序論(礼と楽の意義)
- 天における日月、人における礼儀は、上を安んじ民を治め風化を成す拠り所である。これを失えば国は亡ぶ。
- 聖人は人が持つ尊敬・哀思・喜怒の情に基づき、上下・長幼・衆寡の秩序を礼として定めた。世が移れば質文も異なり、損益もそれに従う。
- 秦は儒教を滅ぼし、漢はその弊害を承け、三代の礼は絲のように細くなった。漢(劉氏)の中興でようやく周の制度に倣ったが、魏晋の世も同様だった。
- 永嘉の乱以来、中原は荒廃し礼楽は崩れた。太祖(道武帝)は燕・趙を平定する軍務に追われ、制作の暇がなかった。高祖(孝文帝)は古を稽え旧則によって前代の令典を斟酌し朝章国範を復興させたが、早世して志半ばに終わった。世宗の代は仏教(𤣥門儒業)に関心が向き礼楽が衰え、粛宗(孝明帝)の代にはさらに衰退した。
- 皇始年間から武定年間までの朝廷の典礼の跡を、ここに総括して記録する。
太祖(道武帝)の郊祀と宗廟の創始
- 登国元年(386年)、太祖は牛川で代王位に即き、西に向かって天を祀り即位の礼を行った。
- 天興元年(398年)、平城に都を定め皇帝に即位。壇を築いて天地を告祭し、祝文で自らを「皇帝臣珪」と称し、劉顕・衛辰を討ち慕容氏を平定した功を述べて皇天后土に告げた。有司に命じて行次・服色を定めさせ、群臣は魏が黄帝の後を継ぎ土徳にあたるとし(黄色い神獣が牛に似ることや黄星の出現を瑞祥とした)、五を数に、黄を尚び、白い犠牲を用い、周の礼に倣って夏四月に西郊で天を親祀した。
- 天興二年(399年)正月、南郊で上帝を祀り始祖神元皇帝を配した。壇は四陛の壝を通し三重に築き、五方帝・日月五星・二十八宿・天一太一北斗司中司命司禄司民などを内壝・外壝に配祀し、藁秸・玉四珪・幣束帛・牡(黝犢)・陶匏の器を用いた。牲は上帝・神元にそれぞれ犢一、五方帝に共用の犢一、日月等に共用の牛一とした。祭り終えると牲体を壇南の已地で燎した。
- 天興三年(400年)正月、北郊で地を瘞め神元竇皇后を配した。五岳名山は中壝内、四瀆大川は外壝内、后土・神元后の牲には玄牲一(両珪・束帛)、五岳等には牛一を用いた。瘞める場所は壇北の亥地とした。京師畿内の五歳刑以下を赦した。以後、冬至には圜丘で上帝を、夏至には方沢で地祇を祀ることとし、牲帛は南北二郊に同じくした。
- 天興三年冬十月、平文・昭成・献明の廟が完成し、年五祭(二至二分と臘日)を太牢で行った。太社太稷を宗廟の右に方壇四陛で設け、二月八月の戊日に太牢で祭り、句龍を社に周棄を稷に配した。祖神は正月上未の日に端門内で羊・豕・犬各一で祀った。神元・思帝・平文・昭成・献明の五帝廟を宮中に建て年四祭(正・冬・臘・九月、牲は馬牛各一)。太祖は宮中で星神を親祭(年一祭、十二月、馬・牛豕各二・鶏一)。太祖に二つの彗星が現れた際、劉后が占者に占わせ「祈れば天下平定にあたる」との答えを得て新たに祀りを立てた。ほかに(闕二字)神十二(年一祭、牛一・鶏三)、主神四(年二祭、羊一)、献明以上の天神四十所(年二祭、大小により馬牛羊を使い分け、女巫が執行)を置き、雲中・盛楽・神元旧都では神元以下七帝を年三祭(正・冬・臘、馬牛各一)で祀った。翌年春、帝は初めて籍田を耕し先農を祀り(羊一)、東郊で日を(騂牛一)、秋分に西郊で月を(白羊一)祀った。
天賜〜太宗(明元帝)期の郊祀
- 天賜二年(405年)夏四月、西郊での天の祭祀を改めて整備。方壇一・木主七を置き、東に二陛、周垣四門を色ごとに名付け、牲は白犢・黄駒・白羊各一とした。帝は大駕で百官・賓国諸部大人を率いて郊所に至り、女巫が鼓を揺らして帝が拝し百官も拝する儀を七度繰り返す独特の儀礼で、年一祭とした。
- 太宗永興三年(411年)三月、清河王紹の乱の予兆を懼れて太祖が武周・車輪の二山で祈った故事にちなみ、帝は同地で祈祷を行った(年一祭、牛を用いる)。
- 翌年、白登山に太祖廟を建立(年一祭、太牢)し皇天上帝を山神と併せ祀った。旱には効験があったという。太祖巡幸の行宮所在地の郡国にも壇を立て太牢で年一祭とした。太祖の別廟を宮中に建て年四祭(牛馬羊各一)。天日月の神・小神二十八所を宮内に加えた(年二祭、羊一)。
- 後二年、白登の西の太祖旧遊の地に昭成・献明・太祖廟を建立(九月十月の交に親祭、牲は馬牛羊、貙劉の礼も行う)。天神等二十三を廟の左右に別置した。華陰公主(太祖の姉、元紹の乱で保護の功があった)の廟も太祖廟の垣の後に別立された。雲中・盛楽・金陵の三所にも太廟を建てた。
- 泰常三年(418年)、五精帝の兆を四郊に方壇四陛の埓壝三重で設け、太皥等及び諸佐を配祀した。黄帝は立秋前十八日、四帝は四立の日に牛一で祭った。六宗・霊星・風伯雨師・司民司禄・先農の壇も別置し、少牢で常祭。立春には有司が東郊で春を迎える(酒脯棗栗のみで牲幣なし)。桑乾水の陰に五岳四瀆廟を建て春秋に有司が祭り、州郡内の山川・海若諸神(合計三百二十四所)は毎年十月祀官が巡祀した。水旱災厲があれば牧守が界内で祈った。
- 泰常四年八月、白登廟での薦熟の際に神異があり、太廟博士許鍾が上言してこれを国祚永隆の兆とし、聖徳を天下に告げるべきと述べた。
- 帝はその後、雁門関で恒岳を望祀し、橋山で黄帝・唐堯廟を祀らせ、恒岳を太牢で祀り、洛陽で嵩高・華岳を太牢で祀り太行に登り、諸所の山川を群祀した。その後、国学で孔子を顔淵配で祀った。
- 神䴥二年(429年)、蠕蠕征討に際し郊祀の儀を簡略化。九月、鄴に密皇太后廟を建て祀官・太常博士・斎郎三十余人を置き年五祭とした。
- 太延元年(435年)、恒岳・華岳・嵩岳に廟を建て各九十人の侍祀を置いた。
石室告祭(烏洛侯国の祖廟)
- 魏の祖先は幽都に居た頃、烏洛侯国の西北に石を鑿って祖宗の廟としていた。南遷後もその地は遠く隔たっていたが、真君年間、烏洛侯国が使者を送って石廟が健在で霊験があると伝えてきた。
- そこで中書侍郎李敞を石室に遣わし、天地に告祭し皇祖・先妣を配した。祝文では太武帝(燾)が皇祖の加護に感謝し、南遷後の功業と子孫の隆盛を述べ、丕功を天に配して福禄が永く続くよう祈った。
- 祭祀後、李敞らは樺の木を伐って標としたが、後にその木が生長して林となり、民は魏国の霊験の証と信じた。石室は代京から南へおよそ四千里の距離にあった。
世祖(太武帝)期の祭祀整理と巡幸
- 太延二年(436年)六月、司徒崔浩が神祀の乱雑を奏議し、祀典に載る五十七所以外の重複・小神を罷めることが奏可された。
- 太延十一年(445年)十一月、世祖の南征の途上、恒山(太牢)を祀り、河済を浮河して(少牢)祀り、岱宗を過ぎて(太牢)祀り、魯に至って孔子を(太牢)祭り、そのまま江に臨んで瓜歩に登って帰還した。
文成帝・献文帝期の祭祀
- 文成帝即位三年(456年)正月、有司を華岳に遣わして廟を修め碑を立てさせた。数十人が山上で虚空に万歳を唱える声を聞いたという。
- 和平元年(460年)正月、帝は東巡し橋山で黄帝を祀り、遼西で医巫閭山を望祀し、海沿いに南西へ冀州・中山を経て恒岳の神を礼して帰った。
- 和平二年(461年)、南巡して石門を経て玉璧・牲牢で恒岳を祀った。四月に旱があり、州郡内の神には大小を問わず酒脯を薦め、豊作の年には各郡本来の秩序で牲牢を用いるよう詔した。先に廃されていた群祀もこの時に復した。
- 献文帝皇興二年(468年)、青州・徐州平定を機に中書令兼太常高允を遣わし、玉幣で東岳を、太牢で孔子を祀らせた。
孝文帝(高祖)前期の祭祀改革
- 延興二年(472年)、有司の奏上によれば天地五郊社稷以下の諸神は合計一千七十五所、年に用いる牲は七万五千五百に及んだ。献文帝はこれを愍み、神は聡明正直で徳を重んじるのであって多殺を要しないとする詔を出し(易「東隣殺牛不如西隣之礿祭」を引用)、郊天・地・宗廟・社稷以外の祀りは牲を用いず酒脯のみとした。
- これより先、長安の牧守は周の文武廟を祀っていたが、延興四年、廟の埋めた玉が発見され、詔で東陽王丕に文武二廟を祭らせ、玉は盗難を恐れて府蔵に収めさせた。
- 献文帝は六月、西郊祭祀で毎年木主を七つ増やし世が改まれば兆も改める旧例を、神明に益なしとして改め、木主七を定置し碑を郊所に立てさせた。
- 太和二年(478年)、旱に際し帝は自ら皇天・日月五星を苑中で祈り、その夕に大雨があり京師の罪を赦した。
- 太和三年、北苑で祈り、苑中で星に祈った。
- 太和六年(482年)十一月、帝が親しく七廟を祀ろうとし、有司に儀を定めさせた。群臣は虞舜・殷宗の親祭の故事を引き、旧例では代々親謁しないことが多かったが今回は孝誠に基づく親祭であるとして、旧章と漢魏の故事を参照し、祭服・冠履・牲牢の器具、罍洗簠簋爼豆の器、百官の助祭の位次、楽官の節奏、昇降進退の法をまとめ「親拝の儀」を制定した。以後、四時の常祭も帝が親しく行うようになった。
- 太和十年(486年)四月、帝は初めて法服を着て輦に乗り西郊を祀った。
- 太和十二年十月、帝は南郊に圜丘を親しく築いた。
- 太和十三年(489年)正月、大駕で圜丘の祭祀。五月庚戌、方沢の祭祀。
禘祫論争(太和十三年)
- 太和十三年五月壬戌、高祖は皇信堂で群臣を引見し、礼記祭法・大伝・爾雅・鄭玄注・王肅注などを引きながら禘祭の性質(有虞氏が黄帝を禘したこと、諦の字義、圜丘の禘と宗廟の禘祫の異同)について詔問した。
- 尚書游明根・左丞郭祚・中書侍郎封琳・著作郎崔光らは、圜丘の大祭も宗廟の大祭もともに「禘」と呼ぶのは審諦の意によるもので、圜丘は常に合祭(祫を言わない)であるのに対し宗廟は時に合するので「祫」と言う、という鄭玄の説を支持した。
- 中書監高閭・儀曹令李韶・中書侍郎高遵ら十三人は、圜丘の禘は鄭玄説に同じいが、宗廟の禘祫の祭は王肅説(禘祫は一名で、合わせて祭ることを祫、審諦して祭ることを禘と呼ぶだけで二つの祭ではない)に同じとし、宗廟でも禘祫の礼を併せ行うべきだと論じた。
- 高祖は両説を検討した上で、鄭・王二義のうち圜丘の大祭の名は王説(禘)に従い、宗廟の祭祀の頻度は鄭説(三年一祫・五年一禘)に従うとする折衷の裁定を下し、先禘後時祭の順を令に定めた。
- 続いて中書監高閭は「六宗」の祭祀(尚書「肆類於上帝禋于六宗」)について、天地四時・易の六子・風雷の類など諸儒十一家の異説を整理した上で、先例通り一つの兆で祭ることを提案した。高祖は自ら尚書の文を検討し、上帝と六宗は一連の祭祀(肆類上帝禋于六宗は一祭)であり、圜丘で五帝を祀る際にすでに六宗の祭祀を兼ねているとして、別に六宗の位を立てる必要はないと裁定した。
五徳(受命行次)の論争
- 太和十四年(490年)八月、高祖は五徳相襲の分叙を議論するよう詔した。中書監高閭は上奏し、漢代の五徳論争の経緯(張蒼=水徳説、賈誼・公孫臣=土徳説、劉向=火徳説、後に漢は火徳で定着)を引き、魏は漢の火徳を継いで土徳、晋は魏の土徳を継いで金徳、趙(前趙)は晋の金徳を継いで水徳、燕(前燕)は趙の水徳を継いで木徳、秦(前秦)は燕の木徳を継いで火徳とする相生の系譜を示し、大魏は秦の後を継いで土徳とすべきだと論じた(軒轅=黄帝が土徳の祖であることも根拠とした。また秦・趙・燕は聖明ではないが中土を統治した点で孫権・劉備・劉裕らとは異なるとした)。
- 秘書丞李彪・著作郎崔光らは異論を唱えた。魏の始祖神元皇帝は西晋の武帝と同時代であり、桓帝・穆帝の二帝は洛京陥落の際に晋室を助けようとした縁があり、平文帝・太祖は苻堅・石氏と抗衡してついに慕容氏を平定し中原を大いに定めた事績を挙げ、魏は前秦や趙・燕を経ずに直接晋(金徳)を継いで水徳とすべきだと主張した。
- 太和十五年(491年)正月、侍中司空長楽王穆亮・侍中尚書左僕射平原王陸叡・侍中吏部尚書中山王王元孫・侍中尚書駙馬都尉南平王馮誕・散騎常侍都曹尚書新秦侯游明根・散騎常侍南部令鄧宗慶・秘書中散李愷・尚書左丞郭祚・右丞霸城子衛慶・中書侍郎封琳・中書郎秦昌子崔挺・中書侍郎賈元寿ら(原文の姓名のまま)が高閭・李彪両説を検討した上で連名で上言し、李彪らの説(晋を継いで水徳)を支持した。
- 高祖は「近きを承けることに情としては未だ安んじないが、考次を推せば土徳説を続けることも難しい」として、朝賢の議に従い水徳とすることを詔し、あわせて臘の日取りを申告させた。
太廟・明堂の改営と祖宗号の議定
- 底本には「四年経始明堂改営太廟」とあり(脚注参照)、祖有功・宗有徳の原則により、烈祖(平文帝)は道武帝建業の勲功に及ばないとして、道武帝を太祖と改め顕祖(献文帝)とともに二祧とし、他は次第に遷す旨を詔した。あわせて自身の廟号を七廟が満ちた際にどう扱うかについても、無理に定めず後世に委ねるとした。
- 司空公長楽王穆亮らは、七廟の祀りは久しく行われてきたため一つも欠くべきではないとして、先の尊祀の通り行うことを奏上し、詔でこれを了承した。
- 八月壬辰、詔で郡国に時果があれば京師に送り廟饗に供するよう命じた。また、先朝以来行われてきた正月吉日の朝廷での松柏樹の下での五帝坐の設置や、探策の祭が古典に典拠がないとして廃止させた。
- 戊午、詔で先朝以来の饗祀諸神一千二百余所を簡約に減省するとし、漢の高祖以来の祭祀の変遷(元成の際に匡衡が減省を執論し、光武の世に礼儀が備わった故事)を引き、あわせて明堂・太廟の祭祀で祖宗を配祭することが既に備わっているとして、白登・崞山・鶏鳴山の廟は有司による行事のみとし、馮宣王(誕)の生母の廟は雍州に時に応じて供祭させることとした。また風伯雨師・司中司命など重複する諸小神四十を罷めた。
- 甲寅、朝日夕月の礼を二分の日に東西郊で行うことについて、月の運行と暦が一致しない問題を議論。秘書監薛謂らの旧説(朝日は朔、夕月は朏)を踏まえ、尚書游明根は朏の日に従うべきと対じた。
- 十一月己未朔、帝は太和廟で禫祭を行い、その後の一連の遷廟儀礼(斉冕・素紗深衣・冠通天絳紗袍など服の変化、圜丘への升祭・柴燎・明堂大合、太廟への神主奉遷)が詳細に記される。諸王侯・牧守・四海の蕃附もそれぞれの職掌で祭に加わった。
- 太和十六年(492年)正月戊午、四時享祀の礼について、貴賎により祭の時期が異なる旧例(有邑の君は首時、無田の士は仲月)を踏まえ、七廟の重さに鑑み孟月から仲月に改める詔を出した。
- 二月丁酉、崇聖祀徳の令典について「秩○(闕三字)中古之近規」(本文の脚注参照)とし、堯(平陽)・舜(広寧)・禹(安邑)・周文公(洛陽)を祀ることとし、孔子廟は既に別に扱われているとした。
- 丙午、千畝での親耕の礼、癸丑、孔子への「文聖」の諡を授ける礼(議曹尚書劉昶・鴻臚卿游明根らが廟で執行し、帝も中書省で親拝した)。
- 九月甲寅朔、明堂での大享で文明太后を玄室に祀り、帝自ら祝詞を作った。
- 十月己亥、白登廟の祭祀が季秋に行われ明堂・太廟の祭祀と月をまたいで重なる不便を理由に、白登の祭祀を省き、内典神者に摂行させることとした(獻明・道武の廟はそのまま存続、太宗以下の諸帝は元より殿宇がなく既に停止されていた)。
- 太和十八年(494年)南巡、正月に殷の比干墓で太牢を以て祭った。三月、西郊祭天を罷める詔を出した。
- 太和十九年(495年)帝が南征し、正月に淮を渡って太常に祭祀を命じ、岱岳の祭祀も詔した。三月癸亥、太和廟の神主を正廟に遷す儀礼を詳細に定め、代都からの威儀・鹵簿は旧に倣うが、百官の奉遷は四品以上・宗室のみとした。六月、相州刺史高閭は、太武帝が密皇后のため鄴に立てた廟が老朽化していることを理由に、明堂が既に整った以上は罷めるべきだと上表し、詔でこれを許した。
- 十一月庚午、帝は委粟山に幸して圜丘の議を定めた。己夘、咸陽王禧・司空公穆亮・吏部尚書任城王澄らと議禮の官を引見し、周官の圜丘祭天の礼を基準としつつ、夕牲の礼の有無(員外散騎常侍劉芳・秘書令李彪の議論を経て告廟を行うことに決定)、圜丘の牲の色(李彪は玄色を推し帝もこれに従う)、祭日に鼓を鳴らす習慣の可否(員外郎崔逸が周礼の靁鼓の例を挙げ支障なしとした)について次々に議論した。癸未、三公は衮冕八章、太常は鷩冕六章で陪薦することを詔し、甲申、長至(冬至)に委粟山で昊天を祀った(「大夫祭」の字は底本に「疑」の注記がある)。
- 太和二十年(496年)、河陰に方沢を立て、使者を遣わして太牢で漢の光武帝及び明帝・章帝の三帝陵を祭った。