出自と爾朱栄への従属
- 侯莫陳悦、代郡の人。父の婆羅門は駞牛都尉、これにより悦は河西で育ち田猟を好み騎射に長けた。牧子の反乱の際、爾朱栄に帰し、栄は都督府長流参軍に招き、稍遷して大都督となった。莊帝の初め征西将軍・金紫光禄大夫を除せられ、栢人県開国侯・邑500戸を封じられた。爾朱天光が関西を討った際、栄は悦を天光の右廂大都督とし(本官如故)、西征の剋獲は皆天光・賀拔岳とほぼ同様の功績があり、本将軍のまま鄯州刺史を除せられた(余如故)。爾朱栄の死後も天光に従い隴を下り、元曄が立つと車騎大将軍・渭州刺史を除せられ、爵を公に進め白水郡に改封、邑500戸増。天光が洛陽に向かうと悦に華州事を行わせた。普泰中(531年)驃騎大将軍・儀同三司・秦州刺史を除せられた。天光が東出し義旗に抗しようとした際、悦は岳と共に隴を下り斉献武王に応じ、雍州に至ったところで爾朱氏が敗れた。永熙初(532年)開府・都督隴右諸軍事を加えられ、なお秦州刺史。
賀拔岳謀殺後の自壊と最期
- 永熙3年(534年)正月、岳は悦を召し共に霊州を討とうとしたが、悦は岳を誘って斬った。岳の左右は逃げ散ったが、悦は人を遣わし「私が別に受けた意旨は一人のみを標的とする、諸君は怖れるな」と慰め、衆は皆畏服し敢えて拒む者はいなかった。悦は心なお躊躇し即座に撫納せず、隴に戻って永洛城に止まった。岳の部下は平凉に集まり悦を討とうと計り、夏州刺史宇文黒獺を追って招いた。黒獺が至ると岳の部衆と家口を総べて高平城に入り自ら固め、さらに衆を率いて隴に入り悦を征討した。
- 悦はこれを聞き城を棄て南に退き山水の険に拠り陣を設けて戦いを待った。黒獺が至り遥かに悦を望見すると明日決戦しようとしたが、悦は先に南秦州刺史李景和を召しており、その夜景和は人を黒獺に遣わし密かに翻降を許した。暮れに至り景和はその部下に「儀同(悦)の教えで秦州に戻り守り賊を拒む」と命じ、軍人に厳備させ、さらに悦の帳下を欺き「儀同が秦州に戻ろうとしている、お前らはなぜ装備しないのか」と言うと、衆はこれを実と思い次第に驚き合い、情は惶惑して止められなくなり、皆散り走って秦州に趣いた。景和は先駆けて城に至り門を拠って慰輯した。
- 悦の部衆は離散し、猜疑して傍人を信ぜず、左右近くにいる者は既に2人の弟と子、および岳を謀殺した8、9人のみとなった。軍を棄てて数日逃走し、行くあてもなく彷徨った。左右は霊州に向かうよう勧めたが悦は決断できず、「隴を下った後、人に見られる恐れがある」と述べ、中山で従者を皆歩かせ自ら一頭の騾に乗り霊州に向かおうとした。途中で追騎が迫り、これを望見すると野中で縊死した。弟と子、部下は皆捕らえられ殺されたが、悦の中兵参軍で岳の謀殺を先に計画した豆盧光だけは霊州に逃げ、後に晉陽に奔った。悦が自殺した後の岳の霊は恍惚として常ならず、いつも「私は少し眠ると岳の夢を見る、『兄よ、どこへ行くのか、私に従って離れることはできない』と語りかける」と述べたと言われ、これによりますます自ら安んじられず、敗滅に至ったという。