李班・李期・李寿・李勢(成漢の滅亡)
- 班が跡を継いだが、雄の子期が班を殺して自立した。期、字は世運、雄の第四子。年号を玉恒と改めたが、驤の子寿が涪城から成都を襲い克して期を邛都公に廃し、期は自殺した。
- 寿、字は武考。はじめ雄の大将軍・建寧王として南中十二郡を建寧国としたが、期の時代に漢王に徙封され、期を廃して自立、年号を漢興のち漢と改めた(建国元年にあたる)。寿の広漢太守李乾ら大臣が寿の廃立を謀ると、寿は懼れて子の広に大臣と殿前で盟わせた。寿は鄴の殷実な宮観の美麗さと石虎の厳格な統治ぶりを慕い、些細な過ちでも民を殺して威名を立て、成都の城邑が空虚だとして三丁以上の民を尚方御府の工匠として徙し、宮室を広修し水を城に引き奢侈を極めたため民は疲弊し怨嗟の声が十室の九に及んだ。
- 尚書左僕射蔡興が直言切諫すると寿は謗訕として誅し、臣の龔壮が応璩に託した詩七首で諷諫すると、寿は「賢哲の話言と死鬼の常辞は違う」と一蹴し、漢の武帝・魏の明帝を慕い父兄の政を恥じるあまり先世の政化を語る上書を認めなかった。寿は病中に李期・蔡興の祟りを見て死に、子の勢が跡を継いだ。
- 勢、字は子仁。年号を太和のち嘉寧と改めた。弟の漢王広は勢に子がないため太弟にと請うたが許されず、広が勢を襲おうとしたため勢は太保李奕に涪城で広を撃たせ克し、広を臨邛侯に貶して自殺に追い込んだ。勢は驕吝で酒色に耽り人を殺してその妻を奪い、李奕の娘を后に納れるなど淫楽に耽り国事を顧みず、夷獠の叛乱で領土を減じ、性は多忌害で大臣を刑殺し父祖の旧臣を疎外して近習の小人が威福を振るった。相国董皎を大都督とし名位で懐柔しようとしたが、建国十年、司馬聃の将桓温の討伐を受け勢は降った。
- 先立って怪異が頻発した(草に隠れる異形の女、広漢の角の生えた馬、二身六耳の馬駒、皮毛なき驢馬、江南の血の雨、赤い実の草、涪陵の角の生えた婦人、独りでに跳ねる米など)。童謡や譙周の讖(「広漢城北有大賊」「三十二年後に異人が蜀に入り国が亡ぶ」)も的中したという。
史論
- 史臣曰く。司馬叡が江表に竄れたのは魁帥の名を窃んだだけで君長の実を欠き、天を跼め地を蹐むが如く畏縮し続けた。李雄と対比すれば各々一方の小盗に過ぎず、その孫(李勢)が呉の孫皓に及ばぬのと同様である。