高祖(孝文帝)期
- 太和十二年(488年)11月戊午、太白が歳星・火星を犯し喪疾の兆しとされ、丙寅には火星が木星を犯し内政の乱・主君の喪の兆しとされた。12月壬寅太白が填星を犯し后妃が喪祥を受ける兆しとされ、十三年2月には熒惑が填星を犯し、いずれも文明太后への譴めとされた。先立って十一年6月・12月、この年6月に歳星が昼に現れ、孝文帝の仁聖な資質に太后が権を分けて干渉していたことへの譴めとされ、9月丙午には巨大な流星が五車から紫宮を経て天極に至り雷のような音を発し、天下大凶・国に喪・宮が空になる兆しとされた。十四年3月填星が哭泣の星を守り、4月丙申火星が鬼を犯し喪の兆しとされ、6月には巨大な流星が紫宮から西行し、8月には月・太白がともに軒轅を犯し、9月癸丑、太皇太后(馮氏)が崩じた。帝は三日間哭き続け七日間飲食を絶ち、喪服を着て陵まで徒歩で往復するなど深く哀悼した(十四年から十七年にかけての月・填星犯軒轅の記事も付記され、林貴人・馮貴人(幽后)の顛末が記される)。
- 十三年(489年)12月戊戌、填星・辰星が須女で合し政令が行われず陰謀のある兆しとされ、十四年3月庚申歳星が牛を守り君主が親戚を愛さず貴人が多く喪に服す・飢饉の兆しとされた。この年太白が三度熒惑を犯し10月には氐に入り11月には大流星が氐へ流れ、金火相剋の兵喪の兆しとされ、十五年3月壬子歳星が填星を虚で犯し、癸巳には木・火・土が虚で合し国が乱れ専政・兵喪により侯王が立つ兆しとされた。9月乙丑太白が斗第四星を犯し、戊子には巨大な流星が少微から南宮の帝坐に至り賢を凌ぐ盛大な臣がある兆しとされ、17年正月戊辰金・木が危で合し、これも齊の兆しとされた。4月戊子太白が五諸侯を犯し諸侯を専殺する者がある兆しとされ、7月に斉武帝が没し西昌侯が二君を殺し自立、斉明帝となった。これにより高武の諸子・王侯数十人が相次いで誅されほぼ根絶やしとなった(十五年から十七年にかけての月犯建星・牽牛・房の記事など多数、いずれも斉室の混乱に対応するとされる)。
- 十二年(488年)4月癸丑、月・火・金が井で会し、辛酉には金星が火星を犯し甲戌には火星・水星がともに井に入り、雨暘の不順・王業の交替・諸侯貴人の多死とされ、この年月が四度氐に入り10月には辰星も氐に入った。閏月丁丑火星が氐を犯し乙卯にも入り大旱・国政の交替の兆しとされ、両雍・豫州が旱饑となり翌年州鎮十五が大飢饉、十四年には太后が崩じた(諸王の薨去・反乱記事も付記される)。
- 十五年(491年)4月癸亥、熒惑が羽林に入り十六年2月壬子には太白も入り天下に兵が起こる兆しとされ、以後三月・四月・五月・十月・十七年四月・八月・十二月にも月が羽林に入った。先立って陽平王頤が十二将軍・騎士七万を統べ北方の蠕蠕を討ち、この年8月には上が三十余万を自ら率い斉を撃ったため以後連年南方で軍事が続いた(済陰王鬱の賜死、南平王霄・三老尉元・安定王・司徒馮誕・太師馮熙・広川王諧の薨去も付記される)。
- 十七年(493年)2月庚戌、火星・土星が室で合した。室は先王が宮廟を制する星、熒惑は天の視・填星は司空を象り遷都の兆しとされた。この年9月上は斉討伐を中止し遷都を大いに議し、冬10月司空穆亮・将作董邇に洛陽の宮室修築を命じ翌年遷都した。これにより服色・文物が大いに整い南宮(洛陽)の応に適ったとされる。
- 十七年(493年)2月丁丑、太白が井を犯し辛丑には鬼をも犯し、5月・9月にも昼見し兵の祥・雍州に関わるとされた。この月火星・木星が婁で合し婁は徐州の地とされ乱の兆しとされ、8月辛巳熒惑が井に入り兵革の兆しとされた。翌年2月征南将軍薛真度らに襄陽・義陽・鍾離・南鄭への出兵を命じ、翌々年正月平南王粛が義陽で斉軍を大破し降る者一万余りに及んだ(沔北での大勝も付記される)。
- 十八年(494年)4月甲寅、熒惑が軒轅に入り后妃への戒めとされた。当時左昭儀が幸を得て馮后を讒訴しており、19年3月に月が軒轅を犯し、二十年7月辛巳には填星を掩い、この月馮后がついに廃され憂死し左昭儀が幽后として立った。翌年林貞后が追廃されて庶人となり、二十二年正月には月が再び軒轅を掩い11月には彗星が軒轅から鬼・天漢まで現れ、幽后が翌年賜死される兆しとされた。19年6月壬寅、熒惑が端門に出て、翌年皇太子恂が不軌の罪で庶人に落とされ、二十一年10月壬午には熒惑・歳星が端門内で合し大喪の象とされた。二十二年2月乙丑・3月丙午、木星・火星が掖門内で合し月もこれに及び后妃に咎があるとされ、翌年4月帝が崩じた。当時帝は礼儀・喪服の制を修めようとしていたが果たせず崩じ、少君(世宗)が継いだため事業は中断した(流星が楼船の攻めや大赦の兆しとされる記事、上の南伐や皇后馮氏の賜死の記事も付記される)。
世宗(宣武帝)期
- 景明元年(500年)4月壬辰、大流星が軒轅左角から翼へ流れ三段に分かれた。翼は皇后の一族を象り女主・後宮での讒殺、彭城国への憂いの兆しとされた。当時彭城王勰は賢明で世宗を輔けていたが、母族に阿り高肇の讒言を容れ、翌年勰は廃され後年高氏に鴆殺され貴嬪が代わって立った。これにより小人が台頭し讒乱の風が起こったとされる。この歳、北鎮と十七州が大飢饉となった(広陵王羽の薨去なども付記される)。
- 二年(501年)正月己未、金星・火星が奎で合し兵喪・逆謀・大人の憂いの兆しとされた。3月丁巳、流星が五諸侯から五車を経て天潢に至り三光に分かれ地を照らし、諸侯が覇を唱える兆しとされた(魏収はこれを咸陽王禧の謀反の兆しとした)。戊午填星が井で鉞を犯し人君に戮死する者がある兆しとされた。この頃蕭衍が襄陽で挙兵し東昏侯を討とうとし、南康王宝融を帝に推戴、斉に二君が並立した。8月戊午金星・火星が翼で合し、11月甲寅金星・水星がともに西方に現れ、東方の国が大敗する兆しとされ、蕭衍が夏口・尋陽を平定して東下し東主の軍が連戦連敗、12月斉将張稷が東昏侯を斬って降った。三年正月火星が房を犯し、癸巳填星が井で逆行し大臣が主を賊し政を改める戒めとされた。3月金星・水星が須女で合し女は斉の分野で兵誅の兆しとされ、2月丁酉流星が東井から紫宮に入り北極で消え、禅譲・大喪の兆しとされ、この月斉の諸侯が相次いで誅殺され、蕭衍が建康で禅譲を受け梁武帝となり少主(和帝)は殺された(月犯斗魁の記事、飢饉・大赦の記事も付記される)。
- 三年(502年)8月丙戌、大流星が天中北から流れ天子の使者が北方に赴く兆しとされ、四年9月壬戌にも大流星が五車東北から流れ兵が東北に起こる兆しとされた。この年2月・3月に月が太白を掩い大戦の象とされ、揚州の諸将が陰陵で梁軍を大破、11月には左僕射源懐が北辺を安撫し、翌年邵陵でも梁軍を大破、9月には蠕蠕の侵犯を源懐が撃退した(月暈による旱・赦の記事も多数付記される)。
- 正始元年(504年)正月戊辰、流星が相星から紫宮に入り北極で消えた。紫宮は后妃の内政、これを輔相が干犯することは道理に悖るとされ、二年6月癸丑にも流星が織女から室へ現れ王后の憂い・女子の会の兆しとされた。三年正月己亥、大流星が天市垣西から紫蕃を貫き北極に入り、臣が主を犯し天下大凶の兆しとされ、翌年高肇が独占の寵を得るため皇后(于氏)・皇子昌を鴆殺し高嬪を后に立てた(太白犯軒轅・木犯昴の記事も付記される)。
- 三年(506年)6月丙辰、太白が昼に現れ南朝の兵が強まる兆しとされ、8月梁軍が辺境を侵したが9月安東将軍邢巒が宿豫で大破し将三十余人を斬り数万を捕虜にした。10月甲寅月が太白を犯し大戦の象とされ、翌年中山王英が淮南で敗れ十のうち八、九の兵を失った(月暈による兵・赦の記事も付記される)。
- 四年(507年)7月己卯、彗星が東北に現れ、天が大臣・貴人を讒言により戮する兆しとされた。かつて魯の哀公十三年に彗星が東方に現れた翌年、諸夏が衰え蛮夷が覇を唱えたという故事にちなみ、これと同じ天戒とされる。この年高肇が皇后・皇子を鴆殺し、翌年諸王をも讒殺し天下がこれを冤罪と見た。高肇は東夷の俘虜出身でありながら先帝の法を乱し禍を重ねたとされ、魏の乱の始まりとされる。
- 永平元年(508年)3月戊申、熒惑が東壁で月と相接し諸侯が謀を巡らす兆しとされ、癸未填星が太微で逆行し左執法の西にあり后党が政を執る象とされた。この月月が畢を犯し6月にも掩い貴人の死の兆しとされ、庚辰太白・歳星が柳で合し内兵が諸侯を賊する兆しとされ、8月京兆王愉が高肇誅殺を名目に反乱、9月に太師彭城王勰・愉ともに死んだ(豫州の白早生の反乱と鎮圧なども付記される)。
- 二年(509年)3月丁未、流星が天紀から市垣で彗のようになり政の紀綱が乱れる兆し・地震の兆しとされた。この月火星が鬼の積尸を犯し疫病の兆し、4月乙丑には金星も犯し、5月太白が歳星を犯し兵乱・饉饑の兆しとされ、翌年7月庚辰流星が騰蛇から紫宮に入り北極で消え水旱・地震の兆しとされた。実際に翌年平陽で大疫が起こり死者三千人近く、州郡二十で大水、冀定で旱饑、四年には朐山の役で軍がほぼ全滅、繁畤・桑乾・霊丘・秀容・雁門で地震が起こり泉が湧き八千余人が死んだ。延昌三年の詔で「近年山鳴地震が止まない」と述べ、翌年正月帝は崩じた(中山王略・広陽王嘉の薨去も付記される)。
- 二年(509年)9月甲申、歳星が太微で右執法を犯し12月乙酉には逆行して左執法を掩い、三年閏月壬申にも順行してこれを犯した。当時高肇が尚書令の任にあり歳星の反復はこれを示すとされ、四年間五歳を経て高肇は誅された(四年の熒惑犯軒轅・犯執法の記事も付記される)。
- 四年(511年)正月戊戌、流星が張から参へ流れ音を発し、東方から兵が来て代(山西北部)で大敗する兆しとされ、先立って月が太白・胃を犯し大戦の象とされ、10月戊寅大流星が羽林南で彗のようになり王師潰乱の兆しとされた。この頃梁の朐山鎮の将が降ったため徐州刺史盧昶が援軍を送ったが12月淮南で大敗し十余万を失った(帝の崩御も付記される)。
- 四年(511年)12月己巳、歳星が房上相を犯し延昌元年(512年)3月にも房の鉤鈐・上相を犯した。かつて高肇が尚書令の時歳星が執法を三度侵し、司徒に昇った際も再びこれを侵し、二年を経て帝は崩じ高肇も誅滅された。
- 二年(513年)4月庚午、熒惑が軒轅大星を犯し10月壬申には月も軒轅を失行して犯し、延昌元年3月には填星が氐を九十余日守った。徳ある太子女主が宮に居ない兆しとされたが10月皇太子が立てられ孝行の家に爵を賜り、二年3月乙丑填星が房を守り女主が黜けられる・地震の兆しとされた。4月丙申・7月戊午に月が填星を掩い后妃の交替の兆しとされた。三年8月太白が軒轅を犯し12月月が熒惑を掩い、いずれも高后(高氏皇后)の凶悍への譴めとされ、その専横のため世宗の後嗣がほぼ絶えかけ、翌年帝が崩じると后は尼として瑤光寺に落とされ、まもなく胡氏に害された。
- 延昌元年(512年)8月己未、流星が五車西南から畢へ流れ辺兵の象とされ、二年11月戊午にも同様の流星が現れ、12月己卯には流星が二つに分かれ流れ偏師の象とされた。三年6月辛巳太白が昼に現れ西方の兵が大いに起こり王者の喪がある兆しとされ、11月大将軍高肇が蜀を伐ったが世宗の崩御により兵を引いた(徐玄明の投降と張稷の斬殺も付記される)。
- 元年(512年)2月乙未、流星が太陽守から北斗を経て紫宮に入り北極・華蓋で消え、臣が国命を執る兆しとされた。前年8月から10月に月が二度太微に入り、この年3月にも、12月甲戌には月が太微で火星を犯し、君が三年を出ずに死ぬ、貴人が権を奪われる兆しとされた。二年3月辛酉熒惑が太微を犯し天下不安・立君の戒め、9月丁卯屏星を犯し、翌年正月世宗が崩じ王室は衰え政は公輔の手に移った(粛宗の即位・大赦の記事も付記される)。
- 四年(511年)5月庚戌・9月乙丑・10月癸巳、月がすべて太微を犯し強臣が執法を専らにする象とされた。閏月戊午月が軒轅を犯し女主への譴め、11月庚寅木星・火星が室で会し内乱・淫事・諸侯の逼迫の兆しとされた。三年9月太白が執法を犯し、この年8月領軍于忠が僕射郭祚を擅殺、9月太后が臨朝し清河王懌に淫し、羽林千余人が張彝の邸を焼き死者百数に及んだが朝廷は討伐できず大赦した(皇太后高尼の崩御も付記される)。
- 四年(511年)10月、太白が南斗を犯し呉の分野で大兵の兆しとされ、先立って三年4月流星が天津から虚・危へ流れ大衆の出動の兆しとされた。梁が浮山堰を築いたため諸将がこれを攻め、閏月には大流星が七星南から東井まで流れ兵起こり水禍に終わる兆しとされた。この頃鎮南崔亮が梁軍を硤石で攻め、翌年鎮東蕭宝寅が淮北の梁軍を大破、9月には淮堰が決壊し梁人十余万が海に流された。
粛宗(孝明帝)期
- 熙平元年(516年)3月丙子、太白が歳星を犯し12月甲辰には月も犯し、強盛な陰(太白)が少陽の君(歳星)を凌ぐ兆しとされた。正月熒惑が房を犯し4月・癸卯には月も房を犯し、天下に喪があり諸侯が覇を興し将相が誅される兆しとされた。11月大流星が織女から東南へ流れ王后への憂い・女子の会の兆しとされ、翌年高太后が崩じ司徒国珍も薨じ、その後僕射于忠・司徒任城王澄が薨じ、太后(霊太后)が清河王・中山王を幽閉・誅殺した。
- 二年(517年)6月癸丑、大流星が河鼓から牛へ流れ、11月にも流星が河鼓から西南へ流れ、神亀元年(518年)4月壬子にも同様であった。河鼓は軍旗の応で、宋の泰始年間の故事にならい、秦州属国の羌・南秦・東益の氐が反乱し、7月には河州の却鉄怱が水池王を自称して蜂起、行台源子恭らが討伐に赴くなど朝廷が多事であった。
- 神亀二年(519年)4月甲戌、大流星が天市垣西から尾へ流れ后妃の事に関わる大衆動員の兆しとされ、この年9月太后が嵩高に行幸し、翌年諸王が相次いで処罰され大赦があった。
- 二年(519年)8月己亥、太白が軒轅を犯し、この月月も犯し、正光元年(520年)正月にも月が軒轅大星を犯した。4月庚戌金星・火星が井で合し王業の交替・君の失政・大臣の乱・大敗の兆しとされ、5月丙午太白が月を犯し将相の相攻・秦国の戦の兆しとされ、7月には太白が角(天門)を犯し朝廷の謀が破れる兆しとされた。この月侍中元乂が太后を北宮に幽閉し太傅清河王懌を殺し、8月には中山王熙が挙兵して元乂を討とうとしたが敗死、翌春衛将軍奚康生の禁中での討伐計画も露見して死に、冬には氐族討伐の軍も敗れた。
- 正光元年(520年)9月辛巳、光り輝く彗星が東方に現れ、布衣(庶民)から蜂起する禍が続く兆しとされ、かつて正始年間にも東北に讒言の兆しの彗星が現れたことに重ねられ、三年後に北鎮の乱が起こり関中にも波及、以後二十余年戦乱が続いたとされる。
- 二年(521年)4月甲辰、火星・土星が危で相犯し、11月辛亥金星・土星も危で相犯し、天下が乱れ甲兵が大いに起こり王后が専制し国を虚しくする兆しとされた。四年4月己未には火星・土星が室で相犯し後宮の内乱、天子が寿を全うしない兆しとされた。あるいは魏氏は軒轅の裔・填星の物であり赤霊が母・白霊が子で建国の命を伝えるとされ、その後太后が淫昏となり天下が大いに乱れ、上(孝明帝)が佞臣を誅そうとしたため鄭儼らが恐れて太后に帝を鴆殺させた。その後爾朱氏が并州に興り斉室の運を開き、洛陽遷都の事業は廃墟となったとされる(粛宗の崩御も付記される)。
- 三年(522年)7月庚申、大流星が王良から東北へ流れ軍事の兆しとされ、この日月が昴の北三寸にあり、11月乙卯にも同様で匈奴に兵が加わる兆しとされた。先立って蠕蠕の阿那瓌が失国し北鎮の師がこれを納れ、この年8月蠕蠕の後主が懐朔鎮に来奔したが翌年阿那瓌が約に背き塞を犯し、尚書令李崇が騎兵十万で討伐したが追いつかず戻った。
- 三年(522年)2月丁卯、月が太白を掩い天下に大兵が起こり涼州にのみ災が及ぶ兆しとされた。3月癸卯、大流星が西北角から紫宮に入り三段に破れ大出兵の兆しとされ、4月癸酉には大奔星が紫微から北斗東北へ流れ盛怒の象とされた。四年8月乙亥月が畢で熒惑を掩い辺城の兵乱の戒め、10月乙卯太白が斗口を犯し大兵が起こり戮辱される者がある兆しとされた。五年正月、沃野鎮の破落汗抜陵が反乱し臨淮王彧が討伐したが五原で敗れ、6月には莫折大提が秦で反乱し雍州刺史元志が討伐したが隴東で大敗、翌年南方の諸将は梁軍をしばしば破ったが8月には杜洛周が上谷で蜂起、その後鮮于修礼が定州で反乱、王師が北征を重ねる中冀方は大震し、やがて葛栄がこれを継いで河北を陥落させた。
- 先立って二年9月から歳星が左執法を犯し、三年正月には逆行して再犯、5月丙辰にも掩った。当時宦官劉騰が元乂と結んで実権を握っており歳星の反復はこれに応じ高肇の時と同じ占いとされた。四年2月劉騰が死に元乂は後ろ盾を失い、11月庚戌には歳星が房上相を犯し、五年4月己丑にも逆行して犯した。翌年皇太后が政を返され元乂は廃黜された。かつて高肇の時も歳星が尚書令・上相を三度侵したのと同じ現象が今回三度執法を犯して劉騰の死・元乂の失脚をもたらしたとされ、異なる時代に同じ符合を示したとされる。
- 孝昌元年(525年)5月、太白が軒轅を犯し8月には張で盛大となり、暴虐な兵が河南に及ぶ兆しとされた。12月火星が鬼を犯し大賊が大人の側にある、后が淫佚により政を失う兆しとされ秦の分野に応じるとされた。二年正月癸卯金星・木星が牛で相犯し11月戊申には女で相犯した。牛は農夫・女は蚕妾を象り、天は耕織の務めを失う兆しを示し乱兵の大戦が斉・呉に及ぶとされた。この年8月甲申月が胃で鎮星を掩い閏月癸酉・三年正月戊辰にも掩り、女君(霊太后)が兵刑の禍に遭う、天下に大喪があり主を失い貴人が兵死し国が滅ぶ兆しとされた。二年3月奔星が紫微東北へ流れ王師が大出動し邦が君を失う兆しとされ、6月にも奔星が大角から紫宮に流れ入り消えた。10月には星が月中に入って消え、その国が滅ぶ、あるいは星が戻れば国が復興する兆しとされた。この年4月から三年9月に熒惑が二度軒轅大星を犯し、武泰元年(528年)正月にも逆行して犯し、主命が失われ女君の乱の兆しとされた。3月庚申月が畢大星を掩い辺兵が起こり貴人が多く死ぬ兆しとされ、この頃淫風が甚だしく王政が緩み、大河以北・関以西で軍が屠られること数えきれず、蕭宝寅が雍州で叛き梁軍が淮泗を伐ち続け、青土の民は苦しみ生きる望みを失った。この歳2月帝(孝明帝)が急逝し、4月爾朱栄が大兵で黄河を渡り太后・幼主を沈め王公以下二千人を殺し、以後晋陽で専権を振るい天下に号令した。
荘帝(孝荘帝)期
- 永安元年(528年)7月癸亥、太白が左角を犯し四寸離れ光芒が相掩り、大戦不勝・貴人来降・謀の不成の兆しとされた。二年閏月熒惑が鬼の積尸に入り兵起こり西北で刑誅がある兆しとされ、この年北海王顥が梁軍で考城を陥し虚に乗じて洛陽に入ったが7月に王師が大破し顥は戮死した。翌年爾朱天光が万俟醜奴・蕭宝寅を安定で討ち捕らえ処刑した。
- 二年(529年)11月、熒惑が鬼から太微西掖門に入り上将を犯し東掖門から出て上相を犯し、日を重ねて留まり逆行して西へ向かった。12月乙丑月もこれを掩い、三年正月癸未逆行して東掖門に入り、己丑月が太微に入り熒惑を襲い、辛卯太微中を行き暈をなし、3月己卯右執法の北一尺五寸に十四日留まり、4月には月・熒惑がともに太微を犯し暈をなした。魏の興り以来これほど反復した例は無く、当時孝荘帝は権臣(爾朱栄)を誅そうと魏室再興を志しており、その誠意が天に感応したとされる。占いは権臣の誅殺・大兵の乱・貴人の非業の死・天下の滅亡の兆しとされ、5月己亥太白が参(晋陽の地)で昼に現れ乱の萌芽がここにあると示したとされる。7月甲午、彗星が東北方の中台の東に現れ長さ六尺、色は正白、東北へ行き西南を指し、丁酉には下台の上星から西北一尺で朝方沈み、庚子夕方には西北方に現れ長さ一尺、東南を指しながら氐へ移り、8月己未に見え始め癸亥に消えた。彗星が太階(三台星)に現れることは陰謀・姦邪が興る兆しとされ、公輔の穢れを払う一方、権臣が滅ぶ象、再び陵奪の乱が起こる象ともされた。三か月見えたのは変事が急迫している証、内宮に及んだのは臣が主に反する兆しとされ、先立って2月壬申大流星の群れが西北へ千を数えるほど流れ晋陽の地に向かい、人々が徙りその君も従う象とされた。戊戌には大奔星が北極東から紫宮を貫いて出、遷君の応とされ、9月上(孝荘帝)は太原王栄(爾朱栄)・上党王天穆を明光殿で誅殺したが、その夕方爾朱氏の党が西陽門を攻め洛陽に迫り、12月洛陽は失陥、帝は晋陽で崩じた。以後南朝との攻防・簒奪の禍が相次いだ(永安元・二年の月犯畢の記事、三年の太白犯軒轅の記事なども多数付記される。これらは畢が魏建国の命の象であり、天下の変・君の大憂・上将の誅の兆しとされ、爾朱兆の乱、長広王・節閔帝・安定王の擁立と廃黜、孝武帝の即位に至る三少帝の相次ぐ崩御、洛陽再陥、後宮の陵辱などに対応するとされる)。
節閔帝・後廃帝期
- 普泰元年(531年)5月辛未、太白が西方に出、月と指一本ほどの間隔で並び戦の兆しとされた。先立って前年11月辛丑にも月が太白の北で同様に接近し、爾朱氏が南侵し王師が敗れたことに応じ、今回も再来の兆しとされた。10月甲寅、金星・火星・歳星・土星が参・觜で会し、晋魏の地に兵喪並び興り覇者の君が興る兆しとされた。この頃渤海王高歓が信都で挙兵し中興と改元、11月己卯には奔星が太微東北へ流れ雷のような音を発し、大臣に外事があること、中国が君を失い王を立て主を遷す兆しとされた。当時爾朱氏が北伐の軍を整えていたが、翌年3月癸巳火星が逆行して氐を犯し天子がその宮を失う兆しとされ、閏月庚申歳星が鬼で天尸を犯し戮死する君主がある兆しとされた。まもなく爾朱兆らは韓陵で大敗し十余万の軍を失い、4月に孝武帝が即位、この年のうちに三人の廃帝が相次いで殺された。
孝武帝(出帝)期
- 永熙元年(532年)9月、太白が昼に天を経て現れ、11月辛丑、大流星が昴の北から東南へ流れ畢を経て参を貫き音は雷の如くであった。辺境の兵が塞垣を犯し大司馬(高歓)と合戦する兆しとされ、翌年正月丁酉、渤海王高歓が爾朱兆らを赤洪嶺で追撃し大破、爾朱氏は殲滅された。
- 二年(533年)4月、太白が昼に現れ、9月丁酉火星・木星が翼で合し一寸離れ光芒が相掩り、内乱・姦臣の謀・主君の憂いの兆しとされた。甲寅金星・火星が軫で合し七寸離れ、事を挙げ兵を用いるべきでない兆しとされた。翼・軫は南宮の藩・荊州の地でもあり、三年3月癸巳には奔星が匏瓜西から市垣に流れ、陰謀・大事の発起の兆しとされた。当時斛斯椿らが上に高歓討伐を説き、荊州刺史賀抜岳もこれに謀に加わっていたが、高歓もこれを知り晋陽の兵を挙げた。7月上は自ら十余万を率い河橋に至ったが歓の軍を恐れて戦わず長安へ幸した。10月渤海王は改めて孝静帝を立て天平と改元し、これにより東西に分裂した。この月歓は侯景に命じて荊州を攻め落とし、賀抜勝は南へ逃れた(高歓・宇文泰の擅権、月暈による四度の大赦の記事も付記される)。
- 三年(534年)5月己亥、熒惑が逆行して南斗魁第二星を掩い斗口に入った。先立って元年11月、熒惑が斗に十余日入り出て逆行し再び入り六十日で去った。占いは中国大乱・道路不通・天下の政の改まり・呉越の君の断絶の兆しとされ、この年東西の帝が山河を割拠して戦国の世となり、10月から翌正月にかけて梁・魏(東西)三帝がすべて大赦・改元した。あるいは火星の乱気が斗(寿命)を干すのは老衰による荒廃の戒めとされ、この頃梁武帝は既に七十歳を過ぎ講学に専念して政を怠っており、天がこれを戒めたが悟らず、後に侯景の乱で命を落としたとされる。
孝静帝(東魏)期
- 天平二年(535年)、彗星が太微から下台・室壁を経て消えた。南宮は成周(洛陽)の墟、孝文帝の遺業とされ、彗星による易政・徙王の戒めとされた。その後両覇(高歓・宇文泰)が権を専らにし、河南の新邑が戦場と化した。三年後、興和元年(539年)9月、司州の卒十万を発して鄴都を営み、10月に新宮が完成した(月犯心の記事も付記される)。
- 元象二年(539年)7月壬戌、金星・土星が七星で合し癸亥にはこれを犯し、封畿の戦の兆しとされた。先立って前年12月癸丑太白が月を蝕し、この年3月壬申にも太白・月が一寸の間隔で合し大戦の祥とされた。金が月(強大な国の象)と合したことから秦(西魏)の軍が勝つ兆しとされ、12月には流星が天市垣西から流れ、興和三年正月渤海王高歓が夏州を攻略、10月丁丑には月が火星を犯し大将が戦死する兆しとされ、12月大都督竇泰が潼関に入ったが翌年正月宇文泰がこれを撃破して斬り、10月渤海王と沙苑で戦って歓軍が敗れ、この月独孤信が洛陽を陥した。
- 三年(540年)12月、熒惑が歳星を犯し内乱・臣が王を謀る兆しとされ、四年正月客星が紫宮に現れ国の大変の兆しとされた。2月壬申・8月癸未月が二度五車東南星を掩い兵起こり道が通じない兆しとされ、11月太白が昼に現れ軍が興り不臣の兆しとされた。五年2月庚戌・3月甲子填星が逆順行して上将(司徒)を再犯し、6月太白が東井に入り秦(西魏)の兵事・大臣への譴めの兆しとされた。元象元年(538年)7月太白が柳(河南の地)で昼見し、8月辛卯大流星が房・心北から東南へ流れ三段に分かれ、軍が三つに分かれ破れる象とされた。この頃行台侯景・司徒高昴が金墉を包囲し、西帝(西魏文帝)と宇文泰が自ら救援に赴き河陰で交戦、中軍が大勝したが司徒高昴は戦死、左右軍が不利となり西軍(東魏軍)は敗れ将二十余人を失い六万が降った。この月西魏の大傅梁景叡が長安で反乱を起こし関中が震撼したがまもなく誅殺された(乙皇后の廃立や蠕蠕后の死なども付記される)。
- 興和元年(539年)2月壬子、火星が井を犯し秦(西魏)の兵乱・大臣への譴めとされ、4月には鬼にも入り兵喪・土地分裂の兆しとされた。二年11月甲戌太白が氐で填星と相犯し、四年7月壬午には火星・木星が井で合し一尺離れ、前年(天平年間)と同じ占いとされ、翌年北豫州刺史高仲密が武牢に拠り西魏へ寝返り、宇文泰が援軍を率いたが渤海王(高歓)と邙山で戦い西軍が大敗、王侯将校四百余人を捕らえ六万余級を得た(月暈による兵・飢饉・赦の記事も多数付記される)。
- 先立って元年10月辛丑、彗星が南斗に現れ長さ一丈余り、11月丙戌には太白から三尺の距離で東南を指し、翌年2月乙卯に婁で消えた。彗星が南斗(呉の分野)に現れることは君主が誅される兆しとされ、微かに始まり次第に盛大となり兵星と合したことは劫殺の萌芽が徐々に進行し人君がこれを見抜けず兵乱が抑えられなくなる戒めとされた。二年4月己丑金星・木星が奎で相犯し丙午には火星・木星も相犯した。奎は徐州の地、建国の命令と君主の欠点を省みる象とされ、当時梁の主(武帝)は年老い、賢明な太子(蕭綱)に政を委ねなかったため領軍朱异らが実権を侵食し、武定五年(547年)侯景が河南六州を占拠して叛き東魏と結び、この年12月梁軍は彭城で大敗して五万余りを捕虜にされ江淮の間は騒然となった。翌年梁軍はさらに十万規模で敗れ侯景は長江を渡り三呉は大荒れとなり流民が半ばに及び、淮南二十六州が魏に内属した。かつて三星が危で合してから九年後に高氏が覇を唱えたように、今回奎で合してから梁が滅んだのも天の大数とされる。
- 武定二年(544年)4月丁巳、熒惑が南宮上将を犯し戊寅には右執法をも犯し、処罰が行われる兆しとされた。四年4月庚午金星が昼に現れ6月癸巳月が畢に入り9月壬寅太白が左執法の東南三寸にあり、五年正月月が畢大星を犯し貴人への譴めとされた。先立って9月大丞相高歓が玉璧を包囲したが克てず、この月晋陽で薨じ、辛亥侯景が反乱、僕射慕容紹宗がこれを討ち、8月淮南三王の謀反が誅され、翌年紹宗が潁川で王思政を攻め水攻めで陥落させた。
- 七年(549年)9月戊午、月が斗で歳星を掩った。斗は天廟・帝王の寿命を司る星であり、大人の簒殺・死亡の禍の兆しとされ、この年梁武帝が侯景の乱により憂死し、翌年北斉の文宣帝が即位、その翌年西魏の文帝、および梁の簡文帝も没するなど天下に大変事が相次ぎ江南は特に甚だしかった。八年3月甲午、歳星・填星・太白が虚(斉の分野)で合し、王朝の断絶・改立の兆しとされ、熒惑も加わって四星が集まった。5月丙寅、孝静帝は斉(北斉)に禅位した。この年西魏(大統十六年)では両主が並立していたが東帝(孝静帝)が全魏の地を保っていたため天官の正統とされ、かつて宋の武帝が北伐した際四星が奎に、西伐した際は井・参に集まったことで渤海(高歓)が覇を始めた例、四星が危に集まって文宣帝が禅譲を受けた例と重ねられ、帝王の業には必ず天の徴があるとされる。その後六年を経て西帝(恭帝)が周(北周)に禅譲したが、この頃には天文の記録も伝わらなくなったとされる。