魏書卷七十九 列傳第六十七 成淹
成淹、字季文、上谷居庸の人。南朝宋・斉に仕えた後、皇興中に慕容白曜に降り北魏へ帰順した。弔問の礼をめぐる裴昭明との論争、蕭賾使節・王粛との応酬で弁才を発揮し高祖に重用された。晩年は都水・主客などを歴任し、平陽太守を経て帰朝後に没した。
年表(4件)
- 皇興中(467-)471年慕容白曜に降り北魏に帰順、兼著作郎を授けられる
- 太和中(477-)499年文明太后の弔問礼をめぐり南朝使節裴昭明と論争し押し勝つ
- 太和16年492年蕭賾の使者一行を接待し、王粛との問答でも高祖に才を認められる
- 景明3年502年平陽太守に出る
出自と南朝への従属からの帰順
- 成淹、字季文、上谷居庸の人。自ら晋の侍中成粲の六世孫と称した。祖の昇は北海に家し、父の洪(名は顕祖の廟諱を犯すため伏せる)は劉義隆(宋文帝)に仕え撫軍府中兵参軍、早くに死去した。淹は文学を好み気概があり、劉子業の輔国府刑獄参軍事、劉彧はこれを員外郎とし仮に龍驤将軍・領軍主として東陽・歴城の援護に当たらせた。皇興中(467-471年)慕容白曜に降り朝廷に赴き、兼著作郎を授けられた。
- 顕祖が仲冬の月に漠北巡幸をしようとした際、朝臣は寒さを理由に固く諫めたが聞き入れられなかった。淹は「接輿釈遊論」を上奏、顕祖はこれを読み尚書李訢に「卿らは成淹の論のように人の意を通じさせることができない」と述べ、行幸を停止させた。
弔問の礼をめぐる裴昭明との論争
- 太和中(477-499年)文明太后が崩じた際、蕭賾は散騎常侍裴昭明・散騎侍郎謝竣らを弔問に派遣し、朝服のまま儀式を行おうとしたが、主客(担当官)はこれを止め「弔問には常式がある、なぜ朱衣で山庭(陵墓)に入るのか」と述べた。昭明らは「朝命を奉じている、改められない」と数度言い張ったため、高祖は尚書李沖に学識ある者を選んで再度論議させるよう命じ、沖は淹を推挙した。
- 昭明は「魏朝がなぜ朝服での礼を認めないのか、何の典拠か」と問うと、淹は「吉凶は異なり礼には成数がある、玄冠で弔わないことは童孺も知る、昔季孫が行こうとした際に喪に遭った礼を問うた故事は千載の後も語られる、卿は遠く江南から弔問に来ながら成事に従わない、それでどの典拠から議論するのか」と答えた。昭明が「二国の交わりは久しく南北とも先例に凖ずるべき、斉高帝が崩じた際に魏が李彪を弔問に派遣したが素服ではなかった、斉朝も疑わなかった」と反論すると、淹は「李彪の弔問の日、朝命は弔服を持たせたが彼(斉)は追遠の慕を遵守せず月を超えて即吉した、彪が弔問した時、斉の君臣は既に玉を鳴らし庭に満ち百寮は朱服だった、彪は主人の命を受けられなかったが、我が皇帝の仁孝は虞舜・高宗に等しく諒闇以来百官は冢宰に聴従している、卿はこれを比較できるのか」と切り返した。
- 昭明は膝を揺すって「三皇の礼も同じではない、得失の帰趨など分かるものか」と言うと、淹は「その話なら、卿は虞舜・高宗を非とするのか」と返し、昭明らは顧みて笑い「孝でないと言うのは孔子の教えに背く責めだ、行人としてこれ以上は言えない、主人に弔服で裁量してほしい、使者は袴褶しか持たず戎服では弔問できない、緇衣幍を借りて国命を果たしたい、今は魏朝に強いられ指授に背けば帰国の日に本朝で罪を得るだろう」と述べた。淹は「彼(貴国)に君子がいれば卿が命を折衷して果たせば帰国の日に高い賞を得るだろう、君子がいなくても国の誉れを光らせただけで罪を得ても構わない、史官は自ら直筆するものだ」と応じた。
- 高祖は李沖を遣わし淹・昭明の言い分を尋ね、淹は状況を報告、高祖は沖に「私が人を得たということだ」と述べ、衣幍を昭明らに送らせ、淹には果物を賜り、翌朝昭明らを引見して文武百官に哀を尽くさせた。後に正侍郎、高祖は淹の清貧を理由に絹100匹を賜った。
斉使との応酬と王粛との論戦
- 太和16年(492年)蕭賾は散騎常侍庾蓽・散騎侍郎何憲・主書邢宗慶を朝貢に遣わした。高祖は淹に蓽らを案内させ、事後に館で酒食を賜った。宗慶が「南北の連和は久しいが、近頃信を棄て好を絶つのは大国の善隣の義に反する」と言うと、淹は「王者たる者は小節に拘らない、しかも斉の先主(蕭道成)は宋朝に代々仕え恩を受けてきたのに、それを欺き奪ったではないか」と反論、一行は皆顔色を失った。何憲は淹が昔南朝から来たことを知り「卿はなぜ于禁とならず魯粛となるのか」と言うと、淹は「私は危うきを捨て順に従い陳平・韓信の跡を追おうとした、于禁のようなことはない」と答え、憲は答えなかった。
- 王粛が北魏に帰国した際、高祖は淹に是非を観察させた。行幸に粛が扈従した際、朝歌で粛が「これは何城か」と問うと、淹は「紂の都、朝歌城」と答え、粛が「殷の頑民の子孫がいるはずだ」と言うと、淹は「昔武王が紂を滅ぼし皆河洛に移住させたが、劉石の乱華により司馬氏と共に東渡した」と答えた。粛は淹が青州に寓居していたことを知り「青州の間にはその子孫がいないとは限るまい」と笑うと、淹は「粛は本来徐州に隷属していた、青州は本来その地ではない」と切り返し、粛は馬上で口を掩って笑い、侍御史張思寧に「先ほどは戯言のつもりが言い負かされた」と語った。思寧はこれを報告し、高祖は大いに喜び彭城王勰に「淹のこの一件は勝負を制するに足る」と述べた。
- 車駕が洛陽に至った際、高祖は粛に朝歌での顛末を再び語らせようとし、粛は「私は朝歌で淹に困らされた、あの日の失言は再び言うべきではない」と言い、皆大笑いした。高祖が「淹は卿を制することができた」と言うと、粛は「淹の才詞は得難いもの、聖朝は昇進させるべきだ」と答えた。高祖が「これで淹を進めれば卿への辱めがさらに増すのでは」と言うと、粛は「淹が昇進すれば、臣は自分を屈して人を伸ばしたことになる、これぞ陛下の恵みで費えないというものだ」と述べ、酣笑して終わった。淹に龍廐上馬1匹と鞍勒・宛具、朝服1襲を賜り、謁者僕射に転じた。
遷都に際する諫言と黄河渡河の諫め
- 遷都の際、高祖は淹の家に旅費がないことを理由に人員を給し洛陽まで送らせ休暇も与えた。霊丘に差し掛かった際、蕭鸞が使者を遣わし駅馬で淹を召還させようとした。車駕が淮水を渡る際、淹は路傍で謁見を求め、高祖は駕を停めて進ませた。
- 淹「蕭鸞は悖虐で幽明ともに棄てられている、陛下は人神に応え剣を按じて江の岸に臨んでいる、しかし敵を侮ってはならない、蜂蠆にも毒がある、まして国にはなおさらだ」。詔「これは前車の轍だ、慎まざるべきか」。淹「発洛以来、諫める者が官を解かれ職を奪われたと聞く」。高祖「これは私の命令だ、卿は斧鉞を恐れずともよい」。淹「昔文王は芻蕘に諮り晋文公は輿人の誦を聴いた、臣は卑賤だが匹夫と同じにさせてほしい」。高祖はこれを容れ、絹100匹を賜った。
- 高祖が徐州に幸した際、淹に閭龍駒らと共に舟檝を主って泗水を汎び黄河に入り遡って洛陽に還るよう命じた。軍が碻磝に至った際、淹は黄河が峻急で危険があると考え上疏して諫めた。高祖は「朕は恒代に運漕の路がないため京邑の民が貧しいと考え、都を伊洛に移し四方に運を通じようとしている、しかし黄河は急峻で人は皆渡るのを難しがる、私はこの行を通じて必ず流れに乗るべきだと示し百姓の心を開こうとしている、卿の至誠は分かるが今は納れられない」と勅した。驊騮馬1匹・衣冠1襲を賜り、羽林監・主客令を除せられ威遠将軍を加えられた。
浮橋建造と晩年
- 当時宮殿が造営され始め、兵民の運材は日に万を数えた。伊洛の流れが凍りついて渉るのが苦しかったため、淹は都水に浮橋の建造を求める啓を出し、高祖はこれを喜んで容れ、朔旦の朝会で百官在位の中、帛100匹を賜り、左右二都水の事を知らせた。
- 世宗の初め、司徒彭城王勰が「先帝には元々の詔旨があり、淹は帰国の誠を尽くし歴官の功も著しい、優陟すべきだ」と述べ、選曹に伝えて淹を右軍・領左右都水に加え、主客令も兼ねさせた。さらに驍騎将軍・輔国将軍を授け、都水・主客はそのまま。淹は小心で法を畏れ、典客に10年在任し四方の貢聘の私的な贈り物を毫釐も受け取らず、衣食が足りないほどだったため外禄を求める啓を出した。景明3年(502年)平陽太守に出た(将軍如故)。帰朝後病で死去、本将軍・光州刺史を追贈、諡は定。
- 子の霄、字景鸞も学問を好み文詠を作ったが、詞彩は不揃いで多くは鄙俗、河東の姜質らと親しく交わり詩賦を興したが、知音の士からは嗤笑された。しかし閭巷の浅識な者たちには頌み諷され、世に大いに行われた。治書侍御史を歴任して死去した。