魏書卷九十五 列傳第八十三 羌姚萇

羌の姚萇(?–建初八年頃)、字は景茂。父弋仲・兄襄の跡を継いで苻堅に仕えたが、慕容泓の乱に乗じて自立、捕らえた苻堅を殺して後秦を建国した。子の興の代に華北で勢威を振るったが、興の死後泓が継ぐと内乱と東晋劉裕の北伐を受け、後秦は滅んだ。

年表(5件)
  • 烈帝
  • 五年弋仲、石虎に従い清河の灄頭に遷る
  • 登国元年姚萇、皇帝を僭称し国号大秦・年号建初とし長安を常安と改める(後秦建国)
  • 天興元年姚興、天王と称し年号洪始と改める
  • 天興五年興の弟平、平陽を侵すも太祖に大敗し投水して死す
  • 泰常元年興、死去。子の泓が継ぐ

羌姚弋仲・姚襄

  • 羌の姚萇、字は景茂、南安赤亭の燒当羌の後裔。祖の柯回は魏の将軍を助け姜維を沓中で絆したことにより綏戎校尉・西羌都督を仮された。父の弋仲は西晋永嘉の乱で榆眉に東徙し、劉曜に平西将軍・平襄公とされた。烈帝の五年、弋仲は石虎に従い清河の灄頭に遷り、奮武将軍・襄平公とされ、昭成の時代に死んだ。子の襄が跡を継ぎ譙城に屯した。
  • 慕容儁は襄を豫州刺史・丹陽公とし、淮南に屯した襄は大将軍・大単于を自称したが、司馬聃の将桓温に破られ河東に奔り、のち苻眉に殺された。弋仲には四十二人の子があり、萇はその第二十四子で兄の襄に従軍しその才を評価されていた。

姚萇(後秦の建国)

  • 襄の敗死後、萇は子弟を率いて苻堅に降り、征伐に従い頻繁に戦功を挙げ寧・幽・兗三州刺史を歴任、益都侯・食邑五百戸に封ぜられた。苻堅が司馬昌明を伐つ際、萇を龍驤将軍・督益梁州諸軍事とし「朕は龍驤の号で建業(自らの功業)を興した、この号は今まで人に授けたことがない、山南のことは卿に一任する」と述べたが、左将軍竇衝は「王者に戯言なし、これは不吉の兆」と諫めた。
  • 慕容泓が華沢で挙兵すると、堅は子の叡を討伐に遣わしたが敗死し、萇は叡の司馬として罪を恐れ馬牧に奔って衆を集め、大将軍・大単于・万年秦王を自称し年号を白雀とした。数ヶ月で衆十余万を得て慕容沖と連和し北地に進駐、堅が五将山に出ると萇は堅を捕らえて殺した。
  • 登国元年、萇は皇帝を僭称し百官を置き、国号を大秦、年号を建初とし長安を常安と改めた。子の興に長安を守らせ、自ら苻登を撃って安定で破った。萇は病中、苻堅と天官使者の鬼兵数百が営に突入する夢を見て後宮に逃げ込んだところ、宮人が鬼を刺そうとして誤って萇を刺す夢を見、目覚めると同じ場所が腫れて医者が刺すと夢の通り血が出た。萇は狂言して「陛下(堅)を殺したのは兄の襄であり自分の罪ではない」と繰り返し、死んだ。子の興が跡を継いだが喪を秘した。

姚興

  • 興、字は子略、萇の長子。苻登を滅ぼしてから喪を発し服に行い、槐里で皇帝を僭称し年号を皇初とした。天興元年、皇帝の号を去り天王を称し年号を洪始と改めた。興は洛陽を克し弟の東平公紹に鎮させた。三年、朝貢し太祖は謁者僕射張済を使者とした。興はまた乞伏乾帰を大破し枹罕に入って鎧馬六万匹を得、乾帰は興に降った。
  • 太祖が興の高平公沒弈干を襲うと、干は部衆を棄て赫連屈孑と秦州に奔り瓦亭まで追撃された。長安は震え、興は寇の議を大いに諮ったが群臣の反対を退けて実行しなかった。天興五年夏、興の弟義陽公平が四万を率いて平陽を侵し乾壁を六十余日攻め、井戸を失った城は陥落した。
  • 六月、太祖は毗陵王順ら三軍六万騎を先鋒とし、七月自ら親征、八月永安に至った。平は勇将に精騎二百で偵察させたが太祖の前鋒長孫肥に捕らえられ、平は退走した。太祖は追撃し柴壁で包囲、興は全軍で平を救おうとしたが太祖は重囲を築き、汾水に南北の浮橋をかけて西岸に陣を築いた。
  • 太祖は歩騎三万で蒙坑の南四十里を渡り興を迎撃、興は北引の途中で急襲され怖れ乱れた。毗陵王順の精騎が興の甲騎数百を獲て斬首千余級、興は四十余里南走した。平は出撃できず、太祖は蒙坑・新坂の隘路を塞ぎ、汾に沿って柵を築き牧草を確保した。九月、興は汾西北に塁を築いて自固し、材木を汾水に流して橋を壊そうとしたが官軍が拾って薪にした。
  • 太祖は西囲を攻められると読んで塹を修め広げさせ、夜に興が短い梯子で攻めてきたが果たせず退いた。興は水門近くに塁を築き太祖と対峙したが、太祖は水を截って興と平を分断した。平は糧が尽き夜に全軍を挙げて西南へ突囲を図ったが、興は汾西で烽火を挙げ太祖はこれを察して固守、平は水に身を投げて死に、麾下の将士四千余人も投水した(太祖は捕捉を命じたが免れる者はなかった)。平の衆三万余は皆手を束ねて降伏、興の尚書右僕射狄伯友以下四十余人が捕らえられた。
  • 興は救援に赴きながら力及ばず、全軍が悲号し山谷を震わせて数日鳴りやまなかった。興はしきりに和を請うたが太祖は許さず班師した。興が長安に戻ると、廟で数万羽の雀が闘い羽が折れて多数死ぬ怪異があり「子孫に争乱あるのでは」と評された。殿には牛の吼えるような音があり、狐が興の殿屋に上って市に消える怪異もあった。
  • 譙縦が益寧を占拠し皇帝を僭称して興に藩を称すると、興は縦を蜀王とし九錫を加えた。永興三年・五年に朝貢し進女を求めて太宗が許した。興の中子廣平公弼は寵愛され朝政を委ねられていたが、興が篤く病んだ際、長子の泓が侍疾する隙に弼は党数千を集め興の死後に泓を殺して自立しようとした。興の諸子姪が外鎮から起兵して弼を討とうとしたところ興の病が癒えたため弼は免官のみで済んだ。
  • 神瑞元年・二年に朝貢し、興は西平公主を太宗に嫁がせ后の礼で迎えられた。興はまた弼を中軍大将軍として兵三万を渭北に配したが興が再び危篤になると弼の党姚武伯らが端門を攻め、泓が兵で拒んだ。興は病を押して前殿に臨み弼を殺し、弼の党は散った。泰常元年、興は死に泓が跡を継いだ。

姚泓(後秦の滅亡)

  • 泓、字は元子、興の長子。僭位して年号を永和とした。赫連屈孑が秦州を攻め安定を克して雍城に拠った。司馬徳宗(東晋)の将劉裕が泓を伐ち、将の檀道済を洛陽に至らせると、泓の弟陳留公洸が城を挙げて降った。泓の弟太原公懿が蒲坂で、従弟斉公恢が嶺北でそれぞれ反して長安を攻めた。泓は内乱を抱える中、裕は長駆して関に入り、泓は敗れて降を請い、建康の市に送られ斬られた。