魏書卷一百八之二 志第十一 禮四之二

世宗(宣武帝)期の禘祫論争

  • 景明二年(501年)夏六月、秘書丞孫恵蔚が上言し、禘祫の礼が秦の焚書以来失われ、王制・公羊伝など断片的な典拠しか残っていないことを述べた。孝文帝(先皇)が礼制を整えたものの禘祫二殷の大祭にまでは及ばず、これを陛下の代で行うべきだと説いた。
  • 孫恵蔚は王制の「天子は犆礿し祫禘し祫嘗し祫烝す」、鄭玄注(天子諸侯の喪明けに先君の主を祖廟に合祭するのを祫と呼ぶ)、魯の礼(喪明けの年に祫、翌春に禘、以後五年ごとに一祫一禘)、春秋公羊伝文公二年の記事とその何休注(陳列の作法、三年祫・五年禘の由来)を引き、喪明けの祫祭と翌年春の禘祭こそ礼の正道であるとした。
  • あわせて魏の明帝の喪(景初三年崩)における禫の時期をめぐる太常孔羨・博士趙怡(禫は二十七月説)と散騎常侍王肅・博士楽詳(禫は二十五月説)の異説を紹介し、いずれの説でも喪明けの祫と翌年の禘という順序自体は変わらないとした。孝文帝の禫が終わる翌月中旬に六室神主を太祖廟に合祭し、翌年春に群廟へ禘を行い、以後五年ごとに常とすることを提案。あわせて祫の月は時祭を減らして省くべきだが、七聖が合享を受けず百辟が盛事を見ないままでは典を失することになるとし、実施を求めた。詔ではいったん「先聖の遺した典を軽々に改めるべきでない」としつつ、八座・五省・太常・国子に議論を命じた。
  • 七月、侍中録尚書事北海王詳らが議論の結果を奏上し、禘祫の実施自体は孫恵蔚の説の通り前の裁定に従うが、仲月への変更を求める形で決着した。
  • 十一月壬寅、伊水の陽に圜丘を改築し、乙卯に祭祀を行った。

延昌〜熙平年間の禘祫実施をめぐる議論

  • 延昌四年(515年)正月、世宗が崩じ粛宗(孝明帝)が即位。三月甲子、尚書令任城王澄が太常卿崔亮の上言を奏上した。崔亮は、秋七月に予定される太祖への祫祭について、世宗の神主はすでに廟に入ったが常祭はなお別の寝室で行われている状況を踏まえ、殷祫は古典に従うべきとし、礼の「三年喪畢祫於太祖、明年春禘於群廟」という原則、杜預の説(卒哭にて除喪、三年喪畢にて禘)、魏の武宣后の喪の際の王肅・韋誕の議論、高堂隆の同調、さらに太和二十三年に孝文帝が崩じ翌々年の景明二年秋に祫、三年春に禘を行った先例を挙げ、来る秋七月の祫祭は停止し、年末を待って改めて祫禘を行うべきだと述べた。詔はこれを了承した。
  • 熙平二年(517年)三月癸未、太常少卿元端が礼記祭法(有虞氏・夏后氏・殷人・周人がそれぞれ黄帝や嚳を禘し、顓頊・冥・契・文王を郊し、堯・禹・湯・武王を宗とする故事)と鄭玄注を引き、聖朝では太祖道武皇帝を圜丘に、道穆皇后劉氏を方沢に、太宗明元皇帝を上帝に、明密皇后杜氏を地祇に配してきたが、顕祖献文皇帝を雩祀に配していること、太宗明元皇帝の廟が既に毀たれ上帝・地祇への配祭に定式があることなど、配祭の重い問題として羣官の議に付すよう求めた。靈太后はこれを許可し、太師高陽王雍・太傅領太尉公清河王懌・太保領司徒公広平王懐・司空公領尚書令任城王澄・侍中中書監胡国珍・侍中領著作郎崔光らが議論し、世祖太武皇帝(神武纂業、禍乱を清め功が四海に及んだ)を南郊に、高祖孝文皇帝(大聖膺期、魏道を刷新し刑を措いた功)を明堂に配することを申奏し、令でこれを許可した。
  • 同年七月戊辰、侍中領軍将軍江陽王継が、太祖道武皇帝から数えて自身が曾孫にあたるが、四祖三宗の子孫のうち曾孫・玄孫にあたる者は廟庭の祭祀に参加できず、身分の序列で不利益を被っていると訴え、曾祖の服(資蔭)を計算に用いる高祖孝文皇帝の令に照らしても不整合であるとして、外部の議論に付すよう求めた。靈太后は八座に議論を命じ、以下の学官が意見を述べた。
  • 四門小学博士王僧竒等は、孝経・礼記婚義・文王世子を引き、太祖の不遷と二祧の不毀は王業の初基・洪烈を旌するためのもので、傍系の遠い子孫を同列に扱うべきではないとし、四廟を限度とすべきと論じた。
  • 国子博士李琰之は、祭統・鄭注を引き、当代の親廟四に限る現行の儀注に疑問を呈し、太祖の廟に連なる曾孫・玄孫までを侍祠の対象に含めるべきだと論じた。
  • 侍中司空公領尚書令任城王澄・侍中尚書左僕射元暉は、琰之の議は始封の君に関する議論としては筋が通るが、祭統・鄭注の趣旨は同宗の父子が来ることを言うのみで、五服の親等が尽きれば告赴も拝薦もできないとする高祖孝文皇帝が定めた四廟の制度を支持すべきとした。
  • 太常少卿元端は、礼記祭法・祭統を引きつつ、琰之の議に賛同できないとして王僧竒等の議に同調した。
  • 靈太后は最終的に、議親律における「先帝の五世まで」という規定は骨肉の情を篤くする趣旨であり、四廟に限るのは狭すぎるとしつつも、太祖曾玄が壇堂の敬に預からないのはかえって近親を疎んじる結果になるとして、琰之の援拠を「所執に依るべし」と裁定した。
  • 十二月丁未、侍中司空公領尚書令任城王澄・度支尚書崔亮が、礼記曾子問(孔子曰く諸侯の旅見が廃されるのは太廟の火災・日蝕・王后の喪・大雨で服が失われる場合の四つのみで、禘祭による朝会の廃止は含まれない)や鄭玄礼注・鄭志(魯の礼、昭公十一年から十五年にかけての喪と祫禘の実施時期の詳細な記録)を引き、禘祭を理由に元会(正月の朝賀)を廃すべきでないとし、太史令趙翼らの吉日の勘案(正月二十六日)を踏まえ、禘祀を中旬十四日に移し、時祭を二十六日に移すことを提案した。靈太后はこれを許可した。
  • これより先、世宗の永平・延昌年間に明堂を建てる議論があり、五室説・九室説で意見が分かれ、饑饉のため中断していた。ここに至り再議され、詔で五室に従うことになったが、当初の議を主導した執政(元义)が九室に改めて営建し、世が乱れたため完成せず、宗廟配祭の礼はついに実施されなかった。
  • 神龜初、靈太后の父司徒胡国珍が薨じ太上秦公を追贈された際、その廟制について太学博士王延業が議論した。王制・小記・鄭玄注を引き、廟の正制は親を限度として四を過ぎない(太祖があれば五)とする原則を確認しつつ、晋の司馬懿(後の晋太祖)の例(子の司馬昭の代に五廟を立てたが太祖の位は空位のまま子孫が満ちるのを待った)を引き、胡国珍の廟も太祖の位を虚しくして高祖・曾祖までの四主を立てるべきだと論じた。あわせて武始侯(胡国珍が別に領した爵位)については秦公廟で合祀すべきとした。
  • 博士盧観は、王制・祭法・大伝・喪服伝を引きつつ王延業とは異なる立場を示し、諸侯は太祖を含め五廟を立てることができるとし、また晋の司馬氏の例についても独自の解釈(遷る対象は太祖廟へ、毀される対象も太祖の廟から)を述べ、始祖廟を空位にする必要はないとした。
  • 侍中太傅清河王懌は、王延業・盧観双方の議論を検討した上で、秦公は始封の君であり不遷の祖となるべき立場だが、身分を越えて正室に居るのは僭越にあたるとし、王延業の議(四主を立て、太祖の位は虚しくして子孫の代に備える)に従うべきだと裁定した。あわせて廟の室数についても、光武帝以来の異室同堂の制度に基づき先朝の廟堂令(四楹五架、北廂に座を設け東昭西穆)に従い、秦公の廟は既に一室で造られておりこれが朝令に合致するとして、そのまま享祀を行うべきだとした。詔は懌の議に従った。

東魏期の祭祀

  • 天平四年(537年)四月、七帝の神主が太廟に遷され、太社の石主も社宮に遷す際、幣を用いるべきかどうかで議論があった。中書侍郎裴伯茂は太和年間の遷社の先例(孝文帝は牲を用い幣を用いなかった)を根拠に牲を用いるべきと奏聞し、これに従った。
  • 武定六年(548年)二月、斉献武王(高歓)の廟を営むにあたり室数・形制を議論。度支尚書崔昂・司農卿盧元明・秘書監王元景・散騎常侍裴献伯・国子祭酒李渾・御史中尉陸操・黄門侍郎李騫・中書侍郎陽休之・前南青州刺史鄭伯猷・秘書丞崔劼・国子博士邢峙・国子博士宗恵振・太学博士張毓・太学博士高元寿・国子助教王顕季ら(原文の姓名のまま)が議論し、諸侯は太祖及び親廟四を立てる礼に基づき、獻武王は始封の君で太祖にあたるため親廟と別に五室を立てる必要はなく、四室二間の廟に二頭の頬室を加える形式とすることを提案。門は諸侯が南門のみを開く旧礼と、二王の後を祔祭する際の東門の記録を踏まえ、内院に四門(南面三門・他面各一門)を開くこととし、廟の東側に斎坊・典祠廨・厨宰・廟長廨・車輅・犠牲飼育の場を配置する具体的な構成を定めた。詔はこの案に従った。