魏書卷八十二 列傳第七十 常景

常景、字永昌、河内の人。若くして聡敏で学に長け、律令考論・儀注撰定・碑銘作成などで重んじられた。杜洛周の乱では幽州行台として防備にあたり、晩年まで清貧を守り文史の著述に励んだ、当代屈指の文章家。

年表(11件)

出自と経歴

  • 常景、字永昌、河内の人。父の文通は天水太守。景は若くして聡敏、初めて『論語』『毛詩』を読んだ時、一度受ければすぐに理解した。成長すると才思があり文章を雅好した。廷尉の公孫良は律博士に推挙、高祖は自らその名を知り、まもなく用いた。後に門下録事・太常博士。正始初(504年)、詔で尚書門下が金墉・中書外省で律令を考論した際、勅で景を参議させた。

碑銘の評価と公主家令の議

  • 世宗の季舅(母方の叔父)護軍将軍髙顕が卒し、その兄の右僕射肇が私かに景、および尚書邢巒・并州刺史髙聰・通直郎徐紇に碑銘の作成を託し、各々作って呈御、世宗はこれを侍中崔光に付して選ばせたところ、光は景の作を最良とし、「常景は名位では諸人の下にあるが、文章は諸人の上にある」と上奏し、景の文を石に刻ませた。
  • 肇は平陽公主に嫁いだが、まもなく公主が薨じた際、肇は公主家令に居廬・服喪させようとして学官に議正させ施行しようとし、尚書はまた景に諮問した。景は「婦人には専ら国を治める理はなく、家令には純臣の義があるべきではない」として議を執り、喪紀の本は物に称して情を立て、軽重の因るところもまた情に縁って礼を制する、理は盛衰にかかり事は今古を経ても制作の本・降殺の宜しさは実質は一つであると論じた。臣が君に対して敬を資し重んじる理由、君母・妻に対して服従を制する義について詳述し、諸侯大夫が君のために服する場合は地土・吏属があるからで服文がないのはその爵が世襲でないためだと述べた。王姫(公主)が下嫁しても爵命を加えられるとはいえ、事は君邑と異なり列土とも異なる、諸王が国を開いた場合には臣吏がいて生前は趨奉の勤め死後には喪に尽くす礼があるが、公主家令はただ一人のみで丞以下の属官には接事の儀がなく実際に臣たる体を欠いていると論じた。公主の貴きゆえに家令を立てるのは主の内事が外に達する必要がある場合に人を介するためであり、家令は内外の職を通じ家の事を司るだけで君臣の理・名義の分には関わらないとし、これにより家令は純臣たりえず、公主は正君たりえないと結論した。女人が君となり男子が臣となることは古礼に記載がなく先朝でも議されていない、四門博士裴道広・孫栄乂らが公主を君とし家令を臣として斬(喪服)を制するのは大いに誤っており、また張虚景・吾難覊らは君臣の分を推さず致服の情を尋ねずになお同じ議論をし母に凖じて名実を求めるのは理として妥当ではないとし、公主の爵は食采の君ではなく家令の官も純臣の式がない、母に附せば情義が施せず、小君に凖ずれば従服の根拠がない、経礼には成文がなく服すべきでないと結論した。朝廷はこれに従った。

四賢の讚

  • 景は門下に長く留まり、何年も顕官に至らなかった。蜀の司馬相如・王褒・厳君平・揚子雲の4賢がみな高才を持ちながら重位を得なかったことに託して讃を作った。「司馬相如を讃える」に「長卿は艶才があり、直致にして群を抜く、性は鬱として春煙のごとく、挙は皎として秋月のごとし、梁に遊んで仁を好み、漢に仕えて常に病と称した、清貞は我が事にあらず、窮達は天命に委ねる」と詠んだ。「王子淵(王褒)を讃える」に「王子は挺秀にして、質は逸気に干す青雲、明珠は既に俗を絶し、白鵠は信に群を驚かす、才が世に合わなければ、遇不遇の道は自ら分かれる、空しく碧鶏の命を枉げ、徒に金馬の文を献ず」と詠んだ。「厳君平を讃える」に「厳公は沈静を体し、志を立て霜雪のごとく明らか、道を味わい微言を綜べ、端に妙説を演ず、才は羅仲の口に屈し、位は李強の舌に結ぶ、素より尚ぶは金貞にして、清標は玉徹を凌ぐ」と詠んだ。「揚子雲を讃える」に「蜀江は清流を導き、揚子はその余休を挹む、光を含みて後彦を絶ち、思いを覃めて前修に邈し、世は久しきを軽んじて賞せず、玄談は物の求めなし、当途は権寵を謝し、酒を置いて独り閑遊す」と詠んだ。

儀注編纂と地方官

  • 景は枢密にあること10余年、侍中崔光・盧昶・游肇・元暉に特に知賞された。累遷して積射将軍・給事中。延昌初(512年)東宮が建てられると兼太子屯騎校尉・録事(皆如故)。その年勅を受け門下の詔書を撰し合わせて40巻に及んだ。尚書元萇が西安将軍・雍州刺史に出た際、景を司馬に招請したが、景の階次が及ばず録事参軍・襄威将軍・帯長安令を除せられ、恵政があり民吏に称された。
  • 先に太常劉芳が景らと朝令を撰していたがまだ頒行に至らず、別に儀注を典り多くを草創したが未完のまま芳が死去、景がその事業を継承して完成させた。世宗が崩じると景は京に召還され儀注を修め、謁者僕射を拝命、寧遠将軍を加えられ、また本官のまま中書舎人を兼ね、後に歩兵校尉を授けられ舍人はそのまま。また勅で太和以後既に施行された朝儀を撰することを命じられ合わせて50余巻に及んだ。当時霊太后は詔で漢代の陰・鄧二后の故事に依り自ら廟祀を奉じ帝と交献することとし、景は正しい典拠に基づき儀注を定め、朝廷はこれを是とした。

知遇と国境慰労

  • 正光初(520年)龍驤将軍・中散大夫を除せられ舍人はそのまま。当時肅宗が国子寺で講学の礼を行い司徒崔光が経を執った際、勅で景は董紹・張徹・馮元興・王延業・鄭伯猷らと共に録義を務めた。事後にはまた釈奠の礼を行い、詔で百官に釈奠詩を作らせ、当時景の作を美とした。この年9月、蠕蠕主阿那瓌が朝廷に帰した際、朝廷はその席次に迷い、高陽王雍が景に訪ねると、景は「昔咸寧中(275-280年)南単于が来朝した際、晋世はこれを王公・特進の下に位置づけた、今日は蕃王・儀同三司の間に位置づけるべきだ」と答え、雍はこれに従った。朝廷の典章で疑いが決しない際は、常に景に諮って行った。
  • 初め斉を平定した後、光禄大夫髙聰が北京に移住した際、中書監髙允が妻を娶らせ資産と邸宅を給した。聰は後に允のために碑を立て「私はこの文で徳に報いるに十分だ」と言った。豫州刺史常綽はその美を尽くしていないと考え、景は允の才器を尊び、先に「遺徳頌」を作った。司徒崔光がこれを聞き見て長く味わい、「髙光禄は平日その文を誇り自ら允への徳の報いを許していたが、今常生(景)がこの頌を作ったのを見ると、髙氏だけがその美を独占することはできない」と述べた。侍中崔光・安豐王延明が詔を受け服章を議定した際、勅で景も参修した。まもなく冠軍将軍の号に進んだ。
  • 阿那瓌が国に帰った際、境上で遷延し窘乏を訴え、尚書左丞元孚を遣わし詔を奉じて振恤させたが、阿那瓌は孚を捕らえ柔玄を過ぎ漠北に奔った。尚書令李崇・御史中尉兼右僕射元纂を遣わし追討したが及ばず、景に出塞し瓫山を経て瀚海に臨み勅を宣べ衆を勒して戻るよう命じた。景は山水を経渉して悵然として懐古の情を抱き、劉琨の「扶風歌」に擬して12首を作った。征虜将軍の号に進んだ。

杜洛周の乱への対応

  • 孝昌初(525年)兼給事黄門侍郎、まもなく左将軍・太府少卿を除せられ舍人はそのまま、少卿は固く辞して拝命しなかった。散騎常侍に改授(将軍如故)。徐州刺史元法僧が反乱し蕭衍に入った際、衍はその豫章王蕭綜を遣わし彭城に拠らせた。当時安豐王延明が大都督・大行台として臨淮王彧らの衆軍を率いて討伐、蕭綜が降附し徐州が清復すると、景は尚書を兼ね持節として行台都督の元に馳せ機を観て部分(処置)し、洛汭を経て銘を作った。
  • 当時尚書令蕭寶夤・都督崔延伯・都督北海王顥・車騎将軍元恒芝らがそれぞれ出討し、詔で景は軍に赴き旨を宣べ労問、戻って本将軍のまま徐州刺史を授けられた。杜洛周が燕州で反乱した際、景は尚書を兼ね行台となり幽州都督平北将軍元譚と共にこれを防いだ。景は幽州の諸県を古城の山路に入れ通賊の場所には権宜に兵夫を発し戍を置いて防遏するよう上表、また近年徴兵が精壮を尽くしていないこと、今の三長は豪門で多丁の者であることを理由に権宜に兵を発することを求め、肅宗は皆これに従い、平北将軍の号に進んだ。別に譚に西は軍都関に至り北は盧龍塞に従い、この二嶮を拠って賊の出入の路を塞ぐよう勅し、また景に山中の嶮路を悉く捍塞するよう詔した。景は府録事参軍裴智成を遣わし范陽の三長の兵を発し白㠈を守らせ、都督元譚は居庸下口に拠った。
  • まもなく安州の石離・冗城・斛塩の三戍の兵が反乱し洛周に結び、衆2万余落が松岍から賊に赴いた。譚は別将崔仲哲らに軍都関を截らせ待たせたが、仲哲は戦死、洛周がまた外から呼応し腹背に敵を受け、譚はついに大敗、諸軍は夜に散った。詔で景の部下の別将李琚を都督とし譚に代わって下口を征させ、景は後将軍に降し州任を解いた。なお詔で景を幽安玄等四州行台とした。賊が南に出て薊城を鈔掠した際、景は統軍梁仲体に兵士を率いて要撃させこれを破り、賊将禦夷鎮軍主孫念恒を捕らえた。都督李琚は薊城の北で賊に攻められ軍は敗れ死去、属城の人を率いて防いだが賊は敢えて逼らなかった。
  • 洛周は戻って上谷に拠った。景に平北将軍・光禄大夫を授け行台はそのまま。洛周はその都督王曹紇眞・馬叱斤らを遣わし衆を率いて薊南で人・穀を掠め、連日の雨に遭い賊衆は疲労した。景は都督于栄・刺史王延年と共に兵を粟国に置きその走路を要し大いにこれを破り曹紇眞を斬った。洛周は衆を率い南の汜陽に趣いたが、景は延年および栄と共にまたこれを破った。さらに別将を遣わし州の西の虎眼泉でさらに破り、擒斬され溺死する者が甚だ多かった。後に洛周は南下し范陽を包囲、城人が翻って降り刺史延年および景を捕らえ洛周に送った。洛周はまもなく葛栄に併呑され、景もまた栄の元に入ったが、栄が破れ景は帰朝できた。

晩年の清貧と最期

  • 永安初(528年)本官を復し兼黄門侍郎、また著作を摂したが固辞して就かなかった。2年(529年)中軍将軍・正黄門を除せられた。先に正光壬子暦の議論に参与し、これに至り高陽子の爵を賜った。元顥が内に迫り莊帝が北巡した際、景は侍中大司馬安豐王延明と共に禁中で親賓を召し京師を安慰した。顥が洛陽に入ると景はなお本位に留まり、莊帝が宮に還ると黄門を解かれた。普泰初(531年)車騎将軍・右光禄大夫・秘書監を除せられ、詔命への参与の勤めにより濮陽県子に封じられ、後に例により追封、永熙2年(533年)議事を監修した。
  • 景は若い頃から老年まで常に事に任じ、清儉に自ら守り産業を営まず、衣食を得るのみとした。経史を耽好し文詞を愛玩し、新奇な書があれば懇ろに求め訪ね、あるいは高値でも問わずに購入し必ず入手することを期した。友人の刁整が常に「卿は清徳を自負し家業を事とせず、節約は尊ぶべきだが何によって自ら生計を立てるのか、私は摯太常のように柏谷で餓死するのではないかと恐れる」と語り、衛将軍羊深とその窮乏を憐れみ、刁雙・司馬彦邕・李諧・畢祖彦・畢義顕らを率いて各々千文の銭を出させ馬を買い与えた。
  • 天平初(534年)鄴への遷都に際し、景は一馬で駕に従った。当時詔が下ってから3日で40万戸が慌ただしく道に就き、百官の馬を収め尚書丞郎以下で陪従しない者は皆驢に乗った。斉献武王は景の清貧を理由に特に車牛4乗を給し、妻子はようやく鄴に到達できた。後に儀同三司を除せられ本将軍はそのまま。武定6年(548年)、老疾により去官、詔で「几杖を礼とし、安車で養を致し、齒を敬い賢を尊ぶことは古来のことである、景は芸業に該通し文史に淵洽で、三京(平城・洛陽・鄴)を歴事し年は五紀(60年)に及ぶ、朝章から退いて禄俸に余りなく家は壁のみが立つ有様、哀恤すべく元老を旌するため、特に右光禄の事力を給し身を終えるまでとせよ」と述べた。8年(550年)薨去した。

人柄と著述

  • 景は人と交わることに善く終始一貫していた、交遊した者は皆その深遠な度量に服し、かつてその矜吝(物惜しみ)の心を見た者はなかった。酒を好み栄利に淡泊で、懐抱に自得し権門に仕えず、性は和厚恭慎で、常に書を読み韋弦(教訓の格言)の事を見ると危うさを深く戒めた。そこで古の事を図し戒めとし、事に指して象讚を作った。
  • その象讚では、天は高くとも謹んで身をかがめ地は厚くとも謹んで歩を慎むべきという『詩経』の教えを引き、道が失われれば世は傾き利を重んじれば身は軽くなるとし、位が高くなるほど勢いは切迫し正しく立つほど邪に欺かれやすい、悔いは地の厚さより多く禍は天の高さより甚だしいと述べた。機が発する前に思い、車が覆る前に改めるべきで、覆ってから改めても及ばないと説き、財を厚くしても身は競わず爵が降っても心は繋がれず、善を守り成るを恐れ未だ敗れないうちに愆(過ち)を懼れるべきだと述べ、命を知ることを長寿とし天を楽しむことを大恵とし、智を戢めて時に従い愚を懐いて世に遊ぶことを説いた。声を去ってこそ声が立つのであり道を誇ってこれを宣べるものではない、危うさを慮ってこそ安きを固められるのであり道を借りて全うするものではないとし、君子は道を恃むことが声を流すことにはならないと鑑み声を去って道を懐き、道を専らにすることが勢いを守ることにはならないと鑑み勢いを去って道を崇めると説いた。利欲がその情を誘い禍難がその身にまとわりつけば、爵を帝の宮に縻がれても安んじられず珮を皇庭に結んでも栄えられない、身の道が究まらないうちに邪の径が既に形をなし功が立たないうちに正しい術が生じ、禍福は人事に交々塞がり屯難は時情に頓に萃まる、忠介は白日に心を剖き耿節は幽霊に骨を沈める、愚智の機・倚伏の係・全亡の依るところはただ遜順にあるのみだと結んだ。
  • 景の著述数百篇が世に行われた。晋の司空張華の『博物志』を刪正し、また『儒林伝』『列女伝』をそれぞれ数十篇撰した。長子の昶は若くして学識があり文才があったが早世した。昶の弟の彪之は永安中(528-530年)司空行参軍。

史論

  • 史臣曰く、琰之は学を好み博聞で邦彦(国の英才)として鬱然たるものがあった。祖瑩は幹能・芸用がまさに時の良才であった。常景は文義をもって重んじられ、美を当代に著した、その遺稿を見れば称賛に値する。