魏書卷七十八 列傳第六十六 張普惠

張普惠、字洪賑、常山九門の人(?–525年)。任城王澄に仕え礼制論争や諫言で知られた剛直な官僚。霊太后の父胡国珍への「太上」号追贈に反対するなど直言を重ね、蠕蠕送還や諸王封戸削減、考課(汎階)制度についても上疏した。最後は東豫州刺史として地方統治に当たり、任地で没した。

年表(4件)
  • 太和19年495年主書帯制局監となり劉桃符・石栄・劉道斌と同列で仕える
  • 熙平中(516-)518年吏部尚書李韶の推挙により寧遠将軍・司空倉曹参軍を除せられる
  • 正光2年521年蠕蠕主阿那瓌の送還に反対する上疏をするも聴かれず
  • 孝昌元年525年東豫州刺史として在任中に死去、年58

出自と経歴

  • 張普惠、字洪賑、常山九門の人。身長八尺、容貌魁偉。父の曄は斉州中水県令で、普惠は父に従い任地に赴き、斉の地で経学を専心修めた。故郷に戻ると程元に就いて三礼を学び、春秋・百家の説にも通じ、諸儒に称された。
  • 太和19年(495年)主書帯制局監となり劉桃符・石栄・劉道斌と同列で仕え、高祖に知られた。尚書都令史に転じ、任城王澄がその学業を重んじ声価を高めた。僕射李沖が澄の元を訪れ普惠の言論を聞き、これを善しとした。世宗初、積射将軍に転じ、澄が安西将軍・雍州刺史となった際、府録事参軍に啓せられ、まもなく馮翊郡事を行った。

任城王澄への諫言

  • 澄が服喪中に7月7日に文武百官を北園に集めて馬射を行おうとした際、普惠は礼制の観点から記(文書)を送り、喪中に射会・娯楽を行うのは礼に反すること、庫府が空虚で費用もかさむことを述べ、9月まで延期するよう提案した。澄はこれを容れ、辞をもって行事を取りやめた。
  • 澄が揚州に転じると普惠を羽林監・鎮南大将軍開府主簿として招き、威遠将軍を加えた。普惠は澄に重用され二藩(雍州・揚州)を歴佐し声誉を得た。帰京の際、装束は質素で、澄は絹20匹を旅費として贈った。帰朝後も羽林監。
  • 澄が太妃(母)の喪に遭い、臣僚が碑を立てて頌を作ろうとした際、碑の題を「康王元妃之碑」としようとした澄が普惠に諮問すると、普惠は礼典を調べ、「王妃」の称はあっても「元妃」の字はなく、魯の夫人・孟子が元妃と称するのは継室の聲子と対比するためであり、烈懿太妃が先王に配される場合は対比すべき聲子・仲子がいないので「元」の字は不要、氏を姓に配するのは生前の称であり死後は諡を姓に配すべきと答え、澄はこれに従った。

地方官歴任と免官

  • 王師(北魏軍)が鍾離への遠征を行った際、普惠は安楽王詮の別将長史となり、班師後揚烈将軍・相州安北府司馬、歩兵校尉に遷り、本官のまま河南尹丞を領した。世宗が崩じた際、甄楷らと酒宴に興じたことに連座して免官。
  • 驍騎将軍刁整の家で倹約な葬儀を営もうとした際、普惠は「時流に逆らいすぎる」として書を送って論じた(『刁雍伝』に見える)。
  • 故事として免官者は3年後に一階降格で復叙するが、才能優秀な者は特例で昇進できる。熙平中(516-518年)吏部尚書李韶が普惠の文学を評価し特例での顕叙を上奏、寧遠将軍・司空倉曹参軍を除せられ、朝議はこれを降格なしの栄誉と見なした。任城王澄が司空となった際、上表・議論・書記の多くを普惠が代作した。

喪服論の礼制論争

  • 広陵王恭・北海王顥が生母の祖母のための喪服を期(1年)とすべきか三年とすべきかで博士と意見が異なり、詔で群臣が議論した。普惠は礼典を詳細に引用し、始封の君は父兄弟を臣とせず親服を服すこと、公子の服の降制の理などから、二王の祖母(先朝から国太妃に冊命された者)は「始封の母」に準じるべきで、単なる公子の母のような軽い扱いにすべきではなく、三年の喪に服すべきだと論じた。
  • 国子博士李郁は議論後に反論の書を送ったが、普惠は礼典を根拠に3度応答し、郁の議論は屈した。普惠は諫議大夫に転じ、澄は「君が諫議になったことより、諫議が君を得たことを喜ぶ」と述べた。

「太上」号への諫言

  • 霊太后の父司徒胡国珍が薨じ、相国・太上秦公を追贈された際、普惠は「太上」の号は前世の后父に例がないとして詣闕上疏した。天に二日なく地に二王なしという理から、司徒に「太上」の号を用いるのは名分に反すること、漢の劉邦が父を太上皇と称した先例は帝者の事であって臣下には適用できないこと、孔子の「必也正名」の教えを引き、名分が正しくなければ言も事も成らないと説き、太上秦公の号を止め卑下不踰の称に改めるべきだと訴えた。また司徒の墓に磐石が出たことにも触れ、天地神霊の戒めかもしれないとし、霊太后が頻繁に司徒の墓に赴くことについても、天子の重責を持つ身が朝夕墓所に赴くのは慎むべきと諫めた。
  • 太后はこの表を読んで自ら胡国珍の宅に赴き、王公・卿尹・五品以上の官を集めて議論させ、普惠を召して問答させ、侍中元乂・中常侍賈璨に得失を監観させた。
  • 任城王澄が「漢の高祖も父を太上皇とした、聖母が父に太上公を贈るのも先例に基づく」と問うと、普惠は「天子は詔と称し太后は令と称する、周の十乱の一人文母(周文王の母)の例に照らせば、司徒を太上と呼ぶのは前例に合わない」と答えた。澄がさらに問うと、普惠は「太后は謙譲の徳から自ら『令』と称しているのに、なぜ嚴父の孝には謙譲しないのか」と反論した。
  • 太傅清河王懌が東晋の褚裒の例を引くと、普惠は褚裒が女(皇太后)の摂政で朝に入らず「太上皇」と譏られた故事は非難の例であって賛美の例ではないと答えた。侍中崔光が「小子侯」の例は鄭玄注に基づき正経ではないと指摘すると、普惠は正経の趣旨を述べたものだと反論した。御史中尉元匡・尚書崔亮・廷尉少卿袁飜らも次々に議論に加わったが、普惠はいずれにも礼典に基づき反駁し、袁飜には声を厲まして「これは雕虫小芸(些末な技巧)の及ぶところではない」と一喝、飜は恥じ入って黙した。任城王澄が「諫諍の体は各自の見解を述べるもの、なぜそんなに声を厲ますのか」と問うと、普惠は「言が是なら採用されるべき、非なら罪に問われる恐れがある、是非は弁ずべきで争いのためではない」と答えた。
  • 議論の末、群臣は「張普惠の言葉は屈しないが臣らと同意見ではない、既に渙汗の詔(既発の詔)が出ている以上、前の詔に従うべき」と上奏した。太后は元乂・賈璨を遣わし普惠に「卿が言ったことは孝子の志、羣公の議は既に定まっている、卿の意見に強いて従うことはできないが、後日また意見があれば遠慮なく言うように」と伝えた。普惠は詔を拝して退いた。

召命に応じた覚悟

  • 召された当初、伝詔が驊騮馬で急ぎ迎えに来た際、普惠の子らは恐れ涙したが、普惠は「休明の朝に諫議の職にあって、言うべきを言わず諫めるべきを諫めなければ、ただ官位を無為に食む(尸位素餐)だけだ、人生には死があるが死に所を得れば恨みはない、朝廷には道理があるから心配するな」と諭した。議が終わり、旨を賜り帰宅すると、親故はその幸いを祝った。
  • 中山の莊弼は普惠に書を送り、その学識と直言の勇気を称賛した。普惠はこれを喜び、たびたび口にした。

綿麻の税・朝見・郊廟祭祀への上疏

  • 普惠は天下の民の調(絹の幅・長さの規格)が尚書の計奏によって拡大され、綿麻の税も復活しようとしていることを憂い、上疏した。高祖が大斗を廃し長尺を去り重秤を改めて薄賦としたのは万民を愛したためであり、絹の幅・長さの規格に応じて綿麻の税額(絹に綿8両、布に麻15斤)が定められていたが、近年幅や長さが徐々に拡大され民の負担が増していることを指摘した。皇太后臨朝以前、陛下の諒闇の間に宰輔が本を尋ねずに綿麻税だけを免除したのは道理にかなった悦ばせ方ではなく、庫の中に既に大量の綿麻がありながら官吏がこれを窃取しているのが実情であり、綿麻税を復活させるより先に幅・長さ・秤量の規格を厳しく取り締まるべきだと説いた。
  • また朝直の日に随時謁見を求める上表をし、以後月一度の陛見が認められた。
  • 粛宗が朝政を親らせず仏法を過度に崇拝し、郊廟の祭祀を有司に委ねていることを憂い、上疏した。成湯・周公の故事を引き、陛下が郊廟の祭祀を親ら行わず有司に委ね、遊猟や馬術に興じることは清蹕(帝の巡行)の本義に反すること、無用の仏事に巨費を投じ俸禄を削って僧に供する一方、朝夕の祭祀は疎かにされていることを批判し、まず万国の心を悦ばせ親を祀ることを優先し天下の和平を図るべきで、仏教への過度の帰依より先に郊廟の礼・釈奠の礼を親ら行うべきだと説いた。また寺の不急の造営を減らし、既存の百官の俸禄を回復すべきとも述べた。詔で議に付された。
  • 釈奠の礼の日、日食が予測されたため朝を罷めるよう予め勅されたが、普惠はこれを礼に反するとして上疏で論じた。

時政得失の上表と宣光殿での対論

  • また時政の得失を4条にまとめて上表した。①法度を明らかにし斗尺を平にし租調を調整し賦役を軽減省略すること、②民の声を聴き怨訟を察し、先皇の旧事で政に不便なものは改めること、③忠謇の士を進め不肖を退け、賢を任じて疑わず邪を去って躊躇わないこと、④滅んだ国・絶えた家を興し、功臣・親族の子孫を取り立てること。
  • 粛宗と霊太后は宣光殿に普惠を召して事ごとに詰問し、長時間対話した。太后が「先皇の詔をいちいち翻すことがあってよいのか」と問うと、普惠は答えを渋ったが、太后が「左右を退けるから存分に述べよ」と促すと、普惠は「聖人が万物を養うのは傷ついた者を憐れむがごとし、二聖が大業を継ぐ以上、先帝の行事に有司の誤りや権宜の措置があれば、後で不可と分かったものは正すべきで、聖上が理の是非を問わず一切それを抑えるのは、蒼生が聖徳に望むところではない」と答えた。太后が「小さな事をいちいち改めるのは煩擾になる」と言うと、普惠は「聖上の民を養うのは慈母が赤子を養うがごとし、赤子が危難に瀕しているのに煩わしいからと救わないのは慈母の道ではない」と反論した。
  • 太后が「天下の民にそのような苦しい事があろうか」と問うと、普惠は「天下の親懿で太師彭城王より重い者はないが、それでも枉死を免れなかった、まして微細な民の苦しみがないはずがない」と答えた。太后が「彭城王の子3人には既に爵を封じた、何を言う必要があるか」と言うと、普惠は「聖后が彭城の三子に爵を封じたことは天下皆喜んでいる、慈母の在上を知ったからこそ、臣は重ねて陳べる、このような枉げられた事例は他にもある、どうか聖察を垂れてほしい」と答えた。太后が「卿は滅国を興し絶世を継ぐと言うが、いったい誰がそれに当たるのか」と問うと、普惠は「昔淮南王が反逆して誅されても漢文帝はその4子を封じた、これは骨肉を棄てられない親親の道だ、故太尉咸陽王・冀州刺史京兆王は皇子皇孫でありながら一時の過ちで悔いを残し埋もれたまま収められていない、これは興滅継絶の意にそぐわない、二王を改葬しその子孫を封じることを願う」と述べた。太后は「卿の言には理がある、朕は深く心に留める、公卿に博議させよう」と応じた。

任城王澄への弔問と尚書右丞への推挙

  • 任城王澄が薨じた際、普惠は吏民の義と受けた恩により、朔望ごとに弔問に赴き、禅除(喪明け)に至るまで寒暑風雨を厭わず必ず参った。澄は生前普惠を高く評価しており、薨去の際に尚書右丞への推挙を上奏していた。霊太后は澄の死を深く悼み、この上奏に従って詔を出した。しかし尚書の諸郎は普惠の家柄が低いことを理由に管轄下に置くことを拒み、上省を紛糾させたが、やがて収まった。

蠕蠕送還への反対

  • 正光2年(521年)、詔で楊鈞を遣わし蠕蠕主阿那瓌を国に送還させることになった際、普惠は後患を招くとして上疏した。蠕蠕は内紛と天譴により自滅しつつあり、王朝が労力を割いてまで介入する必要はないこと、漢の高祖が白登山で困窮した故事、樊噲が匈奴討伐を唱えた際に季布が反対し斬るべきと迫った故事を引き、今の旱魃の厳しさの中でわずか1万5千の兵で楊鈞に蠕蠕平定を任せるのは時勢に逆らう行為であること、阿那瓌を保護すること自体は良いが民を疲弊させてまで天に見放された虜を助けるべきではないこと、高車と蠕蠕が長年互いに争い自滅するのを待って一挙に併呑するのが得策であり、今回の派兵は北方情勢を無用に刺激し危険だと諫めた。
  • 詔答では、窮鳥懐に入るの情、納亡興喪の大義を説きつつも普惠の忠誠を嘉した上で、既に決定した方針であるとして退けた。

東道行台・涼州刺史辞退・西道行台

  • 蕭衍の義州刺史文僧明が城を挙げて帰順した際、揚州刺史長孫稚は別駕封夀を派遣して城を守らせたが、蕭衍の将裴邃・湛僧が兵を率いて攻めた。詔で普惠を持節・東道行台・攝軍司として救援に赴かせたが、軍が淮水を渡る前に封夀は既に城を棄てて退却しており、軍は罷めて帰朝した。
  • 蕭衍の甥、西豐侯正德が偽って降伏を称した際、朝廷は迎え入れようとしたが、普惠は上疏して蕭氏に還すべきでないと諫めたが聴かれず、まもなく正德は逃げ戻った。
  • 涼州刺史石士基・行台元洪超が共に贓貨の罪で処罰された際、普惠は右将軍・涼州刺史・西行台とされたが病を理由に辞退、光禄大夫・右丞(如故)を除せられた。
  • 先に仇池・武興の氐族がたびたび反乱し、西垂の郡戍で租運が久しく絶えていたため、詔で普惠を持節・西道行台とし、秦・岐・涇・華・雍・豳・東秦の7州の兵武3万人の召発、南秦・東益二州の兵租の諸戍への分配を任せ、部下の将統は関西の牧守の中から機に応じて召遣させ、軍資・板印なども自由に用いさせた。

西道行台での失策

  • 普惠は南秦に至り、岐涇華雍豳東秦6州の兵武の召発を停め、秦州の兵武4千人を4統に分配して租を送らせ、軍営を連ねて柵を接し進軍させ、運租の車驢も機に応じて輸転させた。また中散大夫封答を南秦の慰喩に、員外常侍楊公熙を東益の氐民の慰労に遣わした。
  • 当時南秦の氐豪呉富が兇徒を集めて各地で略奪しており、公熙が東益に着くと、東益州刺史魏子建は普惠に密書を送り、公熙が旧蕃国の子孫であり氐族と接触した際に隠密のやりとりがあった可能性を指摘し警戒を求めた。普惠は符を発して公熙を南秦に召還させたが、公熙は既に密かに従兄の山虎を呉富の反乱に加担させており、また虚偽の噂を流して郷里を騒がせ、氐族らは崔南秦(公熙)との確執を口実に応じなかった。
  • 租が平落に達すると呉富らが車営を脅かしたが、これも実は公熙が密かに手配したものだった。後に呉富は左右に殺されたが、その残党はなお盛んだった。秦州(闕字)が管轄する武都・武階の租はほぼ届いたが、東益の氐族で先に帰順していた広業・仇鳩・河池の三城の粟は入ったものの、東益に入るべき10万石の租は滞留し升斗も届かず、鎮戍の兵武は飢えに苦しんだ。人々は普惠の経略が広く行き届かなかったことを恨んだ。事が終わると普惠は上表して公熙を弾劾し、帰朝して絹布100端を賜られた。

諸王封戸削減への上疏

  • 詔で冤罪・不当な処遇の訴えを募った際、普惠は諸王・宗室の封戸削減問題について上疏した。『詩経』の「本枝百世」、『易経』の「開国承家」の理念、漢の高祖の封爵の誓い(黄河が帯のように細くなり太山が礪石のように小さくなるまで国を永存させる)を引き、功臣・宗室の子孫は罪を犯さぬ限り代々優遇されるべきで、一律に世代ごとに封戸を削減する「世減」の法は誤りだと論じた。
  • 故尚書令元肇が「初封の詔」を誤読し、親王2千戸・始蕃1千戸・二蕃5百戸・三蕃3百戸の規定を「世減の法」と解釈したため、勲親の子孫が不当に封戸を削られ冤訴が絶えない現状を批判した。礼制・封爵の等級論(公侯伯子男の貢税比率など)を詳しく引きながら、太和年間の詔の本意は世減ではなく初封時の等級に応じた貢税の差であったことを論証し、故太傅任城王澄も生前この誤りを正そうとしていたことを述べた。また律の罪の減免と先帝の緦麻服(遠い親族)への恩恤が矛盾していることも指摘し、諸王の封戸削減を元に戻すよう求めた。

考課(汎階)制度への上疏

  • さらに官吏の考課(汎階=一律昇進)の制度についても上疏した。世宗の詔で百官が一律一階昇進した際、内外貴賤に等しく恩沢が及んだが、その後の運用で牧守の外禄には汎階が与えられず、散官の考課年限が改変されるなど制度が一貫せず冤訟を招いていると批判し、正始・景明の旧例に倣い内外百官に等しく汎階を及ぼすべきだと論じ、官はその人を選ぶべきであり単に在職年数の長さだけで昇進させるべきではないと説いた。

東豫州刺史としての治績と最期

  • これらの上疏の後、普惠は左将軍・東豫州刺史に出た。淮南九戍十三郡は蕭衍統治時代の弊害を引き継ぎ、別郡・異県の民が錯雑して居住していたため、普惠はこれを順序立てて括り比べ、郡県を省減する上表をし、詔で許可された。これにより宰守の統治が行き届き、姦盗が起きず、民に便益をもたらした。
  • 蕭衍の将胡貴が安陽に来寇した際、軍主陳明祖らが白沙・鹿城の二戍と協力し撃退。蕭衍がまた定州刺史田超秀・由僧達らを遣わし石頭戍を密かに陥落させ安陂城に拠り、郢州新塘の賊が州の西数十里に迫った際も、普惠は前後して将を遣わし戦い、いずれも撃破した。
  • 普惠は財産経営に努めず、人材の推挙や旧知への厚遇を好んだ。冀州の侯堅固は若い頃普惠と共に遊学したが早世し、その子の長瑜には普惠が四季ごとに俸禄を分けて衣食を給し、豫州に赴任した際には長瑜を出仕させ、その一族全体を救済した。
  • 孝昌元年(525年)3月、州で死去、年58。平北将軍・幽州刺史を追贈、諡は宣恭。
  • 長子の栄儁は武定末(550年頃)斉王相府属。栄儁の弟の龍子は揚州驃騎府長史。

史論

  • 史臣曰く、孫紹は関右の士でありながら世務を指し論じる才能もあり、これもまた彼の志であった。張普惠は典故に明達で剛直に官に仕え、屈することなく毅然としており、王臣の風格を備えていた。