総論
- 国家・家を治める者は穀貨を本としない者はなく、洪範八政も食を第一に置く。周礼は九職・九賦により民から財を集めるとし、古の哲王はみな農時を敬い穀を重んじ、自ら千畝を耕し九州から貢賦を得た。一夫が耕さず一女が織らねば飢寒に迫られ、法を犯すに至るのは王政の陥りである。税を薄くし民を富ませば仁義礼節が自ずと生まれる(衣食足りて栄辱を知る)とする。晋末の大乱では、干戈や飢饉により民の十のうち五がようやく生き残る有様だった。
太祖(道武帝)〜太宗(明元帝)期の農政
- 太祖が中原を定めた際、喪乱の弊を承けて民は農業を廃していたが、まず食を本とし、東平公儀に命じて河北を墾闢させ、五原から棝陽塞外まで屯田とした。登国六年(391年)、衛辰を破りその珍宝・畜産(名馬三十余万、牛羊四百余万)を得て国用を増した。中山平定後は吏民・徒何種人・工伎巧者十万余家を京都に移し耕牛を給して計口授田とした。天興初め、京邑(東は代郡、西は善無、南は陰館、北は参合まで)を畿内の田とし、その外四方四維に八部帥を置いて勧課・収入の査定を行わせた。太祖自ら籍田を耕して民に率先し、以後数年は大熟が続き匹中八十余斛を得たが、戎車が絶えず頻年豊作でも十分ではなかった。
- 太宗永興中、水旱が頻発し、宮人・伎巧以外の者を出賜し、神瑞二年(415年)にも不作で京畿に飢饉が及び、帝は鄴への遷都を考えたが博士崔浩の計により中止し、貧民を山東へ分けて就食させた。有司には勤農を奨励する勅(人生は勤にあり、勤まざれば匱す。畜さざる者は祭に牲なく、耕さざる者は祭に盛なく…と農桑虞衡工商の教えを列挙)を発した。以後民は皆力を尽くし歳々豊穣で畜牧も繁殖した。
- 泰常六年(421年)、六部の民で羊百口を満たす者は戎馬一匹を調することを詔した。
世祖(太武帝)期の経済
- 世祖は即位後、五方の民それぞれの性に応じて教えを改めず俗を易えず、政を斉えつつ宜を易えなかった。方貢を納め貨物を実にし、鳥獣の登せられるものを膳府に充てた。
- これより先、禁網が疎で民の逃隠が多く、天興中に漏戸を採り綸綿を輸させたが、逃戸が細繭羅縠に籍を仮託する者が増え、雑営戸帥が天下に広がり守宰に隷さず賦役が滞ったため、始光三年(426年)に詔でこれを一切罷め郡県に属させた。
- 神䴥二年(429年)、帝が親ら六軍を率い蠕蠕を追討し(瀚海の東から張掖の西、燕然山の北まで)大破し、種落・馬牛雑畜・方物を万計で虜獲した。その後、成周公万度帰を焉耆に遣わし、王鳩尸卑那は単騎で亀茲へ逃れ、国民は財宝を負って降り珍宝異玩・駝馬雑畜を巨万得た。度帰はさらに亀茲に入りさらに莫大な財物を得た。方隅(西域方面)が未だ平定されない間、帝はしばしば親征し政を恭宗(景穆帝)に委ね、真君中に恭宗は農職の教えを修めさせ(帝紀に詳しい)、以後数年は軍国の用が足りた。
高宗(文成帝)〜顕祖(献文帝)期の経済
- 高宗の時、牧守が貨利を貪る風があり、太安初め二十余の使者を天下に巡らせ風俗・民の疾苦を観察させ、州郡の墾殖・飲食衣服・閭里の虚実・盗賊劫掠・貧富強劣を調べて罰した。これにより牧守の弊風が改まり民が業に安んじた。
- 太祖が中原を定め、世祖が方難を平らげて以来蓄えられた珍宝・府蔵は豊かで、和平二年(461年)秋、中尚方に黄金合盤十二具(径二尺二寸、白銀を鏤め玫瑰を鈿する)を作らせ「九州致貢殊域来賓…」との銘を刻んだ。その冬、内庫の綾綿布帛二十万匹を出し百官に賭射させ、和平四年春には京師の民で七十歳以上の者に大官厨食を終身給する詔を出した。
- 顕祖(献文帝)は即位後、儉素を親ら行い公卿に先んじたが、天安・皇興間はしばしば大旱に見舞われ絹一匹が千銭に達した。劉彧(南朝宋の明帝)の淮北・青冀徐兗司五州が乱を告げて降を請い、将を遣わして援けたが青冀は貳心を抱き囲むこと数年でようやく抜いた。山東の民は征戍に疲弊し、帝は民の貧富に応じ租輸を三等九品に分け、千里内は粟、千里外は米を納め、上三品は京師へ、中三品は他州の要倉へ、下三品は本州へ納める制度を定めた。
- これより先、太安中に高宗は常賦の外の雑調十五を煩重として除こうとしたが、尚書毛法仁が軍国の資用であるとして反対し、高宗は「地利を窮めず民力を竭くさせなければ百姓に余りがある」として一度は免除したものの、間もなく元に戻り、この代に至ってようやく完全に廃止された。
太和年間の田制・戸調改革
- 旧制では民間の織る絹布は幅二尺二寸・長四十尺で一匹、六十尺で一端とされたが、次第に濫悪化し尺度を守らなくなったため、高祖延興三年(473年)秋七月、旧式に準ずる厳制を立て、違反者への罰則と、検察を怠った有司も同罪とすることを定めた。
- 太和八年(484年)、初めて古式に準じ百官の禄を品第に応じて班給した。それまで天下の戸は九品混通で戸調(帛二匹・絮二斤・絲一斤・粟二十石、別に帛一匹二丈を州庫に納め調外の費に充てる)を課していたが、このとき戸ごとに帛三匹・粟二石九斗を官司の禄用に増し、後にさらに調外の帛二匹を加え、各地の産物に応じて綿絹・糸・麻布などで納める州郡が細かく列挙された(司・冀・雍・華・定・相・秦・洛・豫・懐・兗・陝・徐・青・斉・済南・豫東・兗東・徐東の十九州は綿絹・糸を、幽・平・并・肆・岐・涇・荊・涼・梁・汾・秦・安・営・豳・夏・光・郢・東秦の各州及び万年・鴈門・上谷・霊丘・広寧・平涼の諸郡、懐州の邵郡、上郡の長平・白水県、青州北海郡の膠東県、平昌郡の東武・平昌県、高密郡の昌安・高密・夷安・黔陬県、秦州河東の蒲坂・汾陰県、東徐州東莞郡の莒・諸・東莞県、雍州馮翊郡の連芍県、咸陽郡の寧夷県、北地郡の三原・雲陽・銅官・宜君県、華州華山郡の夏陽県、徐州北済郡の離狐・豊県、東海郡の贛榆・襄賁県は麻布で税を充てた)。
- 太和九年(485年)、均田制を詔した。男夫十五歳以上は露田四十畝、婦人二十畝、奴婢も良丁と同じ扱いとし、牛一頭で田三十畝を受け四牛を限度とした。三易の田(休耕を伴う田)は倍にして受けた。年齢に応じ受田・還田を行い、老年の免除や死没時には田を還す。桑田は世業として身が終わるまで還さず、盈れば売り不足すれば買うことができるが分を超えて売買はできない。麻布の地では男夫に麻田十畝、婦人五畝を給し、還受の法は同じ。老小・癃残で授田がない者には半夫の田を与え、七十歳を超えれば還田不要とし、志を守る寡婦にも田を給した。還受は正月を期とし、土地の広狭・住民の移動意向に応じた柔軟な運用規定(新居者への宅地・菜地の給付、進丁受田の順、遠流配謫・戸絶者の田の扱いなど)も細かく定められた。刺史・太守・治中別駕・県令郡丞などの地方官にも公田(刺史十五頃、太守十頃、治中別駕各八頃、県令郡丞六頃)を給し、更代の際に引き継がせ、売る者は律により処罰した。
三長制と戸調の改革
- 魏の初め三長制がなく民の多くが豪族に蔭附し、蔭附者は官役を免れる一方で豪強の徴斂は公賦の倍に及んだ。太和十年(486年)、給事中李沖が上言し、古式に準じ五家一隣長・五隣一里長・五里一党長を立て、隣長は一夫、里長は二夫、党長は三夫の徭役を免除し、功績に応じ昇進させる制度を提案。戸調は一夫一婦で帛一匹・粟一石とし、未婚の者四人で一夫一婦分、奴婢は八口、耕牛二十頭でそれぞれ一夫一婦分に換算し、麻布の郷では布で代替、調外に十匹ごとの工調・二匹の調外費・三匹の内外百官俸などの雑調を定め、八十歳以上の者は一子の徭役免除、孤独癃老貧窮者は三長内で扶養することとした。
- 高祖はこの議論を「里党鄰の制は古来から風教を周くするためのものであり、口算を平均し訟えを息ませる」として重視し、改新を進める詔を出した。当初は百姓の多くが旧に従うことを望み豪富兼併の者は特に不満だったが、施行後は計算上以前の十倍余りの税収となり、天下が安んじた。
- 太和十一年(487年)、大旱と牛疫が重なり公私が困窮し、詔で民に豊かな地への移住を認め道中の食糧供給や三長による扶養、飢餓者への粥の施しなどを行ったが、主管者の怠慢で餓死者が多く出た。承平が長く続き府蔵が豊かだったため、御府の衣服珍宝・太官雑器・太僕乗具・内庫弓矢刀鉾の十分の八、外府の物資の大半を百司・工商・皁隷、六鎮辺戍、畿内の鰥寡孤独貧癃者に班給した。
- 太和十二年(488年)、群臣に安民の術を求めさせたところ、有司は常調の九分の二を割いて京都の歳用の余りとともに官司を立てて豊年に糴貯し凶年に安価で放出する制度、及び州郡戸の十分の一を屯民として農官を置く制度を提案し、帝はこれを善しとして施行した。以後、公私ともに豊贍となり水旱があっても災いとならなかった。
牧場・鉱産・交易
- 世祖が統万を平定し秦隴を定めた際、河西の水草の良さから牧地とし、馬は二百余万匹、橐駝はその半分、牛羊は数えきれないほどに繁殖した。高祖即位後は河陽も牧場とし常に戎馬十万匹を京師の軍警に備え、毎年河西から并州に徙牧し徐々に南転させ水土に慣れさせた。正光以後、天下の喪乱で群盗に奪われた。
- 世宗延昌三年(514年)春、長安驪山で銀鉱が発見され(二石で銀七両)、秋には桓州の白登山でも銀鉱(八石で銀七両、錫三百余斤)が発見され銀官を置いて採鋳させた。漢中の金戸千余家は漢水で沙金を採り年終に総輸していたが、後に臨淮王彧が梁州刺史となった際に罷めた。相州の牽口冶は鉄を鍛えて刀を作り武庫に送った。
対外交易と辺境の運漕
- 魏の徳が広まるにつれ西域・東夷が珍物を貢し、南垂には互市を立てて南貨(羽毛歯革の類)を集めた。神亀・正光の際は府蔵が満ち溢れ、靈太后は公卿以下に力の及ぶ限り物を負わせて与えることさえあった。徐揚内附以後は江淮の経略のため中州から物資を転運し辺鎮を実たしたが百姓は道路に疲弊し、番戍の兵に屯田を営ませ内郡の兵資と民との和糴を併用した。有司は水運の要地(小平右門・白馬津・漳涯・黒水・済州・陳郡・大梁の八所)に邸閣を立てることを提案し、費役が省かれた。
- 三門都将薛欽は、京西水次(汾州・華州から恒農・河北・河東・正平・平陽の五郡)の綿絹・貲麻を車で送る費用の煩雑さを詳細な数字とともに指摘し、船を用いて代替すれば大幅な絹布の節約になると具体的に試算して提案。度支郎中朱元旭・尚書崔休・録尚書髙陽王雍・尚書僕射李崇らはこの提案を検討し、東路諸州で水運を試行すること、通水路のない箇所は閑月に修治することなどを議論し、詔で施行された。
- 正光後、四方に事多く水旱も重なり国用が不足したため、天下の六年分の租調を前借りして徴収するに至り、百姓は怨苦した。有司は百官の常給の酒を断つことを奏し、年間で米五万三千五十四斛九升・孽穀六千九百六十斛・麫三十万五百九十九斤を節約したが、四時郊廟百神群祀・遠蕃使客への供給は除外した。その後、寇賊が増え諸将の出征の敗北が相次ぎ、器械資糧の損失は数えきれず、関西の喪失は特に甚だしく帑蔵はいよいよ空竭した。有司は内外百官・諸蕃客への稟食・肉支給も半分に減らすことを奏し、年間で肉百五十九万九千八百五十六斤・米五万三千九百三十二石を節約した。
- 孝昌二年(526年)、京師の田租を畝五升、公田の借賃は畝一斗、市に入る者から人一銭、店舗にも五等の税を課した。
- 荘帝の初め、喪乱の後で倉廩が空になり、粟の納入に応じ爵位・出身を授ける入粟制(輸粟八千石で散侯、六千石で散伯、四千石で散子、三千石で散男、職人は七百石で一大階の賞に実官を授ける、沙門も輸粟の量に応じ本州統・大州都・維那などを授ける、など)を定めた。
- 孝静帝天平初め、遷民の資産がまだ立たないとして粟百三十万石を出して賑わせ、天平三年夏にも遷民に稟を四十日給し、その秋、并・肆・汾・建・晋・泰・陝・東雍・南汾の九州で霜旱の被害があり民が飢えて流散した。天平四年春、詔で開倉賑恤したが死者は多かった。当時諸州の調絹が旧式に従わなくなっていたため、斉献武王(高歓)はこれを民の害として興和三年(541年)冬、天下に四十尺を一匹の度とするよう班し、天下がこれを利とした。
塩池の管理
- 河東郡の塩池は旧来官司が税利を収めていたがこの時期に罷められ、富強の者が専用し貧弱者は益を得られなくなったため、延興末(476年頃)に監司を復して貴賎に応じ税を課すこととし、公私ともに利を得た。世宗即位後は寛簡を旨とし禁を罷めて百姓と共にしたが、後に豪貴の家が勢いに乗じて近池の民から奪い、彊弱相陵ぐ状況が遠近に知られた。
- 神亀初、太師高陽王雍・太傅清河王懌らが、塩池が天蔵として羣生を養う資源であり先朝も細民と利を争わなかったことを述べつつ、豪貴による独占や卑賎の民の絶望を防ぐため主司を置いて彊弱を裁察し十分の一の税を古来通り取ることを奏上した。しかし鼓吹主簿王後興らが百官の食塩二万斛の他に馬千匹・牛五百頭を求めるなど際限がなくなり、後に中尉甄琛が禁を罷めるよう求めたが、尚書は「談ずるのは容易だが行えば弊害が出る」として旧禁の維持を主張し、詔もこれに従った。その後、池の周りの民である尉保光らが官司以上に障禁を私するようになり、公私両様の弊害から先朝の詔を復して監官を置いて監検することとした。
- その後も禁は罷めては立てられを繰り返し、永熙年間に至った。鄴遷都後は滄・瀛・幽・青の四州の沿海で煮塩が行われ、滄州に竈千四百八十四・瀛州に竈四百五十二・幽州に竈百八十・青州に竈五百四十六、邯鄲にも竈四を置き、年間合計二十万九千七百二斛四升の塩を得て軍国の用に充てた。
貨幣制度
- 魏の初めから太和年間まで銭貨は流通していなかったが、高祖が初めて天下に銭の使用を詔し、太和十九年(495年)に鋳造がほぼ整い「太和五銖」と名付け、京師・諸州鎮で通行させ、内外百官の禄も絹に準じ絹一匹を銭二百とした。民の鋳造も許可され銅は精練したものに限った。
- 世宗永平三年(510年)冬にも五銖銭を鋳造したが、粛宗の初め諸州鎮で鋳造の有無や古銭のみ使用する地域があり商貨の流通が阻害された。熙平初め、尚書令任城王澄は洪範八政・易の言葉を引きつつ、夏殷以来の貨幣制度の変遷(周の九府の法、桓公の覇業、秦漢の軽重の差、呉濞・鄧通の私鋳、漢武帝の五銖銭)を述べ、太和五銖が京邑の市では通用しても徐揚の市には通用しない不均衡を指摘し、永平三年に「不行の銭」(雞眼・鐶鑿の類)以外は流通を認める措置がとられた経緯や、延昌二年に徐州刺史が土銭の使用を求めた例を挙げ、河南諸州で行われている銭の多くが本来の制限に反していること、河北の州鎮では新鋳の五銖もなく古銭も禁じられ狭幅の縑布を裂いて代用している弊害を指摘し、太和銭・新鋳五銖・諸古銭で方俗に便利なものは大小を問わず通行を許し、貴賎の差は各地の相場に任せるべきだと提案した。詔は「銭は既に久しく行われている、東方はなお事があるのでとりあえず旧に従う」とした。
- 任城王澄は重ねて上奏し、周礼外府の泉(布)の理念を引き、銭貨の統一が国家の一体性の象徴であると述べ、太和五銖を大魏の通貨として天下に行うべきだが、戎馬の交わる江疆未一の状況を踏まえ、東南の州は旧に従い、京西・京北で未だ銭のない州鎮では新規に流通させることを提案。太和及び新鋳五銖・古銭の全好品は大小を問わず流通を認め、雞眼・鐶鑿は律により禁じ、河南で既に用いている銭はそのまま認めるが太和・新鋳五銖以外の新鋳は禁じるなど、詳細な折衷案を示し、詔で施行された。しかし河北諸州では依然として銭が普及せず物々交換が主だった。
- 熙平二年冬、尚書崔亮は恒農郡の銅青谷・葦池谷・鸞帳山、河内郡の王屋山などの銅鉱の産出量を報告し、開鉱を求めて詔可された。以後、私鋳が広まり銭が次第に小薄化し、建義初め(528年)に盗鋳の禁を重くし糾賞の格を開いた。永安二年(529年)秋、詔で銭文を「永安五銖」に改鋳し、官が絹を出して銭の価値を高めようとしたが私市での価格差はなお大きく、盗鋳はいよいよ盛んになった。遷鄴後は軽濫がさらに増し、武定初め、斉文襄王(高澄)はその弊を革めるため使者を諸州鎮に遣わし銅・銭を集めて改鋳させたが、姦僥の徒により未だ数年で再び細薄化した。武定六年(548年)、文襄王は銭の重さを実際に五銖に合わせる基準(百銭で一斤四両二十銖)を定め、京邑・州鎮の市に量りを置いて私用の秤も市の秤に準じさせ、私鋳自体は禁じないが規定の重さに満たない銭・鉛蝋を混ぜた銭の市場流通を禁じ違反者への糾告制度を設けたが、穀価が高いことを理由に施行は延期された。