張熠
- 張熠、字景世、自ら南陽西鄂人と称し、漢の侍中張衡を十世祖とした。熠は奉朝請から揚州車騎府録事参軍、入朝して歩兵校尉。永寧中(518-520年)寺塔の造営が盛んで経営が広大となった際、霊太后がかつて造営現場に行幸した際に質問すると、熠は詳しく説明し遺漏がなかった、太后はこれを善しとした。しばらくして冠軍将軍・中散大夫を除せられ、後に別将として長孫稚の西征に従い、平西将軍・太中大夫に転じ関西都督となり、功により長平県開国男・食邑200戸に封じられた。
- 永安初(528年)平西将軍・岐州刺史を除せられ仮に安西将軍、まもなく撫軍将軍を加えられ、貧弱な者を憐れみ民に愛された。代わって戻る際に元顥が洛陽に入り復州(元の州)への赴任を命じられたが、熠は私かに戻った。荘帝が宮に還ると鎮南将軍・東荊州刺史に出、まもなく散騎常侍・征蛮大都督を加えられ荊州刺史に転じたが、爾朱兆が洛陽に入った際は赴任しなかった。
- 普泰中(531年)衛将軍・金紫光禄大夫、天平初(534年)鄴への遷都の際、右僕射高隆之・吏部尚書元世雋が「南京(洛陽)の宮殿を毀撤して運び都に送るのに筏を連ねて黄河を経る、材木の損失を防ぐには賢明な一人に専ら受納を委ねるべきだ、熠は清貞で名高い、大将に挙げたい」と上奏、詔でこれに従った。熠は事に勤め、まもなく営構左都将に転じ、興和初(539年)衛大将軍、宮殿が完成すると本将軍のまま東徐州刺史を除せられ、3年(541年)州で死去、年60。驃騎大将軍・司空公・兖州刺史を追贈、諡は懿。子の孝直は武定末(550年頃)司空騎兵参軍。
史論
- 史臣曰く、成淹らは身をもって時運に遭遇し、皆その能力を発揮して顕達に至った。もし才がなければどうしてこれを致すことができようか。