莫槐から遜昵延まで
- 匈奴宇文莫槐は遼東の塞外に出自し、その先は南単于の遠属である。代々東部大人となり、その語は鮮卑と頗る異なった。人々は皆髪を翦って頂上に留め首飾りとし、長さが数寸を過ぎれば截り短くした。婦女は長い襜を披て足に及ぶが裳はなかった。秋に烏頭を収めて毒薬とし禽獣を射た。
- 莫槐は民を虐使したため部人に殺され、弟の普拔が代わって大人となった。普拔が死し子の丘不勤が立ち、平文帝の娘を娶った。丘不勤が死し子の莫廆が立った(本名は太祖の諱に触れる)。莫廆は弟の屈雲を遣わして慕容廆を攻めさせたが廆に撃破され、また別部の素延を遣わして棘城で慕容廆を伐ったが、また慕容廆に破られた。当時莫廆の部衆は強盛で自ら単于と称し塞外の諸部は皆畏憚した。
- 莫廆が死し子の遜昵延が立ち、衆を率いて棘城で慕容廆を攻めた。廆の子翰は先に外に戍っており、遜昵延は「翰は素より果勇で必ず人の患いとなる、先にこれを取るべきで城は憂うるに足りない」と衆に語り、騎数千を分けて翰を襲わせた。翰はこれを聞き、人を遣わして叚末波の使者と詐り遜昵延に「翰はしばしば我らの患いとなっている、久しく除こうと思っていたが、今討伐に来ると聞いた、よく戒厳して相待つべく道を兼ねて早く赴くように」と逆に告げさせた。翰は伏を設けて待ったが、遜昵延はこれを真と信じ、備えなく長駆して伏の所に至り、翰に虜われた。翰は馳せ使いを送って廆に告げ勝ちに乗じて進み、夜明けに至ると廆も鋭を尽くしてこれに応じた。遜昵延はこれを見て厳を構え衆を率いて逆戦したが、前鋒が交わるやいなや翰は既にその営に入り火を縦って焼き払い、衆は大潰した。遜昵延は単馬で奔り還り、その衆は悉く俘われた。
- 遜昵延父子は代々漠北に雄たり、また先に玉璽三紐を得ていたため天の相うところと自言し常に誇大であったが、この敗の後は卑辞厚幣で使者を昭帝に遣わし朝献し、帝はこれを嘉し娘を妻せた。遜昵延が死し子の乞得亀が立ち、再び慕容廆を伐ったが廆に拒まれた。
乞得亀の敗亡と逸豆帰の滅亡
- 恵帝三年、乞得亀は澆水に屯保し塁を固めて戦わず、その兄の悉拔堆を遣わし廆の子仁を柏林で襲わせたが、仁は逆撃して悉拔堆を斬った。廆はまた乞得亀を攻めてこれを克し、乞得亀は単騎で夜奔しその衆はことごとく虜われた。廆は勝ちに乗じて長駆しその国城に入り、資財億計を収め部民数万戸を徙して帰った。先に海に大亀が現れ平郭で枯死しており、これに至って乞得亀は敗れた。
- 別部の人逸豆帰が乞得亀を殺して自立し、慕容晃と相い攻撃し、その国相莫渾を遣わして晃を伐たせたが、莫渾は酒に荒れ猟に耽り晃に破られ死者は万余人に及んだ。建国八年、晃は逸豆帰を伐ち、逸豆帰はこれに拒んだが晃に敗れその驍将渉亦干を殺され、逸豆帰は漠北へ遠く遁れ、ついに高麗へ奔った。晃はその部衆五千余落を昌黎に徙し、これより散滅した。