魏書卷七十七 列傳第六十五 高謙之

渤海蓨の人、字は道譲。継母への孝行で知られ天文・算暦にも通じた学者肌の官人。河陰県令として治績を挙げ、選挙制度・徭役軽減・鋳銭改革などを上疏したが、その直言が寵臣の恨みを買い国子博士へ左遷され、さらに弟道穆への遺恨を持つ李世哲一族の讒言で獄死した、享年四十二。

年表(4件)

経歴と学識

  • 子の謙之、字道譲は若くして継母の李氏に事え孝で知られた。李も自らの子以上に慈しみ育て、世間は兄弟の実の出自の異同を見分けられなかった。成長すると人事を断ち経史に専念し、天文・算暦・図緯の書に広く通じ、日に数千言を誦した。文章を好み老易(老子・易経)に意を留めた。
  • 爵を襲い奉朝請から出仕、宣威将軍を加えられ、奉車都尉・廷尉丞に転じた。正光中(520-524年)、尚書左丞元孚が蠕蠕慰労中に反乱に遭い拘留され、蠕蠕が大掠して帰った際に孚も帰国、事件は廷尉に下され、卿以下は孚に罪なしとしたが、謙之だけは孚が使命を辱めたとして流罪を主張した。尚書は同僚(卿ら)の意見に従うよう詔可としたが、謙之はなお上奏した。

河陰令としての治績と上疏

  • 孝昌初(525年)河隂県令を行った。先に、ある者が瓦礫を袋に詰め銭に見せかけ市人の馬を騙し取り逃亡した事件があり、詔で必ず捕らえるよう命じられていた。謙之は偽の枷をかけた囚人を馬市に立たせ「これが前の詐欺で馬を盗んだ賊だ、今から刑に処す」と触れ回らせ、密かに腹心を市中に潜ませて私語を探らせたところ、二人が喜んで「もう心配ない」と言い合ったのを捕らえて尋問、盗馬の徒党を全て摘発し、以前の盗竊の資財の隠し場所も判明して遠方から失物を訴える者が続々と本物を取り戻した。まもなく寧遠将軍・河隂令(正式)を拝命、県で2年、治績で多くの先例を作った。弟の道穆(恭之)は御史として朝廷でも能吏の名を得ており、世は父子兄弟の当官の評判を称えた。
  • 旧制では二県(河南・河隂)の令は面と向かって得失を陳述できたが、佞幸の輩がこの制度を嫌い、共に奏して廃止させた。謙之は上疏し、臣は不才ながら神邑を宰する任にあり法を奉じ官に恥じぬことを思うが、豪家の親族・戚里の縁者は令が捕らえる度に憎悪と怨みを抱き、県令は軽輩でこれに対抗できないこと、先帝はかつて詔で面陳を許し朝貴は政に干渉できなかったが、近年この制度が廃れ県の宰の威が軽くなり下情が上に通じなくなったこと、二聖(先帝ら)が堯舜・高祖に倣うことを望むなら旧制を明らかにして姦豪を戒めるべきだと述べた。詔は「この上奏は朕の意にかなう、外に付して検討させよ」と応じた。
  • さらに上疏し、夏の徳が衰えた時に少康が中興し、周の道が廃れんとした時に宣王が中興の功を立てたように、国に常に安定した状態はなく明主が方策を変え道を改めるべきだと述べた。正光以来、辺境で兵乱が続き軍費が絶えず、弓弩・格闘の賞募は出身を伴い槊で敵を斬れば階級が上がるため四方の壮士は競って従軍したがるが、実際には守帥が不適格な者が多く、親者を偽って募集に応じさせたり他人に弓を引かせて虚偽の出征功績を得たりし、実際には兵は出陣せず奴僕を代わりに送るだけで敵に対して一度も弓を引かない者もいると批判した。これでは爵位は空しく与えられ賊は減らず忠貞の士は励まされないこと、加えて近習・戚属・朝士が官庁に請託し威福を恣にし清廉な者はかえって讒毀されることも述べた。
  • 長年の徴発で民は流離し王役から逃れ田畑を顧みない、もし帰農を許し徭役を軽くすれば流民は必ず戻り開墾が進む、厳令で締め付けるだけでは逃亡者が増える一方だ、国家は民が自分を慕わないことを患うより政が立たないことを患うべきだと説き、琴瑟の調子が狂えば弦を張り直すように政も改めるべきだと述べ、末尾で「陛下が採用するなら、臣の上奏の後、笑みを含んで泉下に入れる」と結んだ。
  • 霊太后はこの上疏を得て左右近侍の寵臣たちを責めたため、彼らは謙之を恨み、太后に「謙之は学芸に優れているので国学に置いて胄子の教育に当たらせるべき」と進言、詔でこれに従い謙之は国子博士に任じられた(実質的な左遷であった)。

交友と著述

  • 謙之は袁飜・常景・酈道元・温子昇らと親交を結び、贍恤(困窮者救済)の言諾を違えなかった。家では僮隷を打擲する際、その子の前で父母を撻たなかった。奴婢が子を三人産めば一世を免除し、髠黥(黥刑の奴隷)を置かず、常に「皆同じ人体を稟けているのに、なぜ残害するのか」と語った。
  • 父方の舅氏の沮渠蒙遜がかつて涼土を拠点としたが国史に記録が欠けていたため、謙之は『涼書』10巻を著し世に行われた。涼国は仏道が盛んだったため、これを論じて貶し、仏教を「九流の一家」に過ぎないと論じた。当世の名士が仏理をもって挑んだが謙之はことごとく論破した。当時の暦法が未だ完全でないとして改元・改暦を試み一家の法として撰述したが世には行われなかった。しかし議者はその多才を称賛した。

鋳銭の上表と最期

  • 鋳銭が朝議にのぼった際、謙之は鋳銭都将長史となり、三銖銭の鋳造を求める上表を行った。銭貨は有無を通じ交易を便にするための本であり、故に軽重は世代によって異なると述べ、太公が周のため九府圜法を置いたこと、景王の時に大銭を改鋳したこと、秦が海内を兼併し半両銭を重んじたこと、漢が秦銭を改め楡莢銭を鋳、文帝5年(前175年)に四銖銭、武帝は三銖銭を経て元狩中(前122-117年)に五銖銭・赤仄銭(一当五)を造ったこと、王莽は6等の銭(大銭12銖から一銖まで)を制定したこと、魏文帝は五銖銭を廃し明帝が復活させたこと、孫権は江左で大銭(一当五百)を鋳、赤烏年間にはさらに大銭(一当千)を鋳たことなど歴代の銭制の変遷を述べ、軽重大小は時に応じて変わるべきものだと論じた。
  • 漢の武帝が財政窮乏の際に新たな財源策を採り豊かになった例を引き、今は妖賊が跋扈し徴税が煩雑で財用が尽きようとしている、小銭を別に鋳れば富を益し損はない、五銖銭と併用させれば国に損なく益があると主張した。詔でこれに従おうとしたが実施前に謙之は死去した。

高謙之の弟・道穆の糾弾と謙之の刑死

  • 謙之の弟の道穆は正光中(520-524年)御史として相州刺史李世哲の事件を糾弾し、大いに世哲の家を辱めたため、世哲家は恨みを抱いていた。世哲の弟の神軌が霊太后に深く寵任されるようになり、謙之の家僮が良民を訴えたことに関連し、神軌は左右を通じて尚書に諷し謙之を廷尉に禁固させた。
  • まさに神軌が赦されようとした時、神軌は霊太后に啓し獄中で詔をもって謙之に死を賜わった。時に年42。朝士はみな哀れんだ。著した文章は百余篇、別に文集があった。永安中(528-530年)征虜将軍・営州刺史を追贈、諡は康。さらに一子に出身(任官の資格)を与え冤罪を明らかにした。
  • 謙之の妻、中山の張氏は明識ある婦人で、諸子に師について学ぶよう勧め、常に「私がお前たちの家の嫁になって以来、お前たちの父が一日も読書しない日を見たことがない、お前たちも各々勤めを修め、先業を廃してはならない」と戒めた。

高子儒

  • 謙之の長子の子儒、字孝礼。元顥が洛陽に入った際、叔父の道穆は駕に従い北巡していたが、子儒は後に黄河を渡り行宮に至り、荘帝は子儒に洛陽の情勢を尋ね、子儒は元顥の敗北が旦夕に迫っていることを詳しく述べた。帝は道穆に「卿が最初に来た日、なぜ子儒を一緒に連れて来なかったのか」と問い、道穆は「臣の家は百口が洛陽にあり、その世話が要る、また今日子儒が来ることで京師の後事を知らせようと思った」と答えた。帝は「子儒は卿の本懐に適うだけでなく、朕の意も大いに慰めた」と述べた。
  • 秘書郎中を授けられ通直郎に転じ、後に安東将軍・光禄大夫・司徒中兵参軍・祭酒を兼ね爵を襲った。興和初(539年)兼殿中侍御史、当時四方に流民が多く、子儒は梁州・北豫・西兖三州検戸使となり多くの成果を上げた。後に公事で去官、武定6年(548年)死去、年41。
  • 子儒の弟の緒、字叔宗は聡明で学を好み、謙之はかつて人に「我が家門を興すのはこの子だろう」と語った。成長すると書伝を渉猟し文詠を好み、司空行参軍から長流参軍、鎮遠将軍・冀州儀同府中兵参軍。府主封隆之に評価され、隆之が梁州・済州を行う際に随行させ、常に数郡を総攝させた。武定3年(545年)死去、年32。
  • 緒の弟の孝貞は武定中司徒士曹参軍。孝貞の弟の孝幹は司空東閤祭酒。