経験し、民情の実態をよく知っていたため、即位後は仁厚な政治を行い民庶と調和した。
  • 中原平定後、前代の刑網が厳しすぎたことを問題視し、三公郎の王徳に命じて民に酷な条文を除かせ、簡易な科令を大いに定めた。
  • 天下の民が長い戦乱に苦しみ法を恐れていたことを知り、寛容な統治を敷いたので民はこれを喜んだ。しかし大臣に対する処断は晩年まで厳しさを緩めず、災異がしばしば現れると、太祖の不予(病)とともに綱紀は緩み、刑罰はかえって濫酷になった。

太宗(明元帝)

  • 即位すると廃れた官を修め民の困窮を救い、長孫嵩・安同に命じて民の訴訟を審理させ、政治は再び秩序を取り戻した。ただし帝が政務に習熟するにつれ、官吏の中には法文を深く用いて罪を逃れる者も出てきた。

世祖(太武帝)

  • 刑禁が重すぎることを問題とし、神䴥年間に司徒崔浩に律令を定めさせた。五年刑・四年刑を廃止して一年刑を増やし、大辟を斬(死後絞にせず)と絞の二科に分けた。
  • 大逆不道は腰斬とし、同籍の十四歳以下は腐刑、女子は官婢とした。親を害した者は轘刑、蠱毒を用いた者は男女とも斬った上で家を焼いた。巫蠱を行った者は羖羊を背負い犬を抱いて淵に沈めた。
  • 刑を受けるべき者は贖罪を認め、貧者には鞭二百を加えた。畿内の富者は山で炭を焼かせ、貧者は圊溷(便所掃除)に使役し、女子は舂稾(脱穀作業)に従事させた。持病の者・苑囿の守衛・官位九品以上の者は官爵によって刑を免ずることを認めた。
  • 婦人は懐妊中および出産後百日は刑を執行せず、十四歳以下・八十歳以上・九歳以下は殺人でなければ罪に問わず、拷訊は四十九回を超えないこととした。
  • 州国の大辟はすべて先に上奏を経てから執行し、宮門の左に登聞鼓を懸け、冤罪を訴える者は鼓を打って公車に上奏できるようにした。
  • 太延三年、天下の吏民に牧守の不法を告発することを許したが、これにより凶悖な者が牧宰の落ち度を狙って脅迫し豪奪する弊害が生じ、長吏は屈従して恥じず貪暴が改まらなかった。
  • 帝はしばしば親征・巡幸したため、真君五年に恭宗(景穆太子)が国政を総覧することとなり、監国の游雅は上奏し、漢の武帝が河西四郡を開いた際に疑罪の者を謫徙させた例に倣い、大逆でない限り正刑ではなく謫徙にすべきだと述べた。恭宗はこの言を善しとしたが実行はしなかった。
  • 真君六年、有司の断法が不公平であることから、疑獄はすべて中書に付し、古の経義に基づいて論決させることとした。盗律では贓(盗品の価値)四十匹で大辟だったのを民が慢法するので三匹にまで下げていたが、正平元年に「刑網太密にして犯す者かえって多し」として律令を見直し、游雅と中書侍郎胡方回らが盗律を旧に復し、故縦・通情・止舎の法などを加えて三百九十一条、門誅四、大辟百四十五、刑二百二十一条とした。それでもなお刑典を十分には明らかにできなかった。

高宗(文成帝)

  • 太安四年、酒禁を始めた。年穀がしばしば豊作となり士民が酒による訴訟を起こしたためで、醸造・売買・飲酒はすべて斬とし、吉凶の礼のときのみ日程を定めて禁を解いた。
  • 内外に候官を増置し諸曹・外部・州鎮を伺察させたが、微服で府寺を出入りして官の過失を探るあまり多くの誣告が生じ、不敬の罪に処せられる例も出た。官が贓二丈(絹二丈相当)を得ると皆斬とし、律を七十九章、門誅十三、大辟三十五、刑六十二増やした。
  • 和平末年、冀州刺史源賀の上言により、大逆で自ら人を殺した者以外は死罪を免じ辺境の守備に配することとした。

顕祖(献文帝)

  • 即位して口誤による罪を除き、酒禁を解いた。政治に励んで百官は震粛し、譲位後も高祖のもとで政務を執り、清節の官を抜擢し貪鄙を淘汰した。
  • 延興四年、大逆・干紀以外は本人のみを罰することとし、門房之誅(連座による一族処刑)を廃止した。獄事の中書覆案が不当な操作を受けるようになったためこれも廃止し、大疑のみ合議することとした。以前は諸曹の奏事に疑いがあれば口伝の詔勅で処理されることが多く矯詐の余地があったため、以後は律に基づいて正名を上奏させることとした。
  • 顕祖は晩年ますます刑罰を重んじ、獄案には必ず覆鞫を命じ、囚人が数年拘留されても群臣の批判をよそに、「獄が滞るのは治体ではないが、軽率に濫刑するよりはよい。人は幽苦の中でこそ善を思う」と述べた。以降赦令をしばしば出すことをやめ、拷問の杖数を五十に制限し、また杖の太さ・打つ部位(背は二分、脛は一分)まで定め、拷訊を簡略にした。

高祖(孝文帝)

  • 旧制では斬刑は裸形で行われ、死刑には絞もあったが未施行だった。太和元年、「刑法は暴を禁じ姦を止めるためのもので裸形にする必要はない」として旧典を改めさせた。司徒元丕らは大逆・賊は棄市で袒斬、盗・受賄の吏は絞刑とすることを提案し、帝も男女が裸で見られることを礼にもとると詔した。
  • 太和三年、候官(密偵官)の弊害を除き、謹直な数百人に治安維持を委ねた。律令不備による吏の恣意的な軽重を正すため、高閭らに律の改定を命じ、五年に完成、八百三十二章・門誅十六・大辟二百三十五・刑三百七十七とした。
  • 重枷や縋石で囚人を苦しめる濫刑を禁じ、大逆で明証がなければ大枷を使わせなかった。太和八年、班禄制導入とともに枉法十匹・義贓二百匹で大辟としていたのを改め、義贓一匹・枉法は多寡を問わず死罪とし、贓死の守宰四十余人を摘発した。庶獄には寛恕を優先し、京師の死刑は年間五十件を超えなかった。
  • 太和十一年、不孝罪(律の父母への不遜)の量刑が軽すぎるとして改定を命じ、門房之誅が律にまだ残っていたことも改めさせ、刑限三年で極刑になる不均衡も見直させた。
  • 太和十二年、死罪に当たる者でも父母・祖父母が老いて他に成人の子孫がなく期親もいない場合は、上奏の上で処断を待つ制度を定めた。

世宗(宣武帝)

  • 正始元年、律令の再検討を尚書門下・中書外省に命じた。
  • 永平元年、枷杖の大小違制を尚書に検討させ、高肇・元懌・邢巒・李平・元継らが議論し、獄官令の五聴の理を尽くすべきこと、枷・杻械の使用基準(大逆・外叛以外は大枷を使わない等)を定め、既存の大枷は焼却させた。
  • 延昌二年、邢巒の上奏により除名処分を受けた官爵者・封爵者の復帰規定を整理し、王公以下の有封邑者は除名三年後に本爵を一等降して継がせることとした。
  • 同年、符璽郎中高賢の弟仲賢・叔六珍らが元愉の逆に連座して除名されたが赦されたのち復職を求めた事件で、邢巒は反逆連座の重さから復官を認めず除名のままとすべきと主張し、詔はこれを容れつつも赦前に死んだ者・員外の官については復職を認めた。
  • 延昌三年、冀州阜城の民費羊皮が貧困のため七歳の娘を売って母を葬った事件で、買い手張回・転売先の梁定之が問題となり、尚書李平は和売買人律に基づき絞刑を主張したが、詔は事情を汲んで羊皮を免罪、張回を五歳刑とした。太保高陽王雍・臣鴻・尚書元脩・右僕射游肇らがこの判断の当否をめぐって長く論争した末の結論である。
  • 皇族の犯罪について、宗正が旧制で審理を約束していたが、李平は皇族の血縁が広く疎遠な者もいるとして推鞫の限度を定める上奏を行い、詔は在室者以外は通常法によるとした。
  • 廷尉卿元志らが上奏し、獄成(判決確定)の定義について、御史の弾劾や訴冤による再審の扱いを議論し、崔纂・楊機・甲休・劉安元の議に従って赦や覆治を経た場合の扱いを定め、尚書李韶の奏もこれを支持した。
  • 熙平中、冀州の妖賊延陵王買が赦の期限後に自首しなかった件、および月光童子と称した劉景暉(九歳)の妖言事件では、崔纂は幼児の言葉に過ぎないとして極刑に反対し、霊太后は謫略陽の軽罪にとどめた。
  • 司州河東郡の毒殺事件(李憐生)では、老母の扶養規定と死刑の適用が争われ、主簿李瑒の議論に従い斬刑・妻子流罪と決した。
  • 尚書令任城王澄の上奏により、直閣・直後などの武官も州の中正官同様に贖罪の特典対象とすることが認められた。
  • 神亀年間、蘭陵公主の駙馬都尉劉輝が張智寿の妹容妃・陳慶和の妹慧猛と姦通し、公主を殴って流産させた事件が起こり、劉輝は逃亡した。門下は各人を死刑としたが、尚書三公郎中崔纂は劉輝逃亡の罪と賞募規定の不均衡を指摘し、容妃・慧猛の減刑、智寿らの配流の是非を巡って游肇・元脩・元志らが激しく議論した。詔は容妃・慧猛を死罪から髠鞭に減じ、智寿・慶和は防がなかった罪で敦煌配流とし、崔纂は郎都坐尚書を免ぜられ、他の尚書も一律に減俸となった。

孝昌年間以降・東魏

  • 孝昌年間以降、天下は乱れ法令は寛厳が定まらず、尒朱氏の専権期には処断が恣意的になった。鄴遷都後は群盗が横行したため、強盗殺人は首従とも斬・妻子は楽戸に配し、殺人なき盗みでも贓五匹未満なら魁首は斬・従は死、妻子も楽戸とする厳法が定められた。侍中孫騰はこれを「律令の外に条文を増やすもので、刑書が徒設になる」と批判し、律に従うべきと主張、詔もこれに従った。
  • 天平の遷都後、法令が緩み賄賂が横行したが、興和初め斉の文襄王(高澄)が朝政を輔けて風紀を改め、武定年間には法令が厳明となった。