魏書卷七十七 列傳第六十五 高崇

出自と経歴

  • 高崇、字積善、渤海蓨の人。四世祖の撫は晋の永嘉中(307-313年)、兄の顧と共に高麗に逃れた。父の潜は顕祖(北魏献文帝)の初め帰国し、開陽男の爵を賜り遼東に居住した。詔で沮渠牧犍の娘を潜の妻とし、武威公主に封じ、駙馬都尉を拝命、寧遠将軍を加えられ死去した。
  • 崇は若くして聡敏で端謹と称され、中散に徴され尚書三公郎に転じた。家資は富み僮僕千余人がいたが、崇は倹素を尊び車馬器服は事足りるのみとし、自ら修潔を保ち人と競わなかった。
  • 崇の舅氏(母方)が事件で誅され、公主(母)は本来の血統が絶えたのを悲しみ、崇を牧犍の後継として姓を沮渠に改めさせた。景明中(500-503年)、本姓の復帰と襲爵を上奏し、領軍長史・伏波将軍・洛陽令に遷り、政治は清廉で判断力があり、吏民はその威風を畏れ、摘発を恐れることなく行い県内は粛然とした。
  • 朝廷はまさに昇進させようとした矢先に病死、年37。漁陽太守を追贈、永安2年(529年)さらに征虜将軍・滄州刺史を追贈、諡は成。崇はかつて友人に「仲尼の四科は徳行を首とする、人がよく身を立て自らを律すれば典訓を忘れないということだけで十分だ、故に我が子らは(闕)」と語った(この先は底本の欠字により不明)。