魏書卷七十九 列傳第六十七 董紹

南朝への抑留と交渉

  • 董紹、字興遠、新蔡鮦陽の人。若くして学を好み文義に富み、四門博士から起家、殿中侍御史・国子助教・積射将軍・中書舍人を兼ね、対問(問答)に長け世宗に賞された。豫州城人白早生が城を挙げて叛いた際、詔で紹が慰労に赴いたが上蔡で賊に襲われ捕らえられ江東へ送られ拘禁された。蕭衍の領軍将軍呂僧珍は紹と話して器重した。衍はこれを聞き使者を遣わし紹を慰め「忠臣孝子は必要だ、卿を国に帰そう」と述べたが、紹は「老母は洛陽にいて心が乱れる、恩貸を受ければ生き返るようなものだ」と答えた。衍はまた主書霍霊超を遣わし「今卿を帰す、両国の好を通じさせ双方の民を休ませてほしい」と述べると、紹は「好を通じ民を休ませるのは両国の事だ、命を受けたら朝廷に上奏する」と答えた。
  • 衍は紹に衣物を賜い引見し、その舍人周捨に慰労させ、戦争が長年続き民が塗炭に苦しんでいることを理由に先に魏朝に通好を求めたが返答がないこと、卿がこの意を伝えるべきこと、伝詔周霊秀に紹を国まで送らせるので良い返事を待つと述べた。さらに「卿が死ななかった理由が分かるか、今卿を得たのは天意だ、千人の集団は治めなければ乱れる、故に君を立てて天下を治めるのであって天下をもって一人を養うのではない、通好を望むなら今宿豫を返せば漢中を返そう」と伝えさせた。
  • 先に詔で有司は捕らえた衍の将齊苟兒ら10人を紹と交換しようとしていた(事は『司馬悦伝』にある)。紹が戻ると世宗はこれを憐れみ、永平中(508-512年)給事中を除せられ舍人を兼ねた。紹は和議を陳述したが朝廷は許さなかった。しばらくして輕車将軍・正舍人を加えられ、歩兵校尉も除せられた。

肅宗期の軍事と地方官

  • 肅宗の初め、紹は「御天馬頌」を上表、帝はその辞を賞し帛80匹を賜り、龍驤将軍・中散大夫を除せられ舍人のまま、冠軍将軍を加えられ右将軍・洛州刺史に出た。紹は小恵を行うのを好み、民心をよく得た。
  • 蕭衍の将軍曹義宗・王元真らが荊州を寇し順陽・馬圈に拠った際、裴衍・王羆がこれを討ち、順陽を回復し馬圈を包囲したが城は堅く裴・王の糧は少なかった。紹は上書してその必敗を予言、まもなく裴衍らは果たして敗れ、順陽は再び義宗に奪われた。紹は気病を患い解州を求める啓を出したが詔で許されなかった。
  • 蕭寶夤が長安で反乱した際、紹は討伐を求める上書で「臣は瞎巴(片目の巴人)3千を率いて蜀の子(蜀人)を生噉(生食)しよう」と述べ、肅宗は黄門徐紇に「この巴は本当に瞎(片目)なのか」と問うと、紇は「これは紹の壮辞であり、巴人は勁勇で敵を見て畏れないという意味で実際に瞎ではない」と答え、帝は大いに笑い紹に速やかに行くよう命じた。平西将軍を加えられ、寶夤を拒んだ功により新蔡県開国男・食邑2千戸を賞された。

山南行台と最期

  • 永安中(528-530年)代わって戻り、安西将軍・梁州刺史、仮撫軍将軍・尚書を兼ね山南行台となり、清廉の評判を得た。前廃帝は元孚に代えた。紹は長安に至った時、爾朱天光が関右大行台であり、紹を大行台従事・吏部尚書兼務に啓した。また征南将軍・金紫光禄大夫を除せられた。天光が洛陽に赴く際、紹を後に留め、天光が敗れると賀拔岳が再び紹をその開府諮議参軍に招いた。永熙中(532-534年)車騎将軍を加えられ、岳は後に紹を高平に連れて行き牧馬させた。紹は悲しんで詩を賦し「走馬山之阿、馬渇飲黄河、寧謂胡闗下、復聞楚客歌」と詠んだ。後に宇文黒獺(宇文泰)に殺害された。子の敏は永安中(528-530年)太尉西閤祭酒。