魏書卷七十九 列傳第六十七 鹿悆

鹿悆、字永吉、済陰の人。太師彭城王勰の館客として仕え、単身彭城に赴いて豫章王綜の帰順工作に成功し、青州での討伐・琅邪救援でも功を立てた清廉な将。晩年は梁州刺史として滎陽の反乱鎮圧に失敗し降伏、関西に送られた。

年表(3件)

出自と国中尉時代

  • 鹿悆、字永吉、済陰の人。父の生は「良吏伝」にある。悆は兵書・陰陽・釈氏の学を好み、太師彭城王勰に館客として召された。かつて徐州に赴く際馬が疫病にかかり、船に付いて大梁に至った夜、従者が上陸して密かに禾4束を盗んで馬に飼わせた。船が数里進んだ後、悆はこれに気づき禾を得た場所を問い、報告を聞いて大いに憤り、船を停め上陸して禾を取った場所に縑3丈を禾束の下に置いて戻った。
  • 初め真定公元子直の国中尉となり、常に忠廉の節を勧め、五言詩を賦して「嶧山萬丈樹、雕鏤作琵琶、由此材高逺、弦響藹中華」、また「援琴起何調、幽蘭與白雪、絲管韻未成、莫使弦響絶」と詠んだ。子直は若くして令聞があったため、悆はその善終を望んで諷したのである。母の喪で去職、服喪明けに任に戻ったがまもなく死去した。子直が梁州に鎮出した際、悆は随行、州には兵糧の和糴があり、和糴に関わった者は皆家を潤したが、悆だけは取らず、子直が強いても従わなかった。

彭城潜入と豫章王綜の帰順工作

  • 莊帝が御史中尉となった際、悆は殿中侍御史を兼ね臨淮王彧の軍を監督した。当時蕭衍は豫章王綜を遣わし徐州に拠らせていたが、綜は密信を彧に通じ帰順の意を示した。綜は蕭衍の愛子であり、衆議はこれを信じなかったが、悆は人を募って報告し虚実を検証すべきと請い、「もし綜に誠意があれば盟約を結び、詐りならば一人の命を惜しまない」と自ら赴くことを申し出た。
  • 当時徐州は陥落したばかりで辺境は騒然としており、綜の部将成景雋・胡龍牙が強兵を統率し内外を厳固にしていた。悆は単騎で出て彭城に向かい、途中で綜軍主程兵潤に呼び止められ来意を問われ、「兵が交わる際にも使者は昔から通じるもの、私は臨淮王の使者で交渉が必要だ」と答えた。兵潤は先に人を遣わし龍牙らに報告、綜は誠意を持っており、悆が捕らえられたと聞いて景雋らに「私は常々元略(彧)が背反を企てるのではと疑っている、その虚実を確かめようと思う、元略の使者を装った者を軍中に喚べ」と述べた。使者は実際に到着し、悆は元略が既に衍に召還されたことを装う偽計に晒された。綜はさらに腹心梁話を遣わし悆を出迎え密かに意向を伝えさせ、うまく応答するよう命じ、悆を城に導き龍牙の元へ連れて行った。
  • 時は既に日暮れ、龍牙は仗を列ね火を挙げ「元中山(元略)がお前に会いたがっている、故に喚んだ」と述べ、「安豊・臨淮の将は少なく弱い、この城を復すことができようか」と問うた。悆「彭城は魏の東の辺境、勢いは必ず争う、得られるか否かは天による、人が測るところではない」。龍牙「まさに卿の言う通りだ」。悆は再び景雋の住所に赴かされ、外門で長く待たされた。夜が既に更け、星月が明るい中、綜軍主姜桃が悆と話し、元法僧が城を挙げて梁に帰した先例を挙げ、歳星が斗(星宿)にあり呉の分野に当たることを指し、なぜ梁国に帰らないのか、富貴にしてやると誘った。悆「君は一を知って二を知らない、法僧は不忠の臣の類であり梁がこれを納れたのは季孫への愧に等しい、今月の建は鶉首、斗牛が破を受け歳星(木星)が逆にこれを剋する、君の呉国はまもなく敗喪する、しかも衣錦夜遊(栄達を誇示すること)は識者が許さない」。
  • 話が終わらぬうちに景儁の元へ引き入れられ、景儁は「元中山は呼んだとはいえ、恐れずに来たのはなぜか」と問うと、悆は「昔楚が呉を伐った際、呉は蹷由を遣わして師を労った、今回の行もそれに似ている」と答えた。景儁はまた由縁を述べ、悆を同座に招き「卿は刺客ではないな」と問うと、悆は「今は使者として本朝に復命したい、刺す事は後の機会に考える」と答え、飯食・雑果が用意され、悆は強いて多く飲み食いし、周囲の者に自ら誇るような態度を見せると、人々は「壮士だ」と言い合った。
  • さらに元略の元へ導かれ、一人が悆を戸内に案内し床に座らせ、別の者が室中から出て「中山からの教えを伝える」と告げた。悆が立ち上がると、使者は「君はただ座っていよ」と言い、悆は「家国の王子が座って教命を聴くことがあろうか」と応じた。使者は「頓首、私は昔南に向かおうとして喚んだ、郷事を聞きたいが晩に来て動けず会えなかった」と述べ、悆は「まさに音旨を奉じ険を冒して赴いたが拝謁できず、内心穏やかでない」と答え、辞して退いた。
  • しばらくして夜が明け、綜軍主范朂・景儁の司馬楊晛らが競って北朝の士馬の多さを問うと、悆は北朝の大軍がまもなく数道に分かれ南下すると誇張して述べた。人々が「これは虚言ではないか」と言い合うと、悆は「崇朝(朝のうち)を待てば分かる、何の虚言があろうか」と答えた。日暮れに帰されることになり、景儁は悆を戲馬台に送り北方の城壘を望んで「この城の堅固さは彼(北魏)の軍士が図りうるものではない、卿は二王(安豊王・臨淮王)に回師改計を伝えよ」と述べると、悆は「金墉湯池(堅固な城)は甲兵の巧みさに勝る、守るのに人による」と答え、還軍の道中、梁話と盟約を交わし堅く誓った。
  • 旬日を経ず、綜は果たして降伏した。詔で、殿中侍御史監軍鹿悆が虎口を憚らず険を平地のように見なし、自ら募って入り虚実を検証し、盟約が固まったことで図った通りの成果を得たこと、地を返し城を復し兵甲を休ませたのも悆の力であると称え、定陶県開国子・食邑300戸を封じ、員外散騎常侍を除せられた。

青州での討伐と琅邪救援

  • まもなく青州に出て彭城王劭の府長兼司馬となり、まもなく「長」を解かれた。広川人劉鈞・東清河人房湏が反乱すると、劭は悆に州軍を監督させ討伐、商山で戦って大いに勝ったが、統率していた将たちは劭の側近で、勝手に首級を増やし賞帛を求め、悆は面と向かって拒否し、劭も従わなかった。悆は勃然として色を作し「志を尽くし言を立てるのは王のため国のためだ、どうして私事であろうか」と述べ、辞さずに退出、劭は追いかけて謝罪した。功を竊んだ者たちは陰口を叩き私的に害を加えようとしたが、悆はこれを聞いて笑い意に介さなかった。
  • 先に蕭衍は将彭羣・王辯を遣わし7万の軍で琅邪を包囲、春から秋まで官軍は至らず、両青(青州・南青州)の士馬はわずか1万余、師は鄖城に次いだが長く進めなかった。劭は悆を、南青州刺史胡平は長史劉仁之を遣わし共に諸将を監督して賊塁に直進させ大いに破り、羣の首を斬り2千余級を俘馘した。肅宗はこれを嘉し璽書で労問した。

清廉な暮らしと晩年

  • 永安中(528-530年)入朝し左将軍・給事黄門侍郎、また以前の徐の功が未だ尽くされていないとして食邑200戸を増し爵を侯に進めた。任は通顕にあったが志は謙退にあり、迎送の親賓への礼は以前より厚くしたが、自らは室宅を持たず常に賃貸に住み、布衣糲食で寒暑を通じて変わらなかった。莊帝はその清素を嘉し、たびたび銭帛を賜った。
  • 東徐城民呂文欣が刺史元大賔を殺し南に賊衆を引いて柵曲術に屯した際、詔で悆は持節・散騎常侍・安東将軍・六州大使とされ、行台樊子鵠と共に討破した。文欣の党の重は懸賞で捕らえられ、文欣の同逆人韓端が正しく文欣を斬りその首を送った。魁帥で共に死んだ者12人。詔書で慰労され、鎮東将軍・金紫光禄大夫を拝命、まもなく詔で使持節・兼尚書左僕射・東南道三徐行台とされた。東郡に至った際、爾朱仲遠が西兖を陥落させ滑台に向かい、詔で都督賀拔勝らと共に仲遠を防いだが軍は敗れ帰京した。
  • 普泰中(531年)征東将軍を加えられ衛将軍・右光禄大夫に転じ度支尚書を兼ね、河北五州和糴大使、天平中(534-537年)梁州刺史に除せられた。滎陽の民鄭栄業らが反乱を起こし州城を包囲した際、悆は守りきれず城を挙げて降り、栄業は悆を関西に送った。