太祖(道武帝)期
- 皇始元年(396年)夏6月、彗星が髦頭(昴宿)に現れた。彗星は不徳の君を退け有徳の君を立てる兆しとされ、この秋、太祖は冀方の地を平定し始めた。先立って大黄星が昴・畢の間に五十余日現れ、慕容氏の太史丞王先は「燕代の間に真人が起こる」と占い、11月に黄星が再び見え天下に敵無しとされた(同年6月、熒惑が哭星を犯し太后賀氏の崩御・晋帝の没に応じたとの附記あり)。
- 皇始二年(397年)6月庚戌、月が端門の外で太白を掩い、戦の兆しとされた。秋9月、燕王慕容賀驎の弟賀麟が三万の衆で新市に来寇したが太祖は義台でこれを大破した。当時晋では桓玄が朝廷を専らにし内乱の兆しがあった(正月の熒惑犯哭星、8月の熒惑守井鉞、10月の襄城王題の薨去、翌年正月の右軍将軍尹国の謀反誅殺の附記あり)。
- 天興元年(398年)8月戊辰、木星(歳星)が胃で昼に現れた。占いは「負海の君(魏)が天命を受け帝業を行う」とし、この月封畿を定め礼楽を整え、12月群臣が尊号を奉り南郊で祭天し、魏が北帝、晋が南帝となった。元年10月から二年5月にかけ月が二度東蕃上相を掩い、晋の桓玄が殷仲堪らを殺して上流を制した兆しとされた(同年5月の辰星犯軒轅大星、三年の月による鎮星・哭星犯の記事も、晋の李太后の死・桓玄の専横に応じたとされる)。
- 三年(400年)3月、彗星が奎から閣道・紫微西蕃を経て北斗魁に入り太陽守を犯し南宮を轢いて端門から出た。晋で桓玄が国号を奪う兆しとされ、劉裕もこの頃興った。四年2月甲寅、多数の大流星が牛・虚・危を経て天漢を絶ち太微・紫微を貫き、民の流亡の兆しとされた。その後晋で孫恩の乱が起き桓玄がこれに乗じて三呉の兵乱・飢饉が続き、ついに晋主を簒奪し尋陽に流しさらに江陵へ拉致した(3月甲子の月生歯・賊臣の兆し、7月丁卯の月犯天関・郊甸の兵起の兆し、10月甲子の月犯東蕃上相、桓玄の金陵陥落・司馬元顕と太傅道子の殺害、秀容の胡族の反乱誅殺なども付記される)。
- 五年(402年)4月辛丑、月が東井で辰星を掩い大戦の兆しとされ、冬10月、帝は蒙坑で秦軍を大破し乾壁を陥れ関中を震撼させ、姚興の将姚平は入水して死んだ。3月戊子、太白が五諸侯を昼に貫き、9月己未にも進賢を犯した。強侯の専横の兆しとされ、当時晋の桓玄が征伐の権を専らにし諸侯を殺して朝廷を弱めていた。冬10月、白い綿くずのような客星が南宮の西に現れ12月太微に入り、乱気の象とされたが、翌年桓玄は晋室を簒奪したものの長続きしなかった(5月・10月の月犯太微、毗陵王順が邸に還された記事も付記される)。7月己亥、月が鶉火で歳星を犯し、翌天賜元年(404年)2月甲辰にも角でこれを掩った。強臣が君の宮廷を干犯し主君を外に追いやる兆しとされ、この年桓玄は劉裕に敗れて晋帝を拉致し江陵へ逃れ5月に死んだが、桓氏の残党が再び江陵を攻め陥した(天賜元・二年の月犯斗魁・斗第一星の記事、江南の兵乱が十余年続いた記事も付記される)。
- 天賜二年(405年)4月己卯・7月己未・10月丁巳、月が東壁・室で鎮星を犯し掩った。占いは土木の事業が興る兆しとされ、翌年6月、八部の民を徴発して都城を修築し、魏は初めて邑居の制度を定めた(あるいは鎮星は后妃の位を象るともされる)。この年3月丁酉から三年・四年の2月にかけて月が三度心前星・心後星を犯し、乱臣が主君を犯し儲君が位を失う兆しとされた。先立って天興六年冬から翌年4月に月が二度軒轅を掩い、乱により政が変わり后妃がその咎を負う兆しとされ、三年5月壬寅には熒惑が氐を犯し内乱の萌芽とされたが帝は気づかず、六年7月に宣穆后(劉氏)が非業の死を遂げ太子は民間に身を隠し、やがて清河王らの乱が起きた(二年8月の熒惑犯斗・犯建・犯哭星の記事も、劉裕が晋の運を傾けたことに応じたとされる)。
- 天賜二年(405年)8月甲子から11月丙戌にかけ熒惑が少微・右執法・左執法を犯し太白が鉤鈐を掩い、南朝への譴めとされた。三年12月丙午、月が危で太白を掩い「その国が戦で亡ぶ」とされ、丁未には金星・火星がともに羽林に入った。四年正月、太白が奎に昼見し天下に兵が起こり魯の地が受けるとされ、2月癸亥、金・火・土・水が奎・婁に集まり衰えた政を革め覇王の命を定める兆しとされた。5月己丑、金星が参に昼見し、8月辛丑・9月に熒惑が執法・進賢を犯した。南燕の慕容氏が斉魯の地を保ちながら徳を修めず晋の淮泗を侵し続けたことへの譴めとされ、六年4月、劉裕が南燕を臨朐で大破し広固を落として慕容超を捕らえ建康で処刑、以後劉裕は簒奪への道を進んだ(太尉穆崇の薨去、定陵公和跋・司空庾岳の誅殺、盧循の乱で晋将何無忌が戦死し左僕射孟昶が服毒死した事件などが付記される)。
- 天賜六年(409年)6月、金星・火星が再び太微に入り帝座を犯し、蓬星・彗星・客星などの異変が数えきれないほど現れた。太史は骨肉の禍と改朝が近いと上言し、冬10月、太祖が崩じた(2月から9月の月による三度の昴犯、12月辛丑の金犯木の慕容超処刑の兆し、4月の熒惑犯水東井の記事も付記される)。
太宗(明元帝)期
- 永興二年(410年)5月己亥、月が昴を掩い蠕蠕による君主への憂いとされたが、この月社崙が長孫嵩を牛川で包囲し、太宗自ら討伐すると社崙は逃走し道中で死んだ(6月甲午の太白昼見、翌年5月の昌黎王慕容伯児の謀反誅殺も付記)。この年3月から秋8月に月が三度南斗第五星を掩い強臣の専横の兆しとされ、太白が少微・左執法を犯し、覇者の刑を杖に社稷の護衛を戮する者が現れる兆しとされた。先立って月が房次将・心前星を犯し、御者にあたる者が君を失う兆しとされたが、劉裕が晋室を弱めるべく僕射謝混を殺し荊州刺史劉毅を江陵で滅ぼし、豫州刺史諸葛長人を誅した事に応じたとされる(太白犯軒轅大星、金犯哭星、晋后王氏・姚興の死なども付記される)。
- 永興三年(411年)6月庚子・8月乙未・四年正月、月が畢・参で歳星を犯し蝕し、辺境の民が兵に阻まれ飢饉が続く兆しとされた。この年6月から五年2月にかけ金星・木星・土星・水星・火星・熒惑が東井付近に相次いで集まり、国内で兵乱と喪の会、土地の分裂・戮死する君主の出現、雍州で王を僭称する者六国の兆しとされ、赫連氏が朔方に拠って最も暴虐であったが、姚興の薨去で秦に内乱が起こり、翌年劉裕が姚泓を捕らえ建康で処刑、長安も陥落した(山胡・氐族の反乱と鎮圧の記事も付記される)。
- 神瑞元年(415年)2月、填星が東井に入り天尊を犯し旱の兆しとされ、先立つ歳星・填星の犯鬼の記事とともに、京師で連年の霜旱により五穀が実らず人々を山東に移して賑恤したとされる(月犯歳・熒惑失踪・関中大旱の記事も付記される)。4月癸丑、流星が昼に中天を西行し覆軍流血の兆しとされ、6月己巳には彗星が昴の南に現れ、翌年7月劉裕が魏の滑台を陥落させ兗州刺史尉建が斬られた。崔浩は不戦を主張したが上は衆議に押され、司徒長孫嵩は畔城で晋軍に敗れた。劉裕は関中平定後帰還して禅譲を受けたが、その後赫連氏に併合され尊号を僭称された(月犯畢・畢陽星、蠕蠕犯塞、上党の胡族反乱、諸王の薨去、常山の霍季の反乱鎮圧などが付記される)。
- 泰常二年(417年)4月辛巳・5月甲申、彗星が天市に現れ房・心の北で帝座を掃い、国号が改まり宋が興る兆しとされた。8月には金星・木星が翼で合し内兵が楚の地に及ぶ兆しとされ、翌年晋の荊州刺史司馬休之・雍州刺史魯宗之が劉裕に襲われ出奔した。10月には鎮星が太微を七十余日守り易代立王の兆しとされ、三年3月癸丑には太白が五諸侯を犯した。7月には流星が少微から太微に入り彗のようになり劉氏の覇業が三段階を経て極まったとされる(辰星の再出現、長彗星の北斗侵犯、晋安帝の崩御と翌年の宋の簒奪、木星・火星・金星の太微犯の記事なども付記される)。
- 泰常三年(418年)10月辛巳、大流星が昴から天津を経て三つに分かれ音を発し、翌年4月帝が東廟で祭祀を行い多くの藩国が朝貢した。正月己酉の月犯軒轅、4月壬申の填犯張、四年5月の辰星犯軒轅は、国に喪があり女君がこれを受ける兆しとされ、翌年5月・6月に貴人姚氏(昭哀皇后)・貴嬪杜氏(密后)が相次いで薨じた。四年正月から秋7月に月が四度太微を犯し、先立つ元年5月・7月の月犯歳星は翌年宋の建国、翌々年晋主(恭帝)の劉裕による鴆殺に応じたとされる(月犯火・太白、水害・諸王薨去の記事も付記される)。
- 泰常五年(420年)11月乙卯、熒惑が角で填星を犯し王綱が乱れる兆しとされ、12月には月が亢で熒惑を蝕し君主の薨去・内乱の兆しとされた。この月客星が翼に現れ服制の改まり・辺境の急変の兆しとされた。六年2月、月が南斗の杓星を蝕し、10月乙酉には金星・土星が亢で闘い内兵と喪・諸侯の更立の兆しとされた。十年正月・3月には月が南斗を犯し、この年5月に宋の武帝が崩じ、秋には魏軍が宋の北辺を侵し滑台・虎牢・金墉・許昌を陥し河南の地を開いた。八年には宋の太后蕭氏が死に大臣が権を専らにして主を弑逆する事件が続き誅殺された(熒惑犯斗・犯進賢・犯房星の記事、陽平王・河南王・太尉穆観の薨去などが付記される)。
- 泰常六年(421年)6月壬午、大流星が紫宮に現れ、翌年帝は橋山に行幸し黄帝を祀り幽州を巡って風俗を視察させた。10月、上が南征し、八年春には鄴宮から東郡へ進み観兵、河内から太行山に登り晋陽に至った。
- 泰常七年(422年)2月辛巳、彗星が虚・危に現れ黄河の渡し場に向かい宗廟・司人の更迭の兆しとされ、11月甲寅には彗星が室から北斗を掃い内宮・室の主命が改まり土木の事が起こる兆しとされた。八年正月、彗星が奎の南に現れ長さ三丈、東南を掃った。占いは西北の兵が徐州の地を伐ち君の後嗣が絶え天下が飢える兆しとされ、七年12月帝は寿光侯叔孫建に斉の地を巡らせ、八年春には長城を五原まで築いて蠕蠕に備えたが冬に大飢饉となり、11月己巳、上は西宮で崩じ、翌年宋がその主を廃した。以後南朝は日に日に衰え斉衛の地は戦乱の要衝となった(熒惑犯斗、彗星の司空犯の記事、赫連屈孑の薨去なども付記される)。
世祖(太武帝)期
- 始光元年(424年)正月壬午、月が心の大星を犯した。心は宋の分野・中星は君を象るとされ、この年5月、宋の権臣徐羨之・謝晦・傅亮が少帝を廃殺して弟の宜都王を立てた(宋文帝)。10月には火星が心を犯し天が「再び乱をなして君を犯す者がある」と戒めたとされ、10月壬寅には大流星が天将軍から西南へ流れ音を発し禁暴の兵・上将督戦の兆しとされた。三年正月、歳星が張で月を犯し、強大な臣が誅される兆しとされ、この月徐羨之らが誅され謝晦は江陵で挙兵したが宋の檀道済に討たれ敗死した(この年魏が赫連氏の夏の都を陥れたことも星の応とされる)。
- 二年(425年)5月、太白が昼に現れ政紀が乱れ人が代わって王となる兆しとされ、6月己丑には火星が羽林に六十余日入り禁兵が大いに起こる兆しとされた。
- 三年(426年)10月、流星が西南から東北へ流れ音は雷の如く鳥獣が驚いた。その方角の国が破れ君主が遷る兆しとされ、西南は夏、流星の首は代都に向かったとされる。
- 四年(427年)5月辛酉、金星・水星が西方で合し兵が起こり大戦となる兆しとされた。この年上が赫連昌の都城を落とし民一万余家を徙して帰り、6月には城下で昌を大破、昌は上邽へ逃げ、統万を抜いて夏の武具を尽く収め母弟・妻子を虜にし、威が四隣に及び北夷が畏れ従った。
- 神䴥元年(428年)5月癸未、太白が天街を犯し六夷の兆しが滅する占いとされた。二年5月、太白が昼に現れ「大兵が興り強国が弱められる」とされ、上が北の蠕蠕を親征して大破し、捕虜数万を得て高車を降し漠南に居らせ地を数千里開いた。
- 神䴥三年(430年)6月、火星が井・鬼を犯し軒轅に入り、秦の憂い・兵乱・君の死・旱饑の兆しとされた。丙子、大流星が危の南から羽林に入り兵が起こり負海の国と魏軍が交戦する兆しとされた。この年3月から10月に太白が二度歳星を犯し、月もこれを犯し、国君が兵刑の難に遭う、あるいは凶作の兆しとされた。12月丙戌、巨大な流星(首は甕のよう、長さ二十余丈、色は正赤)が天船から黄河を経て奎の大星・東壁に至り宋軍の兆しとされ、この年6月宋将到彦之が魏を侵したが、9月崔浩の策により帝は赫連定を平涼で撃破、12月に三秦の地を平定、翌年滑台を攻め屠り宋軍は夜逃げした。赫連定は西秦の乞伏慕末を殺したが吐谷渾の慕容璝に捕らえられ非業の死を遂げた(定州の飢饉と賑恤、10月の大閲兵などが付記される)。
- 四年(431年)3月、大流星が東南へ流れ光は地を照らし後に音が響き、大兵がこれに従う兆しとされ、当時諸将は宋軍を追って歴城に至ったが及ばなかった。4月辛未、太白が胃で昼に現れ、5月には天関を犯し10月丙辰にはこれを掩い、兵革が起こる兆しとされ、9月丙寅には赤色の流星が太微から北斗へ流れて消え、帝の徳を明らかにする挙措に応じるとされ、この月范陽盧玄ら三十六人と郡国の秀才・孝廉数百人が徴召され、翌年上は北燕を伐って十余郡を得、和龍を包囲し豪傑三万余家を徙して帰った。
- 延和元年(432年)7月、大流星が参の左肩から東北の黄河へ入って消え、大兵が魏から燕へ向かう兆しとされた。8月癸未・乙酉、太白が心前星・心・明堂を犯し亡国が近い兆しとされ、二年12月には巨大な流星が現れ君主が奔る兆しとされ、太延二年3月、燕の後主馮文通が国を去って高麗へ逃げた(月犯左角・犯斗の記事、金崖・延普・狄子玉の権力争いと陸俟の討伐鎮圧も付記される)。
- 延和三年(434年)3月丙辰、金星が参で昼に現れ魏への戒めとされ、閏月戊寅には金星が五諸侯を犯し内乱・官兵の乱とされた。己丑、月が井に入り太白を犯し秦の地に応じる兆しとされ、7月、上は隰城に行幸し諸軍に山胡白龍を討たせ9月に西河でこれを克った。宋の大将軍彭城王義康はこの頃権勢を専らにしていたが後に幽閉・廃された(月犯畢、陰平王求の薨去も付記される)。
- 太延元年(435年)5月から五年2月にかけ月・太白・火星・木星が右執法・東蕃上相・上将を相次いで犯し大臣への譴めとされ、元年10月に左僕射安原が謀反し誅殺され、三年正月には征東大将軍中山王纂・太尉北平王長孫嵩・鎮南大将軍丹陽王叔孫建が相次いで薨じ、宋の大将軍義康は豫章に流され誅され、僕射殷景仁もまもなく卒した(彗星の軒轅出現も女主への譴めとして付記され、真君元年に太后竇氏・宋の皇后も相次いで没した)。
- 二年(437年)5月壬申、彗星が房に現れ名山が崩れ国が滅ぶ兆しとされた。8月丁亥・11月辛亥、木星が鬼の積尸・鬼を犯し、涼の君主の奢侈を戒める兆しとされた。三年正月壬午、晡の刻前に黄色く橘のような大きさの星が井の左右に昼見し、かつて燕の墟に黄星が出て慕容氏が滅んだ故事と同じく涼の滅亡を予兆するとされた。四年4月己酉、華山が崩れ房の彗星の兆しと呼応するとされた。先立って金星が羽林を犯した記事などがあり、五年5月には太白が畢を犯し、6月上は自ら西征し8月姑臧を包囲、9月丙戌沮渠牧犍が降り翌年涼の地をすべて平定した(房の彗星が飢饉・大臣の死の兆しとされ、真君元年には州鎮十五が飢饉に見舞われたとされる)。
- 四年(438年)10月壬戌、大流星が文昌から紫宮に入り雷のような音を発し、将相が帝宮を守衛する事に関わる兆しとされ、翌年6月帝が西征し9月蠕蠕が塞を犯し七介山に至ったが司空長孫道生らが撃退した。この月壬午、大流星が紫微から貫索に入り大君の命の兆しとされ、翌年帝は侍臣に郡国を巡らせ風俗を視察させた。
- 真君二年(441年)7月壬寅、填星が鉞を犯し国家の安危を司る星が刑を受ける兆しとされた。元年11月から歳星が三度房上相を犯し輔臣(崔浩)を戒める兆しとされたが、崔浩はこの頃国政を専らにし帝の寵を得ていた。翌年安西李順が崔浩の讒言により処刑され、その後八年、崔浩自身も一族皆殺しとなった。
- 三年(442年)3月癸未、月が太白を犯し大兵が交戦する兆しとされた。9月乙丑、彗星が天牢から文昌・五車を経て昴・畢の間、天苑に至り百余日にわたり見え、王者の兵が北方の蛮夷を掃討する兆し・貴臣の戮死も予兆された。翌年正月征西将軍皮豹子が楽郷で宋軍を大破し、9月には上が北伐し楽平王丕・中山王辰・上自ら三軍を率い、蠕蠕の可汗を頓根河まで追い二万余騎を虜にして帰った。中山王辰ら八将軍は遅参の罪で斬られた(太保盧魯元・楽平王丕の薨去も付記される)。
- 六年(445年)2月、太白・熒惑・歳星が東井に集まり、王朝の断絶・易姓、国内外の兵喪、王公の改立の兆しとされ、9月、盧水胡蓋呉が杏城で反乱し百官を僭署、諸胡が呼応し関内が震撼した。11月、将軍叔孫抜が渭北で呉軍を破り、七年正月には太白が熒惑を犯し大戦の兆しとされ、上が呉の党を河東で討ち屠り長安に幸し、3月呉軍は杏城で敗れたが8月にはこれを平らげた(宋の太子詹事范曄の謀反誅殺、高涼王那が淮泗を巡撫し河北へ移民させた事なども付記される)。
- 九年(448年)正月、火星・水星がともに羽林に入り禁兵が大いに起こる兆しとされ、4月太白が昼に現れた。十年5月、彗星が昴の北に出て天が天街を清め昴の国(柔然)に禍する兆しとされ、この頃隔年で蠕蠕を討伐しており、秋にも上自ら親征し捕虜は百余万に及んだ(太白犯哭星、翌年の皇子真の薨去も付記される)。
- 十年(449年)10月辛巳、彗星が太微に現れ兵喪並び興り国が乱れ政が改まる兆しとされ、十一年正月・4月には太白が昼に天を経て現れ、易姓革命の兆しとされた。10月・12月には熒惑が太微に入り再三これを犯し、臣が主を戮し君がこれを憎む兆しとされた(月犯心大星・歳星の記事も付記される)。正平元年(451年)5月、彗星が巻舌に現れ太微に入り讒言の戒めとされ、6月には帝座に迫り、7月には上相を犯し屏を払って端門を出て翼・軫で消えた。翼・軫は楚(南朝)の地とされ、讒言により君主・大臣を滅ぼす兆しとされた。前年10月上が南征し、12月には六軍が淮を渡り瓜歩山に登り、六十万の騎兵が三千余里に屯営し宋人は牛を献じた。この年正月淮南の地を奪って帰ったが、6月宗愛の讒言により皇太子(景穆太子)が非業の死を遂げ、翌年2月宗愛が帝を永安宮で殺し、左僕射蘭延らも殺され、宗愛は吳王余を主に立てたがまもなくこれも殺した。同じ頃宋でも太子劭が蠱術の罪で発覚し文帝を殺して自ら即位したが、弟の武陵王駿が討ち平らげた(月犯熒惑・軒轅、太白経天、宗愛らの誅殺、髙宗の即位、尚書令元寿・長孫渇侯の争権と賜死、太后の崩御なども付記される)。
高宗(文成帝)期
- 興安二年(453年)2月、彗星が西方に現れ内に大乱、外に大兵の兆しとされ、興光元年(454年)2月には月ほどの大きさの流星が西へ流れた。先立って京兆王杜元宝・建康王崇・済南王麗・濮陽王閭文若・永昌王仁が相次いで謀反し誅殺され、この年宋の南郡王義宣・魯爽・臧質の反乱を大将王元謨らが平定した。これらは前年の彗星の余禍とされ、二人の太子が乱の首謀となり三人の君主が戮死し王侯で処罰された者は数十人に及んだとされる。
- 太安元年(455年)6月辛酉、流星が河鼓から流れ、二年後帝は遼西に幸し碣石に登り滄海に臨んだ(5月の火犯斗の記事、三呉の飢饉・疫病も付記される)。二年(456年)夏4月、熒惑が太白を犯し翌年宋将殷孝祖が魏の南辺を侵したが皮豹子が撃退し宋軍は大敗した(火星犯哭星、中山王託真の薨去も付記される)。三年(457年)11月、熒惑が房の鉤鈐を犯し強臣が制御できない兆しとされ、四年正月・3月には月が太微西蕃・五諸侯を犯し諸侯・大臣の誅殺の兆しとされた。この月太白が房を犯し月が南斗に入り宋の地の変事とされ、11月には長星が奎に現れ流血・積骨の兆しとされ、翌年宋の兗州刺史竟陵王誕の乱を宋主自ら討伐し城が陥ちると皆殺しにした。
- 四年(458年)8月・五年2月、熒惑が畢・東井を犯し飢饉・旱・疾疫の兆しとされ、6月太白が鉞を犯し兵が起こり改元する兆しとされ、この年2月司空伊馛が薨じ、12月に六鎮が飢旱に見舞われ翌年(和平元年)改元した。6月諸将が吐谷渾什寅を討伐したが軍中に大疫が起こり撤退した(流星群、吐谷渾の西方逃亡なども付記される)。
- 四年(458年)9月から五年正月、月が軒轅・氐を犯し掩い后妃の宮に関わる兆しとされ、和平元年(460年)正月丁未歳星が鬼を犯し君主の喪の兆しとされ、3月に月が軒轅を掩い4月戊戌皇太后が崩じた。また月が左執法を犯した記事もあり、和平二年に征東将軍河東王閭毘・広平王洛侯が相次いで薨じた。
- 和平元年(460年)10月、長星が天倉に現れ飢饉の兆しとされ、二年3月熒惑が鬼に入り稼穡が実らず人が互いに食む兆しとされた。定州・相州は飢饉で田租を免じられ三呉も凶作と旱害で死者が十のうち二、三に及んだ。元年6月から月が三度心大星・房心を犯し宋の地に応じ、宋の孝武帝が弟たちを虐げ後宮でも子女が次々夭折した。この年諸将が雍州で反乱した氐族を大破し、宋の雍州刺史海陵王休茂も兵を挙げたが、その後宋主が崩じ後継者は淫昏で政刑が乱れた(太白入氐、月犯哭星などが付記される)。
- 二年(461年)3月辛巳、長星が天津に現れ、千乗万騎の遠征と大河を渡る事業の兆しとされ、後年8月帝が河西で狩猟し宋主も水軍を大いに閲した。9月太白が南斗を犯し君の死・改元・大臣の誅殺の兆しとされ、11月には填星を犯し内兵・喪の会の兆しとされた。三年9月火星が積尸を犯し貴人への憂いとされ、10月には太白が歳星を犯し死君・簒殺の禍の兆しとされ、熒惑が軒轅を守り女主・宮中の兵乱の兆しとされた。11月歳星が氐に入り諸侯王が宮に入る兆しとされ、五年2月月が南斗魁第四星を犯し大人の憂い・太子の傷・宮中の内紛・大赦の兆しとされた。まもなく宋の孝武帝と宋后が相次いで崩じ、若い後継者が輔臣を誅殺し親族にまで累が及び、群臣が互いに殺し合った末に宋明帝が立ち、江南は大飢饉となり恩赦が繰り返された(太白・火星の犯井・犯上相の記事、月犯心前星、宋の少主の殺害、乙渾の乱なども付記される)。
- 五年(464年)7月丁未、歳星が心を守り、宮中の乱賊・群臣による擁立謀議の兆しとされた。7月己酉、流星が紫微を経て北辰第三星で消え大喪の兆しとされ、11月には長星が織女に現れ女主の専制が始まる兆しとされた。冬熒惑が太微に入り上将を犯し公侯の謀議・大臣の誅殺の兆しとされ、六年正月乙未、流星が五車から紫宮西蕃へ抵り消え、群臣の中に覇者の刑を執る者がある兆しとされ、4月には太白が五諸侯を犯し諸侯を専らに殺す者がある兆しとされた。5月癸卯、上(文成帝)が崩じ、車騎大将軍乙渾が尚書楊保年らを禁中で殺し、戊申には司徒平原王陸麗も殺害した。翌年皇太后(馮氏)がこれを誅殺し太后の臨朝はここに始まった(宋の内乱、流星群の記事も付記される)。
顕祖(献文帝)期
- 天安元年(466年)正月戊子、太白が歳星を犯し稼穡の不作を示すとされた。6月熒惑が鬼を犯し旱・飢饉・疾疫・兵革の兆しとされ、8月丁亥太白が房を犯し霜雨が時節を失う兆しとされた。9月甲寅熒惑が上将を犯し太白が南斗第二星を犯し貴人・将相が誅される兆しとされ、11月己酉太白が再び歳星を犯した。この年州鎮十一で旱饑となり、10月には宋の六王がことごとく戮死し、翌年宋軍が呂梁で敗れ江南は飢饉と牛疫に見舞われた。その後東平王道符が反乱を起こしたが司空和其奴が討ち滅ぼし、翌年天下に疫病が広がった(太白犯左執法・火星犯左執法、月犯井の記事なども付記される)。
- 皇興元年(467年)4月太白が歳星を犯し攻城略地の兆しとされ、6月壬寅には鬼を犯した。二年正月太白が熒惑を犯し大兵の兆しとされ、鎮南大将軍尉元・征南大将軍慕容白曜が淮泗を略定、翌年徐州の群盗の乱も元が討ち平らげ、翌々年正月上党王観が吐谷渾を西征して大破した。
- 二年(468年)9月癸卯、火星が太微上将を犯し上将が誅される兆しとされた。先立って元年6月熒惑が氐を犯し、この年11月太白も犯し、内宮への憂い・逼迫の象とされ天子がその宮を失う兆しとされた。四年10月済南王慕容白曜が誅され、翌年上(献文帝)は太后に迫られ太子(孝文帝)に譲位した(宋の明帝もこの頃没したとされる)。
高祖(孝文帝)期
- 延興元年(471年)10月庚子、月が畢の口に入り、畢は魏の分野で小人が主を欺き大人が位を易える、反臣が主を拘束する兆しとされた。12月辛卯火星が房の鉤鈐を犯し内乱の兆しとされ、乙巳鎮星が井を犯し后妃が刑柄を窃取する兆しとされた。二年正月・丙子・庚子に月が畢・東井を犯し天下に変事あり貴人が多く死ぬ兆しとされた。
- 三年(473年)8月、月が太微を犯し群陰が制御されない象とされた。この頃馮太后が朝廷で権勢を振るい小人を近づけ費用は巨億に及び、天子はただ位に居るのみであった。二年9月河間王閭虎皮が賜死され、司空東平郡王陸麗も兵に落とされ、まもなく献文帝の崩御となった。
- 四年(474年)9月己卯、月が畢を犯し、7月丙申太白が角で歳星を犯し氐に入り、劫殺の虞の兆しとされた。2月癸丑月が軒轅・歳星を犯し后妃の宮から少陽の君を犯す戒めとされた。五年3月甲戌月が填星を掩い貴人が非業の死を遂げ天下が乱れる兆しとされ、金星・火星がともに羽林に入り臣が主を賊し諸侯の兵が挙がる兆しとされた。8月月が畢を掩い11月には軒轅を犯し、承明元年(476年)4月にも尾を蝕した。5月己亥金星・火星がともに軒轅に入り相逼って同光となり、后妃への譴めとされた。母后の罪が満ちたことを天は早くから示していたが、献文帝はこれを悟らず6月に急逝し、酖毒(毒殺)の禍によるものとされた。その後文明皇太后が崩じ、孝文帝は喪の礼を尽くそうとしたが果たせず、胡氏(霊太后)がこれを踏襲してついに魏室を傾けたとされる(太白犯歳・金火入軒轅の飢饉の兆し、月掩畢の辺兵の記事、太和元年の雲中の飢饉、宋の桂陽王・沈攸之の乱とその討伐なども付記される)。
- 太和元年(477年)5月庚子、太白が張で熒惑を犯し兵喪並び興り大戦・人主の死の兆しとされ、壬申水星・土星が翼で合し太微に入り主令が行われない象とされた。占いは女主が政を執り国内で乱れる兆しとされ、9月丁亥太白が昼に現れ改姓の兆しとされた。二年9月火星が鬼を犯し主が淫佚により政を失う兆しとされ、三年3月月が心を犯し、填星が逆行して太微に入り左掖門内に留まり、必ず国を破り代を易える兆しとされた。元年3月から二年6月に月が五度太微を犯し、これは劉裕が晋を簒奪したときと同じ占いとされ、元年8月から三年5月に月が六度南斗の魁に入った。この頃馮太后が政を専らにし、宋の将蕭道成も権勢を擅にして劉氏を狙っていた。宋の司徒袁粲・沈攸之が挙兵したが失敗し殺され、三年4月道成はついに宋の君主を簒奪して斉帝となり、5月には宋の君主(順帝)を殺害した(月犯昴・房の記事、李恵・宜都王・長楽王の誅殺・賜死、月暈による大赦の記事なども付記される)。
- 三年(479年)5月から六年2月にかけ月が斗魁・心大星を頻繁に犯し、乱臣が側にあり君を亡ぼす戒めとされたが、孝文帝は常に礼を尽くし無事に六年3月斉王(蕭道成)が没した。この頃南討の兵が続き五年2月淮陽で斉軍を大破、下蔡でも斉軍を撃破した(金犯軒轅・月犯軒轅の記事、太后の淫乱、月・太白が頻繁に犯した記事も付記される)。
- 三年(479年)9月庚子から六年10月乙酉にかけ太白・月・熒惑が相次いで左執法・太微西蕃上将を犯し、淫風が糺されず朝廷の輔臣がこれを正さない兆しとされ、文明太后が幸臣を厚遇し公卿への賜与も巨億に及んだことへの譴めとされる。三年9月安楽王長楽が獄死し隴西王源賀が薨じ、四年正月広川王略が薨じ、7月に頓丘王李鍾葵が賜死され、その後任城王雲・中山王叡も薨じるなど死黜が相次いだ。
- 五年(481年)9月辛巳、填星が軫で辰星を犯し飢饉・内乱・河川氾濫の兆しとされ、京師で大霖雨、州鎮十二が飢饉となった。六年7月丙申、大流星が東壁に起こり土木の政を象るとされ、この月卒五万を発して霊丘道を通した。10月己酉流星が翼から尾へ入り文明の士を楚(南朝)へ遣わす兆しとされ、翌年員外散騎常侍李彪が斉へ使いし両国の好みを通じた(月暈による赦の記事も多数付記される)。
- 七年(483年)6月庚午・10月己亥、流星と隕星の異変が続いた。この頃太后が朝政を専らにし外戚を寵愛したため天子もこれに依存せざるを得ず、天の譴めが現れたとされ、三つに割れたのは勢力が分立する象、かつて春秋時代・漢の成帝の代の異変に重ねられている。
- 十年(486年)8月、星が三筋の流れ火のように隕ち戊寅にも流星が二つに分かれた。相次いで現れるのは事が重なる象で後の分裂の予兆とされた。先立って七年10月斗ほどの客星が参の東に現れ彗のようであり、大臣が主命を執る、旱で穀物が高騰する兆しとされ、十年9月熒惑が歳星を犯し旱による飢饉、八年から十一年にかけ民が飢え続けたとされる。
- 十一年(487年)3月丁亥、火星・土星が南斗で合し内乱の兆しとされた。当時斉の主は諸侯王を過酷に統制し、天がこれを戒めたとされる。5月丁酉太白が昼に天を経て現れ庚子には畢を犯し辺兵の兆しとされ、この頃蠕蠕が辺境を侵し、翌年斉将陳達が南鄙を伐ち灃陽を陥れ、その翌年斉の主の子子響が誅殺された。