魏書卷九十六 列傳第八十四 司馬叡

西晋の宗室と称するが実は将牛金の子ともいう司馬叡(?–太寧元年頃)。永嘉の乱に乗じて江東に拠り、東晋を建てて元帝となったが、王敦の専横に苦しみ憂憤のうちに死んだ。以後、明帝・成帝ら幼弱の帝が続き、王敦・蘇峻の乱、桓温の北伐、孫恩の乱、桓玄の簒奪などを経て、東晋は劉裕に禅位され元熙六年に滅んだ。

年表(13件)
  • 永嘉元年建業に初めて至る
  • 永嘉五年鎮東将軍・開府儀同三司に進み、揚江湘交広五州諸軍事の督となる
  • 永嘉六年穆帝とともに劉淵討伐を称し平陽に大会する
  • 建興元年愍帝より侍中・左丞相等に任ぜられ、建業を建康と改める
  • 大興元年皇帝を僭称する(東晋建国)
  • 建国三十九年昌明、年号を太元と改める
  • 太祖
  • 七年苻堅、大挙して昌明討伐に向かうも淮南で大敗
  • 皇始元年昌明、嬖姫張氏に殺される。子の徳宗が継ぐ
  • 天興六年桓玄、徳宗より禅位を受け国号は大亨と改まる
  • 天賜元年劉裕、桓玄を破る。玄は敗死
  • 神瑞二年徳宗、使者を朝貢させる
  • 元熙五年徳文、劉裕に禅位し零陵王に封ぜられる
  • 元熙六年劉裕、徳文を殺害する(東晋滅亡)

司馬叡(東晋元帝)の即位まで

  • 僭晋の司馬叡、字は景文、実は晋の将牛金の子であるという。西晋の宣帝は大将軍琅邪武王伷を生み、伷は冗従僕射琅邪恭王覲を生んだ。覲の妃譙国夏侯氏(字銅環)は牛金と密通して叡を生んだが、叡は司馬の姓を冒して覲の子とされた。河内温の人と自称した。
  • はじめ王世子となり爵を襲い散騎常侍を拝し、射声・越騎校尉・左右軍将軍を歴任、晋の恵帝の臨漳行幸に従った。叔父の繇が成都王穎に殺されると叡は禍を恐れて洛陽に走り母を迎えて帰った。陳国の東海王越が下邳で挙兵すると叡は輔国将軍とされ、越が恵帝を長安に迎えようとした際には平東将軍・監徐州諸軍事として下邳に鎮し、のち安東将軍・都督揚州諸軍事・仮節として寿陽に鎮するはずが、越の西行に従って下邳に留まり、陳敏の乱により留まった。
  • 永嘉元年、陳敏が死んだ秋、叡は初めて建業に至った。五年、鎮東将軍・開府儀同三司に進み会稽の戸二万を加増され、揚江湘交広五州諸軍事の督とされた。六月、王弥・劉曜が洛陽を侵し懐帝が平陽に行幸すると、晋の司空荀藩・司隷校尉荀組は叡を盟主に推し、独自に郡県を改め名号を仮置した。江州刺史華軼・北中郎将裴憲がこれに従わなかったため、叡は将の王敦・甘卓・周訪らに軼を撃たせ斬らせ、憲は石勒に奔った。
  • 六年、叡は檄を四方に発し穆帝とともに劉淵討伐を称して平陽に大会した。建興元年、晋の愍帝は叡を侍中・左丞相・大都督陝東諸軍事・持節・王とし、叡は建業を建康と改めた。七月、叡は晋室の滅亡を見て他志を抱き、自ら大赦し大都督・都督中外諸軍事・丞相となった。号令は行われず政刑は淫虐で、督運令史淳于伯を処刑した際、刃で柱を拭った血が上へ二丈三尺、下へ四尺五寸弦のように流れる異変があり、人々はこれを怨んだ。
  • 平文帝の初め、叡は自ら晋王を称し年号を建武と改め、宗廟社稷を立て百官を置き、子の紹を太子とした。晋王のまま南郊の祀を行ったが、その年に大位を僭称し年号を大興元年とした。朝廷の儀・都邑の制はことごとく王者に凖え、孫権の旧地丹陽に都した。

揚州の地誌

  • 禹貢の揚州の地で、洛陽から二千七百里、山水陽鳥の地、土は塗泥で田は下下、島夷卉服の地と称された。周礼職方氏によれば東南の揚州は会稽を山鎮、具区を薮沢、三江を川、五湖を浸とし、金錫竹箭を利とし、民は男二女五、家畜は鳥獣、穀物は稲を宜しとする。
  • 春秋時代は呉越の地で僭号したが華土に聞こえず、楚の申公巫臣が妻を奪って呉に奔り軍陣を教えて以後、中国と交通した。俗気は軽急で礼教を知らず子女を着飾らせて逰客を招くのが土風とされた。戦国時代は楚に併合され、秦末には項羽・呉芮・無諸らが興り、漢初に呉芮を長沙王、無諸を閩越王、劉濞を呉王に封じたが、いずれも夷滅の憂き目を見た。漢末の大乱で孫権が劉備と呉蜀を分割、長江を阻んで天地の限りとした。
  • 叡はこの乱に乗じて江東を領有した。中原の人は江東の人を「貉子」と貶称し、巴蜀蛮獠渓俚楚越は言語も鳥声獣声のごとく異なり、水田は多いが陸種は少なく、機巧で利を趨り恩義に薄く貯蓄なく飢寒を常とし、暑湿の地で腫泄の病が多く瘴気毒霧射工沙虱蛇虺の害が絶えないと評された。叡は揚荆梁三州の地を割いて十数州郡県に分置したが、戸口百に満たぬ郡県もあった。使者韓暢が海を渡って通和を請うたが、平文皇帝はその僭立を理由に納れなかった。

王敦の乱

  • 叡の大将軍王敦は宗族が勢威をふるい叡と並び立つほどで君臣の分がなかった。侍中劉隗が「王氏彊大、抑損すべき」と進言すると敦はこれを憎んだ。恵帝の時、叡は年号を永昌と改め、武昌に鎮していた敦は「劉隗が権寵を秉り姦孽を討つべし」と表し、沈充を大都督・護東呉諸軍とした。叡は「王敦は寵を恃んで狂逆を肆にする、朕は太甲の如く桐宮に囚われかけている、これを忍べようか、今こそ自ら六軍を率いて誅す」と下書した。
  • 光禄勲王含は子の瑜を連れて敦の下に走り、叡は司空王導を前鋒大都督、尚書陸曄を軍司、江州刺史陶侃・荆州刺史甘卓に敦を掎角させ、太子右率周莚に沈充討伐を命じた。敦が洌州で尚書令刁協の誅殺を求めると、叡は右将軍周札に石頭を守らせたが、札は密かに敦に通じ、敦の司馬楊㓪らが石頭に入った。
  • 叡の征西将軍戴淵・鎮北将軍劉隗が石頭を攻めたが敗れ、隗・協は叡に会って涙ながらに去り、隗は淮陰に逃れのち石勒に奔り、協は逃走中に殺された。叡は敗れ、敦は自ら丞相・武昌郡公・食邑万戸となり朝事を専断、戴淵・尚書左僕射周顗を斬り、百官・州鎮を頻繁に改易した(過百数、朝行暮改の例も)。敦の寵臣沈充・銭鳳の言は必ず用いられ、譖言された者は必ず死んだ。
  • 敦が武昌に還ろうとした際、長史謝鯤が「入朝すれば天下の私議を懼れずに済む」と勧めたが敦は「朕が朝すれば君らを数百人殺したところで朝廷に何の損もない」と応じず入朝しなかった。安南将軍甘卓・軍司謝鯤の招請にも従わなかった諸将は敦に討たれ、従母弟の魏乂が譙王承を臨湘で攻めて捕らえ武昌に送ったが、従弟の王廙は車中で承を殺した。承の忠言を用いず、襄陽太守周慮が甘卓を襲殺、叡はこの威圧に病を発し死んだ。

明帝紹と王敦の再乱

  • 子の紹が跡を継ぎ年号を太寧と改めた。篡位を目論む敦は紹に自らを召すよう仕向け、紹は謙譲の書を送り敦を丞相・武昌郡公とし奏事不名・入朝不趨・剣履上殿を許した。敦は蕪湖に屯し王導を司徒・自ら揚州刺史に、兄含の子応を武衛将軍とした。敦の病が重くなると含を召還し後事を託そうとしたが、紹は密かに敦を襲おうと画策、宿衛を三番に分け敦の営塁を偵察させた。
  • 敦の病が篤くなると紹は司徒王導・中書監庾亮・丹陽尹温嶠・尚書卞壼と討伐を密謀した。導・嶠と右将軍卞敦が石頭に拠り、応詹が朱雀桁南の諸軍を、尚書令郗鑒が従駕諸軍を都督し、紹自ら中堂に出た。敦は挙兵を聞いて怒ったが病で自ら軍を率いられず、党の銭鳳・鄧岳・周撫らに三万を率いさせ建業に向かわせた。含が元帥となったが、鳳が「事が成った日、天子はどうする」と問うと敦は「まだ南郊も行っていないのに、何が天子か、卿らの兵勢を尽くして東海王と裴妃を保護せよ」と答えた。
  • 紹は敦が既に死んだと誤解し発兵したが、下詔の数日後も敦は王導に自筆で書を送るほど生きていた(「太真(温嶠)、別来幾日にしてかくの如き事を作すか」)。含らの軍が至ると温嶠は朱雀桁を焼いて鋭鋒を挫き、紹は曹渾・陳嵩・段匹磾の弟秃らに壮士千人を率いて江寧で迎撃させ含の前鋒何康を斬り数百人を殺した。敦は康の死を聞き「我が兄は老いた婢のようなもの、門戸は衰微し文武兼備の一族はみな早死にした、今年で万事休す」と嘆き、術士郭璞に占わせると「佳ならず」と出て璞を殺した。
  • 敦は生前、白犬が天から降りて自分を噛む夢を見ており、病が篤くなってからは刁協・甘卓の祟りを見たという。敦の病はさらに篤くなり、舅の羊鑒と子の応に「我が死後、応はすぐ即位せよ、まず朝廷百官を立ててから葬儀を営め」と遺言して死んだ。応は喪を秘し屍を席に包んで斎中に埋め、諸葛瑶らと縦酒淫逸に耽った。沈充が万余人で含らに合流し、出陣にあたり妻に「男児は豹尾(将軍の旗印)を建てられねば帰らぬ」と告げた。紹の平西軍祖約が淮南に至り敦配下の淮南太守任台を逐い、紹の将劉遐・蘇峻が済って含の軍を撃退、応詹が大破して周撫が銭鳳を斬り、沈充の将呉儒が充を斬った。紹は御史劉彛に敦の墓を発かせ屍を斬って朱雀桁に梟した。紹は死んだ。

成帝衍と蘇峻の乱

  • 子の衍が跡を継ぎ年号を咸和とした。歴陽太守蘇峻が衍に従わず、護軍庾亮は「蘇峻は豺狼、削っても削らずとも反するが、削れば反乱は早いが禍は小さい」として大司農に召したが、峻は怒り「庾亮は権を専らにし我を誘殺しようとしている」と、阜陵令匡術・楽安人任讓らの勧めで祖約と共に亮討伐に踏み切った。約は兄逖の子沛国内史渙の娘婿淮南太守許柳に兵を率いて峻に会させ、峻の党韓光が姑孰を襲い于湖令陶馥を残殺した。
  • 衍は庾亮を征討都督に、右衛将軍趙𦙍・左将軍司馬流を慈湖に配したが韓光に流を殺され、驍騎将軍鍾雅を前鋒監軍とし舟軍で峻を拒がせ、宣城内史桓彜を蕪湖に配したが韓光に敗れ宣城諸県を掠奪された。江州刺史温嶠の督護王愆期・鄧岱・紀睦らも建業に赴いたが、峻は二万で牛渚山から横江を渡り愆期らを撃破、蒋山で衍の卞壼が率いる軍も敗れ、卞壼と二子・丹陽尹羊曼・黄門侍郎周導・廬江太守陶瞻・散騎侍郎任台ら死者三千余に及んだ。
  • 庾亮は三弟と柴桑に奔り、峻は衍の宮を焼き群賊が略奪して衍は米数石のみで困窮した。峻は衍に大赦を強い庾亮兄弟を赦免対象外とし、自ら驃騎将軍・録尚書事となった。建業は荒廃し呉会に投じる者が多く、温嶠は諸州に檄を移し庾亮を招いた。荆州刺史陶侃は当初「自分は疆場外将、顧命大臣ではない」と協力を拒んだが、嶠は「子が越騎で殺されたのに公は容足の地すら失うのか」と説き、侃はついに応じた。
  • 峻は于湖に屯し、衍の母庾氏は憂怖のうちに死んだ。峻は姑孰から建業に戻り石頭に屯し、張瑾・管商に諸軍を拒がせ衍を石頭に遷した。衍は哀泣して車に乗り宮人も皆哭き従った。峻は倉屋を宮とし許方を司馬として守衛させた。陶侃・庾亮・温嶠が石頭に至ったが引き返し、庾亮は白石塁を守り峻の攻撃を退けた。呉国内史庾冰は三呉の衆で戦ったが敗れ、瑾・商らは無錫で冰の前軍を破り掠奪、韓光は宣城内史桓彜を攻め殺した。祖約は潁川人陳光に攻められ歴陽に奔った。
  • 長楽人賈寧は峻に王導と大臣の誅殺を勧めたが峻は聞かず、王導は袁耽を使って衍の脱出と峻からの離反を誘った。温嶠は食糧を陶侃に借りたが侃は「今まで士衆糧食は心配ないと言っていたのに、戦えば北(敗)ばかり、良将はどこにいるのか、食糧がなければ民は西に帰りたがる」と怒った。嶠は「今は騎虎の勢、下りられようか、賊はまさに滅びる、公は思案を留めてほしい」と謝し、侃の将李陽の説得もあって侃は米五万石を供出した。
  • 祖渙は湓口を襲おうとしたが桓雲に阻まれ、峻は大業を攻め水が涸れて城中は糞汁を飲むほどとなった。陶侃が舟師で石頭を、温嶠・庾亮が白石で陣した。峻の子碩が数十騎で出戦すると峻はこれを見て自ら四馬で北下し陣に突入したが、陣は堅く退けられ、将士彭世・李千の矛に刺され峻は落馬して梟首・臠割された。任讓ら賊帥は峻の弟逸を立てようとしたが屍が得られず、衍の父母の墓を発いて棺を剖き屍を焼いた。匡術は苑城を挙げて降ったが、韓光・蘇碩らが苑を攻め、諸将が石頭を攻める中、蘇碩と章武王世子休が李陽を柤浦で撃退したところを庾冰の司馬滕含に背後から急襲され潰走、曲阿に逃げた。
  • 含は衍を助け出し温嶠の舟に奔らせた。兵乱の後宮室は灰燼に帰し遷都の議も出たが王導が従わず取りやめた。衍は年号を咸康と改め、その後死んだ。中書監庾冰は衍の子千齡を廃してその弟岳を立て年号を建元とした(庾冰が号を立てた際、既に晋初に「建元」の号があったのに知らず重ねて用いた。のちに「子作年号乃不視讖也、讖曰建元之末丘山崩(丘山とは岳のこと)」と告げられ冰は嘆いたが改めなかった)。岳の死後、庾冰は司馬昱を立てようとしたが驃騎将軍何充が岳の子聃を立て年号を永和とした。

穆帝聃と桓温の北伐

  • 聃の安西将軍桓温は七千余人を率い蜀を伐ち上表と同時に出兵した。聃は威力が弱く統制できなかった。石虎の死後、聃の征北将軍褚裒が下邳に至ると、石遵は司空李農に督護王龕を薛で攻めさせ、龕を鄴に送り李邁を殺した。裒の驍将は喪気し引き返し、陳逵は淮南を焼いて逃げた。
  • 桓温は聃の廃立を表し揚州刺史殷浩は聃が温を憚って除名された。温は歩騎四万で郢から関中の灞上に至り、苻健は五千人で長安の小城を守り大凶作の中対峙、温軍は食糧が尽きて退いた。苻健は子の萇に頻繁に撃破させた。温の部将薛珍は温に城への直進を勧めたが従われず、珍が単独で進んで戦果を得た後、温の慎重さを非難する放言をしたため温は慙り憤って珍を殺した。聃は年号を升平と改めたが、謡に「升平不満斗、隆和那得久」とあり、死んで嗣子がなかった。

哀帝丕・海西公奕・簡文帝昱

  • 衍の子丕が立ち年号を隆和としたが、謡に「雖復改興寧、亦自無聊生」とあり、改元後まもなく死んだ。
  • 弟の奕が立ち年号を太和とした。桓温が慕容暐討伐で鉅野を鑿ち舟軍を通そうとしたが慕容垂に大敗し、西中郎将袁真の失策で兵糧が尽き温は枋頭から帰還、垂に襄邑で大敗した。温は袁真を除名し、真の子雙之らが叛して寿陽に拠り、真の病死後、子の瑾が跡を継いだが桓温に討たれ平定された。
  • 温は不臣の心が音気に表れ「かくも寂寂として文景(司馬師・司馬昭)に笑われるのを避けたい」と嘆いていたが、後にことごとく軍を挙げて北討しその勢いに乗じようとした。都護郗超は「枋頭の恥を雪ぐには、この六十の齢で不世出の勲を建てねば民望に応えられない」と廃立を説いた。温は奕を「少同閹人之疾」(陽萎)と称し、美人田氏・孟氏が三男を生んだのは疑わしいとして廃立を強行、奕は白袷単衣で犢車に乗り東海第に遷された。司馬昱が迎立された。
  • 昱は叡の子。東向して璽綬を拝受し年号を咸安とした。温を諸葛亮の故事に倣い甲仗入殿・丞相とした。昱は温の大志を恐れ、郗超に「命の長短は意に介さない、近日の事(廃立)は繰り返されまい」と語り、超の父愔が会稽太守として赴任する際「尊公に伝えてくれ、国事がここに至ったのは自分が道を匡衛できなかったせいだ」と嘆じた。昱は病んで温に書を送り「もう長くない、詔があっても間に合わないだろう、天下の艱難と昌明(子)の幼少を思うと、輔導の訓なくしてどう安寧を保てようか、国事家計は公に託す」と伝えて死んだ。

孝武帝昌明と桓玄の簒奪

  • 子の昌明が跡を継いだ。徐州の小吏盧悚とその妖党男女二百人が明け方に広莫門を攻め、海西公(奕)の還帰と偽称して雲龍門から入り三廂・武庫を略取したが、遊撃将軍毛安之・中領軍桓祕・将軍殷康が討ち五十六級を斬り数百人を捕らえ討伐した。奕は迎え入れの誘いに応じなかった。昌明は年号を寧康とした。
  • 温は昱の墓参で病を得て姑孰で自ら死を悟り九錫を求めたが、謝安が策文の作成を引き延ばし、王彪之の助言もあって遅延させ、温は死んだ。苻堅は苻雅・王統・朱彤・楊安・姚萇に五万を率いさせ駱谷から昌明を伐たせ、秦州刺史楊纂は梁州刺史楊亮に救援を求めたが敗走、堅は梁益二州を得た。昌明は上下憂怖した。
  • 建国三十九年、昌明は年号を太元と改めた。太祖七年、苻堅が大挙して昌明討伐に向かい国中に「東南平定は指日、司馬昌明を尚書僕射とするので邸を速やかに作れ」と命じ、堅は張天錫らを捕らえた例に倣い先んじて邸を築いていたが、堅は淮南で大敗し退いた。昌明は酒色に耽り、弟の会稽王道子は宰相として昏酔し内外の風俗は頽廃した。左僕射王珣の子の婚礼には数百乗が集まり、王雅が太子少傅となると門客の半ばがそちらに移るほど人情は移ろいやすかった。
  • 皇始元年、昌明は死に子の徳宗が跡を継いだ。昌明は晩年、長夜の宴に耽り醒める間もなく、嬖姫張氏を貴人として寵愛したが、宴席で「お前ももう年で廃されるころだ、もう甥に譲るつもりだ」と戯れたため張氏は密かに怒り、昌明が酔い潰れた夜、婢に命じて被で窒息させて殺した。道子の子元顕が専政していたためこの罪は問われなかった。

安帝徳宗と王国宝・王恭

  • 徳宗は年号を隆安とし、道子を太傅・揚州牧・中書監・殊礼・黄鉞羽葆鼓吹とし甲仗百人を増した。内外の政事はまず道子に諮られ、尚書僕射王国宝は軽薄で道子に取り入り権を振るった。道子は王緒を輔国将軍・琅邪内史とし石頭の兵を併せて建業に屯させた。
  • 兗州刺史王恭は国宝・緒の乱政を憎み荆州刺史殷仲堪と挙兵を約した。恭は徳宗に国宝の罪状(喪中の醜行、詐りの遺詔企図、二昆への讒疾、私党の樹立、官爵の売買など)を訴え「趙鞅が晋陽の甲を興し君側の悪を除いた故事に倣う」と表した。道子は元顕を征虜将軍として備え、国宝は恐れて兵を出したが乱れて散り、緒の勧めも聞かず、結局国宝を廷尉に付し殺し、緒も市で斬り恭らを慰撫した。
  • 司徒左長史王廞は喪に服していたが恭の板任で吳国内史となり兵を発したが、国宝の死後、恭は廞に喪中の反乱を促し廞は呉郡に拠って娘を将軍として自ら官属を置いたが、恭の司馬劉牢之に討平された。徳宗の譙王尚之兄弟は道子に「藩伯が彊く宰相が弱いので密かに勢力を配すべき」と勧め、道子はこれに従い内外が騒動した。
  • 王恭は再び危機を感じ殷仲堪・庾楷・桓玄と結び、王愉・司馬尚之討伐を掲げて挙兵、仲堪は楊佺期に龍驤将軍として舟師五千を発せしめ、桓玄は仲堪から兵五千を借りた。徳宗は戒厳し道子に黄鉞を加え、謝琰に恭らを、元顕に討伐都督を命じ、尚之を豫州刺史として弟の恢之・允之と西討させた。恭は劉牢之を前鋒に竹里に配したが、道子は牢之に重賞を約して寝返らせ、牢之は恭の別帥顔延を斬り首級を謝琰に送った。
  • 琰と牢之は恭を襲い、恭は曲阿に奔り湖浦尉に捕らえられ建業に送られた。尚之は庾楷の子鴻と牛渚で戦い鴻を斬ったが、桓玄・楊佺期が横江に至ると尚之は退き外軍は全滅、玄らは石頭に直進、仲堪も蕪湖まで進み建業は震駭、道子は恭を倪塘で殺し、玄らは尋陽に退いた。この年冬、徳宗は使者を送り姚興討伐への援を乞い、翌年夏にも朝貢した。
  • 元顕を揚州刺史とし、道子は病中に元顕が既に位を継いだと勘違いして激怒したが元顕が既に拝命していたため改めなかった。以後内外の政事は元顕が専断、道子は「東録」元顕は「西録」と称され西府に人が集まり東第は門に雀羅を張るほど寂れた。元顕は権重に驕り近隣に譏られた。

孫恩の乱

  • 徳宗の新安太守孫泰が左道で衆を惑わし誅殺されると、兄子の恩は海嶼に逃れ妖党を率いて上虞を攻め県令を殺した。会稽内史王凝之は五斗米道を奉じ、恩の来襲に軍を出さず道室で呪術に頼り、官属の討伐勧告にも「大道に兵の出動を請うた、諸々の津要に既に数万の兵がいる」と応じず、恩が近づいてから遣軍したが間に合わず敗れ、凝之は捕らえられた。
  • 恩の衆は数万に膨れ平東将軍を自称し諸郡は妖惑に応じ雲集した。呉国内史桓謙・呉興太守謝邈が被害を受けた。内外の統制が乱れる中、劉牢之が衛将軍謝琰と討伐に向かうと賊は禁令を無視し士庶を殺戮しつくし(醢にして妻子に食わせる例も)、驃騎長史王平之の屍を剖いて焚くなど残虐を極めた。牢之が破ると賊は山陰に逃げ、婦女は入水自殺を強要される惨状となった。
  • 賊の走った後の邑屋は焼き払われ、月余りでようやく帰る者が現れた。牢之の将高素らが至ると放埓に略奪し民の怨みを買った。孫恩は海に逃れたが永嘉・臨海を破り再び山陰に迫り謝琰は戦死、建業は大いに震撼した。桓不才・孫無終・高雅之らが討伐に向かい呉興太守庾恒は誅戮を大行して数千人を殺したが、恩は高雅之を余姚で破った。元顕は後将軍・開府儀同三司・十六州都督となり子の彦章を東海王に封じた。
  • 恩は京口を経て建業に迫り徳宗は震駭したが、司馬尚之が積弩堂に急行、恩は逆風で進めず白石に至った頃、尚之が既にあり牢之も戻らないと知り郁洲に退いた。別帥盧循は広陵を攻略した。桓玄は恩の脅威に乗じて征討を表するも元顕らは急ぎ止めさせ、庾楷は玄が人望を失っていることを密告し元顕は攻撃を決断、劉牢之と謀った。

桓玄の簒奪

  • 徳宗は年号を元興とし元顕を大都督として玄討伐を命じたが、玄の軍が至ると元顕は戦わず父子ともに殺された。年号は大亨と改められ、天興六年十月、徳宗は使者を京師に送った。徳宗は桓玄を楚王に封じたが、玄はまもなく徳宗に禅位を迫り、徳宗は永安宮に出居、玄は受禅して徳宗を南康平固県王とし尋陽に居らせた。
  • 天賜元年、徳宗が姑孰にあり二月に尋陽に至った頃、彭城内史劉裕が玄を殺そうと徐州刺史桓修を斬り、劉毅らと挙兵、玄は敗れ尋陽に走り、徳宗兄弟を連れ江陵に至りさらに荆州に逃れた。荆州別駕王康産・南郡相王騰之が徳宗を南郡府に迎えると、玄は死に、玄の将桓振が再び江陵を襲い康産・騰之を斬り徳宗殺害を図ったが揚州刺史桓謙に止められた。
  • 盧循が徳宗の広州刺史吳隠之を捕らえ平南将軍・広州刺史を自称、党の徐道覆が始興に拠った。徳宗は江陵で再び即位し年号を義熙とした。尚書陶夔が徳宗を板橋に迎えた際大風で龍舟が沈没し死者十余人を出した。徳宗は江陵から尋陽に至り、益州刺史毛璩の参軍譙縦が反して涪城を克し益州が離反した。徳宗は姑孰から建業に戻り、太祖は軍を送って徳宗の鉅鹿太守賀申を降した。
  • 盧循が嶺南で再起し徳宗の江州刺史何無忌を石城で殺すと、劉裕は撫軍劉毅に討たせたが桑落洲で敗れた。裕の党孟昶・諸葛長民らは徳宗を連れて渡江するよう勧めたが裕は従わなかった。神瑞二年、徳宗は使者を朝貢させた。太宗の初め、劉裕が姚泓を征する年、太宗は長孫道生・娥清に石河でその将朱超石を破らせ楊豊を斬首、首級千七百余を得た。三年、徳宗は死んだ。

恭帝徳文と宋への禅譲

  • 弟の徳文が跡を継ぎ年号を元熙とした。五年、徳文は裕に禅位し、裕は徳文を零陵王に封じた。徳文の后河南褚氏の兄季之・弟淡之は姻戚でありながら裕に尽くし、徳文が男子を生むたびに殺させ、内人を誘い毒殺させるなど非情を極めた。徳文は廃されて秣陵宮に幽閉され褚氏と一室に籠り、鴆毒を恐れて自炊した。六年、劉裕は徳文殺害を図り、淡之兄弟に褚氏を別室に移させた隙に兵が踰垣して薬を進めたが徳文は「仏教では自殺者は再び人身を得られない」と拒み、結局被で窒息させられて殺された。
  • 叡が江南に僭してから徳文の死に至るまで、君は弱く臣は彊く互いに統制が利かず、賞罰号令はすべて権寵から出て、危亡廃奪の禍が相次いだ。「夷狄に君有るは諸夏の亡きに如かず(論語)」とはこの謂いであろう。

賨李雄(成漢の建国)

  • 賨の李雄、字は仲儁、廩君の苗裔という。その先は巴西宕渠に住み、秦が天下を併せて黔中郡としその民に薄賦(口ごとに銭三十)を課したことから、巴人は賦を「賨」と呼びこれを名とした。のち櫟陽に徙り、祖の慕は魏の東羌獵将で五子(輔・特・庠・流・驤)があった。
  • 晋の恵帝の時、関西が擾乱し頻年の大飢饉に見舞われ、特兄弟は流民数万家を率いて漢中に就穀し巴蜀に入った。晋の益州刺史趙廞が叛くと特兄弟は挙兵して誅し、晋は特を宣威将軍・長楽郷侯、流を奮威将軍・武陽侯とした。流民の閻式らが特を鎮北大将軍代行に推し承制して封拝させ、流は鎮東将軍代行とされた。のち晋の益州刺史羅尚と争い、昭帝七年、特は大将軍・大都督を自称し年号を建初としたが敗れて尚に殺された。
  • 流が兵事を代統し(字は元通、自ら大都督・大将軍を号した)、病篤くなると後事を子の雄ではなく特の少子である雄に託した。雄は自ら大都督・大将軍を称した。十年、成都王を僭称し年号を建興、涪陵人范長生の術数を篤く信じ、長生の勧めで即真、十二年に皇帝を僭称し国号大成、年号を晏平とし、長生を天地太師・領丞相・西山王とした。年号はさらに玉衡と改められた。
  • 雄は中原の喪乱に乗じて頻繁に朝貢の使者を送り穆帝に天下分割を求め、自分の子ではなく兄盪の第四子班を太子に立てた。烈帝六年、雄は死んだ。