魏書卷八十六 列𫝊孝感第七十四 趙琰・長孫慮・乞伏保・孫益徳・董洛生・楊引・閻元明・吳悉達・王續生・李顯達・張昇・倉跋・王崇・郭文恭
総序
- 孝徳は孝悌の至りであり神明に通じる、人としての大本である。孝行の感応は泉魚・鳥獣にまで及ぶといわれるほど稀であるが、床を温め席を扇ぎ、木を植え土を運ぶといった孝行の実践は世俗にも及ぶ。ここに趙琰らを「孝感」と題して記す。
趙琰(字叔起)
- 趙琰、字叔起、天水の人、父・溫は楊難当の司馬。苻氏の乱で乳母に連れられ夀春に奔り、十四歳で帰り孝心をもって親を養った。皇興中、婢が粟を欺いて糶った際に叱責はしたが軽い粃を留めさせるに留めた。子・応の縁談の従者が羊を拾った際に返還させ、羊羮を盗殺と知って辞退し、耜刃も購入先に返却するなど清廉な逸話が多い。
- 兖州司馬から團城鎮副將、淮南王他府長史。禁制のため父母を旧兆に葬れず三十余年に及び、時節の慶賀を受けず、耳順を過ぎて塩粟を絶ち麦のみを食したという。八十歳で卒し、子・応らが遺骸を郷里に葬った。子・応の弟・煦(字賓育)は歌唱に長じ秦州刺史となった。
長孫慮
- 長孫慮、代人。母が酒に酔い父・眞に叱責され誤って杖で撃たれ死亡、眞は死罪に問われた。慮は尚書に「父母の争いに他意はなく、母の喪も未だ殯していないのに父の命が旦夕に迫る」として自らの身代わりを願い出た。幼い兄弟五人(慮が長で四歳の女弟あり)の存立を訴え、尚書は「父にとって孝子、弟にとって仁兄」と奏し、髙祖は父の死罪を減じ流罪とした。
乞伏保
- 乞伏保、高車部の人。父・居は顯祖時に散騎常侍・領牧曹尚書・寧國侯。宮人・河南宗氏の没後、賜られた申氏(宋太子左率申坦の兄女)に一年余で仕えられ卒すると、伏保は厳しい継母にも孝謹を尽くした。父爵を襲ぎ伯に降格、左中郎將を経て、無善鎮將であった申(継母)を自製の馬輿で親しく扶助し、申の没後に喪に服し官を辞した。長兼南中郎將で卒した。
孫益徳
- 孫益徳、樂安の人。母が人に殺害され、童幼にして復讐し、家に戻り殯の前で泣きながら官の裁きを待った。髙祖・文明太后は幼くして孝を貫いた決断を認め特赦した。
董洛生
- 董洛生、代人。父の喪に礼を過ぎて服したため、詔で祕書中散・溫紹伯を遣わし璽書で慰め、孝道を全うするよう節制を求め、宗親にも滅性の譏りを避けさせるよう論した。
楊引
- 楊引、鄉郡襄垣の人。三歳で父を喪い叔父に養われ、九十三歳の母の没時に七十五歳で哀毀すること礼を過ぎ、三年の喪を終えても父を知らぬ悔いから斬衰を再び着け十三年間哀慕を改めなかった。郷閭三百余人が上状し、旌賞・門閭の顕彰が詔された。
閻元明
- 閻元明、河東安邑の人。太和五年、北隨郡太守として親元を離れる悲しみを述べ、母も泣いて目を病んだ。上訴により帰郷奉養を許され、母に会うと目が開いたという。刺史・呂夀恩の上聞で租調・兵役を免ぜられ、母の没後は心喪を守り忌日に悲慟した。同郡の令狐仕兄弟、楊風ら樂戸、皇甫奴兄弟、董吐渾兄弟の孝行も併せて記され、畿内大使・王凝の奏で標異された。
吳悉達
- 吳悉達、河東聞喜の人。三兄弟幼くして父母を人に殺され、長じて仇を報い永安に避地。四十余年昆弟同居し客を厚遇、貧年にも施しを絶やさなかった。父の墓を見失い号哭したところ地が陥没し銘記が見つかり、曾祖以下三世九喪を改葬。刺史の板贈、州への称頌があった。同郡の崔承宗も母の遺骸を万里を越えて運んだ孝行で孫恵蔚に「廉范の情を見た」と称された。
王續生
- 王續生、滎陽京縣の人。継母の喪に杖して起き、礼制を尽くして鬢髪が抜けるほど哀毀し、世宗の詔で門閭が旌され徭役を免ぜられた。
李顯達
- 李顯達、潁川陽翟の人。父の喪に七日水漿を絶ち、鬢髪が抜け六年間墓側に廬居した。刺史・高陽王雍の上奏で靈太后が門閭を表彰した。
張昇
- 張昇、滎陽の人。父母の喪に鬢髪が抜け吐血するほどの哀毀で門閭を表彰された。
倉跋
- 倉跋、滎陽京縣の人。母の喪に五日水漿を絶ち吐血、有司の上奏で出帝が門閭を標した。
王崇(字乾邕)
- 王崇、字乾邕、陽夏雍丘の人。兄弟ともに孝を称され、農耕で親を養った。梁州鎮南府主簿となり、母の喪に杖して起き、廬に鳩鴿が群集し珍しい鳥が留まる瑞祥、父の喪の際は陽夏の風雹が崇の田畑だけを避けたという逸話が伝わる。守令が現地を視察し州が上奏し門閭を標した。
郭文恭
- 郭文恭、太原平遥の人。太平縣令を務め、七十歳を過ぎて父母の喪に祖父母の墓側に居し晨夕拝跪、裸足で土を運び墓を修めた。尚書の上奏で門閭を標した。
史論
- 史臣曰く、天地に満ち四海に亘るものは孝のみである。孝敬の道の始めと哀思の道の終わりは緒を異にしても心は一つで、上智の自然の質もあれば中庸の努力による到達もあるが、成る理は同じである。趙琰らは公卿の家に生まれ礼教を頼りとした者もあれば、茅簷の下から奨勧なく成った者もいる。土を負い墳を築き滅性に至る行為は先王の典制には反するが、「過ちを観て仁を知る」というべきである。