魏書卷一百七下 志第九 律厯三下

甲子元暦(興和新暦)制定の経緯

  • 孝静帝の世、壬子暦(正光暦)は気朔にやや誤差が生じ、熒惑(火星)は運行の次第を失い、四星も出没の暦がずれるなど誤りが目立つようになった。興和元年十月、斉献武王(高歓)が鄴に入って権を握ると、李業興に命じて改正させ、甲子元暦を作らせた。
  • 事が成ると、尚書左僕射司馬子如・右僕射高隆之らが連名で上表した。天地開闢このかた暦法は代ごとに改められ、当塗(魏晋以降)は日官が分かれて説が定まらなかったこと、正光暦(壬子暦)も置差以来、測影・候気に少なからぬ誤差が出ていたことを述べ、大丞相渤海王(高歓)が乱を撥め世を済い、履端帰余の術数がなお尽くされていないとして、兼散騎常侍執読の李業興・大丞相府東閣祭酒夷安県開国公の王春・大丞相府戸曹参軍の和貴興らに刊正を命じたことを報告。
  • さらに大丞相主簿孫搴・驃騎将軍左光禄大夫曄・前給事黄門侍郎季景・渤海王世子開府諮議参軍事定州大中正崔暹・李業興の子李子述ら多数の官が是非の検討に参与した。加えて左光禄大夫盧道約・大司農卿彭城侯李諧・左光禄大夫東雍州大中正裴献伯・散騎常侍西兗州大中正温子昇・太尉府長史陸操・尚書右丞城陽県開国子盧元明・中書侍郎李同軌・前中書侍郎邢子明・中書侍郎宇文忠之・前司空府長史建康伯元仲悛・大丞相法曹参軍杜弼・尚書左中兵郎中定陽伯李溥済・尚書起部郎中辛術・尚書祠部郎中元長和・前青州驃騎府司馬安定子胡世栄・太史令盧郷県開国男趙洪慶・太史令胡法通・応詔左右張喆・員外司馬督曹魏祖・太史丞郭慶・太史博士胡仲和ら多数の名がさらに考究に加わり、共に此の暦を完成させたことを述べる。「甲」を日の始め、「子」を天正とし、置元は此より起こすべきであるとし、興和の年号を暦の目とすることを求め、太初・景初の先例に倣うとして施行を請うた。詔は新暦を斉献武王(高歓)に示した。
  • 田曹参軍信都芳(暦術に通じる)は李業興の新暦を駁して異議を述べた。歳星・鎮星・太白の実測値が新暦の推算と食い違うことを具体的な度数を挙げて指摘(例: 十二月二十日、新暦は歳星を営室十二度とするが実測は営室十一度、鎮星は新暦角十一度に対し実測は亢四度、太白は新暦斗二十五度晨見逆行に対し実測は斗二十一度逆行)。
  • 李業興はこれに答え、歳星は観測以来八九年恒に2度に及ばず新暦で2度加えたことは的中していること、鎮星は壬子元以来常に及ばぬため7度加え、なお5度不足すると見て調整中であること、太白は行度の疾遅が甚だしく会帰を取っているに過ぎないこと等を弁明。自ら三十余年暦法を推歩し、涼州の趙&KR1835;・劉義隆(宋)の廷尉卿何承天・劉駿(宋)の南徐州従事史祖沖之の暦とも参校した結果、自らの甲子元暦は三暦に優ると主張。洛陽遷都以来四十余年の五星出没の実測と比較しても、自らの暦の誤差は一二日・一二度に留まるのに対し、三暦(祖沖之暦・何承天暦等)は十日十度も動くこと、辰星についても壬子暦と大差ないことを説明。
  • 李業興はさらに、天道は高遠で測歩は容易でなく、見伏の大帰を取ってこの暦は運用可能であると論じ、造暦の要諦(節朔・閏余を千年の間に貫通させ、盈縮・交会・月食等あらゆる要素を整合させて初めて暦元が求められること)を述べ、信都芳の指摘についても、鎮星・太白の前年との比較で新暦の誤差がむしろ縮小していることを示し、大局的には失なしと反論。信都芳がなお十二月中に算出した新暦の差を指摘したのに対しても、造暦は積年累日の観測によって初めて是非を審らかにできるもので、一二か月の間で正否を断じ得るものではないと結んだ。
  • 熒惑(火星)は779日で一遅一疾一留一逆一順一伏一見の周期(七頭一終)を成し、太白は583日、歳星は398日、鎮星は378日、辰星は115日でそれぞれ七頭一終を成す。造暦者はこの七頭を測り知って初めて術を作るべきで、知らねば暦は疎となる。五帝三代以来秦漢魏晋の造暦者は皆積年久しく測ってようやく暦を観ることができ、拙速な暦は数年で外れることを述べ、李業興の新暦(甲子新暦)は積年観測こそ少ないが壬子暦(正光暦)より近天であり、十年二十年観測を重ねればさらに精密になると結論。斉献武王(高歓)はこれを上言し、詔により外に付されて施行された。

甲子元暦の基本数値

  • 上元甲子より魯隠公元年(己未)まで積29万2736算(上)。甲子の歳が甲戌紀に入ってより積12万4136算(上)。上元甲子より大魏興和二年(庚申)まで積29万3997算(上)。甲子の歳が甲戌紀に入ってより庚申まで積12万5397算(上)。
  • 元法101万1600(三統の数)、統法33万7200(二紀の数)、紀法16万8600(十蔀成紀)、蔀法1万6860、度法1万6860、日法20万8530、気時法1400、章歳562、章閏207、章月6951、章中6744、周天615万8017、通数615万8017、沒分615万8017、餘数8万8417、沒法8万8417、斗分4117、虚分9万7883、小分法24、歳中12、会数173、会餘6万7117、会通3614万2807、会虚14万1413、周日27、周餘11万5631、周通574万5941、周虚9万2899、小周7513、月周22万5390、朔望合数14、度餘15万9588半、入交限数158度、度餘11万6058半。

各種算術(推朔・推気・推閏)

  • 推月朔弦望術第一:「推積月」「推積日」「求次月朔」「求上下弦望」の各術を、興和二年の暦元数値(章月6951・章歳562・通数615万8017・日法20万8530等)に基づいて記す。
  • 推二十四気閏術第二: 「推二十四気」「求次気術」「推閏」「推閏又法」を記す。二十四節気(冬至~大雪)の月中・節の配当は正光暦と同じ。
  • 推合朔却去度表裏術第三: 合朔却去交度、次月・望の却去交度、月の日道表裏を求める術を記す。甲子紀・甲戌紀・甲申紀・甲午紀・甲辰紀・甲寅紀の交会差(甲戌紀127度余3万9349、甲申紀81度余1万1561、甲午紀度余19万2313、甲辰紀162度余2万3122、甲寅紀115度余20万3874)を列記。交道所在日、後交月及び日を求める術、交会起角(東南・西南・西北の虧の起点)、蝕分の多少を求める術も記す。
  • 推合朔月蝕入遅疾厯盈縮術第四: 入紀以来の朔積分に遅疾差分(甲戌紀遅差分2日35万3191)を加えて合朔入暦日を求める術、次月・望の入暦日を求める術。
  • 日月行遅疾度・損益率・盈縮積分の表を一日(盈初、14度402分、益757)から二十七日、周日(14度379分、損734)まで掲げる。七日で盈のピーク(盈3388)を過ぎ、八日から損に転じ、十四日(11度515分、損816)で盈が最小(816)となる。十五日で縮初(益731)に入り、以後同様の増減で周日に至る。
  • 推加時: 歳中を定小余に乗じ日法で除して子より起算する術。少・半・太半・彊・弱等の単位区分は正光暦と同様。
  • 推日月合朔弦望度第五: 日度・月度・弦望度を求める各術(推日度・推日度又法・求日次月次日所在度・推合朔日月共度・推月度・求月次月度・求月次日度・求弦望日所在度・求弦望月所在度)を記す。二十八宿度数(北方玄武98度・西方白虎80度・南方朱鳥112度・東方蒼龍75度)、周天365度余4117分(1万6860分の1、通分615万8017)は正光暦と同一の宿度を用いる。
  • 推土王滅沒卦候上朔日術第六:「推土王日」「推土王又法」「推滅沒」「求次滅」「求次沒」「推四正卦」「求次卦」を記す。十一月から十月までの卦の配当、四正・三公・天子・諸侯・大夫・九卿への配当は正光暦と同じ。「推七十二候」も冬至の虎始交を起点に同様の七十二候を列記(語句にわずかな異同あり: 例「荔挺生」「魚上負氷」「鷹化為鳩」「田鼠化為鴽」等)。「推上朔」も同様の術。

五星見伏の術(第七)

  • 上元甲子より春秋魯隠公元年(己未)まで積29万2736算、大魏興和二年(庚申)まで積29万3997算。
  • 五星の数: 歳星(木精)672万2888、熒惑(火精)1314万9083、鎮星(土精)637万4061、太白(金精)984万3882、辰星(水精)195万3717。
  • 各惑星の合終日数・行星度・順疾順遅逆行留の詳細を正光暦と同様の形式で記す。
  • 歳星: 合終日数398日余1万2608、周虚3252、行星33度余9491。晨与日合後16日で伏、順疾(58日11度)・順遅(58日9度)・留(25日)・逆(84日12度退)・留(25日)・順遅・順疾を経て夕伏西方で日と合す。
  • 熒惑: 合終日数779日余1万5143。晨与日合後71日で伏、順疾(184日112度)・順遅(91日48度)・留(11日)・逆(62日17度退)・留(11日)・順遅・順疾を経て夕伏。
  • 鎮星: 合終日数378日余981。晨与日合後18日で伏、順(84日7度)・留(36日)・逆(102日6度退)・留(36日)・順を経て夕伏。
  • 太白: 合終日数583日余1万4502。夕見・晨見それぞれ順疾・順遅・太疾・留・逆を経て伏す。
  • 辰星: 合終日数115日余1万4818。夕見・晨見それぞれ短い順疾・順遅・留を経て伏す。
  • 「五星歴歩」「求五星行所在度」の術を記して締めくくる。

【篇構成についての注記】 - 本ファイルには『魏書』巻一百七上「志第八 律暦三上」と巻一百七下「志第九 律暦三下」の二篇が収められている。両篇とも巻末に「魏書卷一百七上考證」「魏書卷一百七下考證」がそれぞれ付されているが、四庫館臣による校勘記であり本文ではないため、本稿には含めていない。