出自と広陵王擁立をめぐる進言
- 綦儁、河南洛陽の人、その先は代の人、祖の辰は并州刺史。儁は莊帝の時仕え累遷して滄州刺史となり、吏人に畏敬された。まもなく太僕卿を除せられ、爾朱世隆らが斉献武王を誅そうとした際、洛陽に赴き邙山に止まり文武百司・士庶を集め、「爾朱は暴虐で天常を曲げ弄んだ、私は義を挙げ信都の罪人を斬った、今まさに親賢を推戴し魏暦を昌えようとしている、誰が社稷を主とすべきか」と諮った。令が頻繁に発せられたが応じる者はなく、儁は席を避けて「人主の体は必ず度量が深遠で明喆仁恕であるべき、廣陵王(元恭)は世の艱難に遭いながら言を発せず長年を過ごした、人謀をもってこれを察すれば、爾朱に擁立されるとはいえ当今の聖主である」と述べた。献武王は喜んでこれを是とした。
- 当時黄門侍郎崔㥄が色を作して進み出て「廣陵王が主となっても魏の綱を継ぎ広めることができず、天下に徳を布くことができなければ、君としてこのようでは何の聖があろうか、もしその聖を言うなら大王(高歓)を待つべきだ」と述べ、髙乾邕・魏蘭根らも㥄の言を固く支持し、出帝(元修)を立てた。
佞巧な処世と最期
- 出帝が失徳に至ると、斉献武王は儁の言を深く思い、常に恨みとした。まもなく御史中尉を除せられたが、途中で僕射賈顕度と出会い、顕度は勲貴を恃み儁の騶列(先導の従者)を排除して倒し、儁は怒りを顔に表し、自ら入朝して奏した。まもなく散騎常侍・驃騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司を加えられた。儁は佞巧で権力者に取り入るのが巧みで、斛斯椿・賀拔勝と共に友好だった。斛斯椿が離間策を構えた際、出帝は儁に晋陽への詔を奉じさせ、斉献武王は文武を集めて儁と申し開きをし、儁は言葉に窮して退いた。
- 儁の性は詐りが多く、賀拔勝が荊州鎮に出る際、儁に別れを告げに立ち寄り、ついでに儁の母に暇乞いした際、儁はわざと敗氊(ぼろぼろの毛氈)や敝被(破れた布団)を見せ、勝はさらに銭物を贈った。後に吏部尚書を兼ね、再び滄州刺史に、その後召還され中尉を兼ね章武県伯、まもなく殷州刺史を除せられ州で薨じ、司空公を追贈、諡は文貞。
- 子の洪寔、字巨正は尚書左右郎・魏郡邑中正の位にあったが、酒を好み色を好み行いに検束がなく、官のまま死去した。