魏書卷七十九 列傳第六十七 范紹

范紹、字始孫、敦煌龍勒の人。若くして崔光に師事し、太和初に太学生となり、太和16年に高祖に選ばれ門下通事令史となった。任城王澄への諫言や地方官・営田大使を歴任し、荘帝の初め河陰の変で害された。

年表(2件)

出自と学業

  • 范紹、字始孫、敦煌龍勒の人。若くして聡敏、12歳で父の命により就学、崔光に師事、父の喪により学業を廃したが、母がまた「お前の父は死の日にお前を遠く崔生の元に行かせるよう命じた、めったにない機会だ、既に期を過ぎている、遺命に従うべき」と戒め、紹は学に戻った。太和初(477年)太学生となり筭生に転じ、経史に広く通じた。
  • 太和16年(492年)高祖に選ばれ門下通事令史となり録事令に遷り奏文の集めを掌り、高祖に善しとされた。また侍中李沖・黄門崔光に知られ、出内(発着)の文奏の多くを委ねられた。高祖はかつて近臣に「崔光が従容としていられるのは范紹の力だ」と述べた。強弩将軍・積弩将軍・公車令に稍遷し給事中を加えられ、羽林監に遷った。

任城王澄への諫言と地方官歴任

  • 揚州刺史任城王澄が鍾離への遠征を求めた際、紹は勅命で夀春へ赴き澄と進止を議論した。澄「兵10万を要し往還100日、渦陽・鍾離・広陵・廬江の数道を同時に進めたい、糧仗・軍資は朝廷から速やかに送られる必要がある」。紹「10万の衆が往還100日には糧100日分が要る、今や秋も終わりに近い、これから兵仗を徴集しても間に合わない恐れがある、兵はあっても糧がなければどう敵に勝つのか、王には社稷のため深く思慮していただきたい」。澄は長く沈思して「実に卿の言う通りだ」と述べ、使者を還して状況を詳しく報告させた。後に澄は鍾離を征したが功なく戻った。
  • まもなく長兼奉車都尉に除せられ右都水使者に転じ、録事はそのまま。母の喪で去職、義陽が初めて復した折に起用され寧遠将軍・郢州龍驤府長史・義陽太守を帯びた。その年冬、都に使いして戻ると、朝廷は南討の計画があり、河北数州の田兵2万5千人を発し淮水沿岸の戍兵と合わせ5万余人、広く屯田を開くこととなり、八座(尚書省)は紹を西道六州営田大使とし歩兵校尉を加えた。紹は勧課(農業奨励)に勤め、頻年大いに収穫を得た。
  • また詔で紹は鍾離に赴き都督中山王英と鍾離攻略の形勢を論じた。英は必ず陥落させると固く言い張ったが、紹はその城隍・防守を観察し陥落させられないと考え班師を勧めたが英は従わなかった。紹は状況を詳しく報告、まもなく英は敗れた。
  • 詔で徐豫二境の民が少なく土地が広いことから、紹に処所を測量させ新たに一州を立てさせた。紹は譙城が地形・要衝の地であることから置州に適すると考え、南兖州を立てた。入朝して主衣都統となり中堅将軍を加えられ、前軍将軍に転じ、営田の功を追賞され游撃将軍を拝命、龍驤将軍・太府少卿に遷り都統はそのまま、長兼太府卿に転じた。紹は功を量り用を節し、煩雑を除いて簡素にし、賜給が千匹以上の場合は必ず別に覆奏してから出した。霊太后はその用心を嘉し、紹に毎月入見させ、国益民利のことは面陳させた。
  • 安北将軍・并州刺史に出て鎮守を清くし法を守り民の和を得た。山胡の来寇に対して撃退できず、これにより名声を落とした。再び入朝して太常卿。莊帝の初め、河隂で害された。