魏書卷八十五 列𫝊文苑第七十三 袁躍・裴敬憲・盧觀・封肅・邢臧・裴伯茂・邢昕・溫子昇

総序

  • 文の用いられる由来は久しく、漢の西京では馬(司馬相如)・揚(揚雄)が首、東都では班(班固)・張(張衡)が雄伯とされ、曹植は魏世の英、陸機は晉朝の秀と称された。永嘉以降、天下分崩し文章は殄滅したが、太祖の代に燕趙を収め俊乂を網羅し、髙祖は文学に鋭意を注ぎ曹丕に比肩する気韻を示した。肅宗の代には文雅が大いに盛んになったが「才難」(孔子の言)の通り、学ぶ者は牛毛の如く多くとも成る者は麟角の如く稀であった。

袁躍(字景騰)

  • 袁躍、字景騰、陳郡の人、尚書・飜の弟。博学で不矯俗、飜に「我が家の千里駒」と称された。司空行參軍から尚書都兵郎中・員外散騎常侍。明堂の議に上表し博洽と称された。蠕蠕主・阿那瓌の朝貢の礼を欠く態度を書で戒め、車騎將軍・太傅清河王懌の文学として重用され、懌の文表は多くが躍の手になる。卒して冠軍將軍・吏部郎中を贈られ、文集が世に行われた。子がなく、兄・飜の子・聿脩が後を継いだ。
  • 聿脩、字叔徳。七歳で父を喪い成人のように喪に服し、九歳で州主簿に辟された。深沈で鑒識あり、姨夫・尚書崔休に見込まれ、十八歳で本州中正・尚書度支郎中を兼ね、齊の受禪により太子庶子として博陵太守を行った。

裴敬憲(字孝虞)

  • 裴敬憲、字孝虞、河東聞喜の人、益州刺史・宣の第二子。志行学博く才清らかで、諸弟を訓し読誦を業とした。功曹の徴に応ぜず、諸府の辟命は弟が先に受けたため世に称賛された。司州牧高陽王雍の挙で太學博士、隷草・音律に通じ五言詩に独歩したが病気がちで三十三歳で卒し、世に深く悼まれた。孝昌中、蜀賊・陳雙熾の乱でも敬憲の宅は焼き討ちを免れたという。永興三年、中書侍郎を贈られた(諡は文)。

盧觀(字伯舉)

  • 盧觀、字伯舉、范陽涿の人。秀才に挙げられ太學博士・著作佐郎、李神儶・王誦らと尚書上省で朝儀を撰定、尚書儀曹郎中となり孝昌元年に卒した。

封肅(字元邕)

  • 封肅、字元邕、渤海の人、尚書・回の兄の子。文思に富み經史に博渉、太傅崔光に賞賛された。太學博士・修起居注・兼廷尉監、『還園賦』を著し、正光中に京兆王の西征で大行臺郎中として書記を委ねられた。尚書左中兵郎中で卒した。恭儉で妄りに交遊せず、崔勵とのみ親しく交わった。文章の多くは散逸し十余巻が残った。

邢臧(字子良)

  • 邢臧、字子良、河間の人、光祿少卿・虬の長孫。幼孤で操を立て博学、二十一歳で秀才に挙げられ策問五条で上第、太學博士。正光中の明堂議定で裴頠の一室説を主張、議は行われなかったが理博と評された。本州中從事、永安初に金部郎中を病により辞退。東牟太守として清慎で吏民に愛された。李延寔に招かれ樂安内史・濮陽太守・安東將軍を歴任。行状は特進甄琛に工と称され、裴敬憲・盧觀兄弟と結交、回の文集を先に通読した。『文譜』を著したが未完のまま病没した(贈鎮北將軍・定州刺史、諡は文)。子・恕は学識あり。

裴伯茂

  • 裴伯茂、河東の人、司空中郎・叔義の第二子。学渉羣書で文藻に富み、京兆王繼の西討で鎧曹參軍、南討の行臺郎中、平陽伯に賞爵。散騎常侍・典起居注、太昌初に中書侍郎、永熙中に廣平王贊の文学、中軍大將軍。飲酒を好み官途は久しく滞った。『豁情賦』を著し(序文で老荘の斉物思想への傾倒を語る)、天平初に『遷都賦』も著した。
  • 内宴での殿中尚書章武王景哲との衝突で禁庭汚辱の罪を問われたが結局咎めなし。伯仲規や兄・景融との不和も伝わり、三十九歳で卒し知旧に惜しまれた。獄死間近の錯乱の逸話(密告を恐れ逃避の幻覚)も記される。友人の常景・李渾・王元景・盧元明・魏季景・李騫らが墓前で酒を酹し、魏收も詩を寄せた(贈散騎常侍・衛將軍・度支尚書・雍州刺史、重贈吏部尚書、諡は文)。『晉書』を撰したが未完で、子がなく兄・景融の子・孝才が後を継いだ。

邢昕(字子明)

  • 邢昕、字子明、河間の人、尚書・巒の弟・偉の子。幼孤で祖母・李氏に愛育され、蕭寶夤の關中討伐で東閤祭酒として文翰を委ねられた。太尉記室參軍、吏部尚書李神儁の奏で起居注を修めた。太昌初に中書侍郎・平東將軍・光祿大夫。冒官の罪で免官後『述躬賦』を著し、常景と共に儀注を典り、溫子昇・魏收と文詔を掌った。
  • 鄴遷都後は河間に帰り天平初に再徴。蕭衍の使者・劉孝儀らを境上で出迎え、通直常侍・中軍將軍。文才と実務を兼ね備え、宋遊道との応酬(「世事同知文學外」)も伝わる。興和中、蕭衍への副使(世に「牛象鬬江南」と評された)。齊文襄王が司徒右長史に擬したが未奏のまま病没(贈車騎將軍・都官尚書・冀州刺史、諡は文)。

溫子昇(字鵬舉)

  • 溫子昇、字鵬舉、太原の人と自称、晉大將軍・嶠の後裔。祖・恭之は劉義隆の彭城王義康の戸曹で帰国、濟陰寃句に居した。家世は寒素、父・暉は兗州左將軍府長史。子昇は崔靈恩・劉蘭に学び博覧百家、廣陽王淵の賤客として馬坊で奴子に書を教えていたが、常景に才を見出された。
  • 熙平初、中尉東平王匡の御史選抜(射策八百余人)で盧仲宣・孫搴ら二十四人と高第となり、御史となった(享年二十二)。臺中の文筆を一手に担った。李神儁の荆州赴任に従い錄事參軍を兼ねたが、吏部郎中李奬の反対で還った。正光末、廣陽王淵の東北道行臺郎中として軍國文翰を掌り、黄門郎徐紇との比較で「彼有溫郎中」と評され淵に絹四十疋を得た。
  • 淵が葛榮に殺された際、子昇も捕らえられたが都督・和洛興の助けで冀州に逃れ、李楷に「夷甫(王衍)に恥じぬ」と評された。以後宦情を絶ち閉門読書。建義初、南主客郎中・修起居注。上黨王天穆の怒りを買い逃遁したが莊帝に「当世才子、数人に過ぎず」と庇護された。天穆の邢杲討伐に同行を渋ったが後に応じ、伏波將軍・行臺郎中として重用された。
  • 元顥入洛の際、天穆に北渡を勧めたが用いられず、洛陽に戻り顥に中書舎人として仕えた。莊帝還宮後も舎人に留まり、尒朱榮誅殺の謀に加わり、赦詔の文は子昇の作。榮が詔書を尋ねた際も顔色を変えなかった逸話が伝わる。尒朱兆入洛時は禍を懼れ逃匿、永熙中に侍讀・舎人・鎮南將軍・金紫光祿大夫、散騎常侍・中軍大將軍、本州大中正。
  • 蕭衍が子昇の文筆を写し取らせ「曹植・陸機が北土に復生した」と称賛、吐谷渾の国主の牀頭にも子昇の文があったという逸話、濟陰王暉業の評(顔延之・謝靈運・沈約・任昉に比肩)、遵彦の『文徳論』での評(邢子才・王元景・溫子昇のみ徳を備えると評す)が記される。
  • 齊文襄王の大將軍府諮議參軍。蕭衍の客舘での対応(逋峭の言)、元僅らの乱への嫌疑で齊獻武王碑文を書かされた後に晉陽獄で餓死させられ、敝襦のまま屍を路隅に棄てられた。太尉長史・宋遊道が収葬し、文筆を集めて三十五巻とした。外は恬静で言に凖的があったが、内は深険で事故に関与しがちであったため禍を招いたと評される。『永安記』三巻も撰した。子はなかった。

史論

  • 史臣曰く、古人が名の朽ちぬことを貴んだのは、言の存すること、それによる才名の顕貴を重んじたためである。位微き者もまた靈虵の如く文才により天網に頓せられ、書物に名を連ね儒林に列すれば、位や身命の栄辱を超えて千載の後まで貴賤の差はない。これが道でなければ何がそれをなし得ようか。士たる者はこれを務めねばならない。