出自と経歴
- 宋飜は字を飛烏といい、廣平列人の人。吏部尚書宋弁の族弟にあたり、若い頃から剛断で世に許された。
- 世宗の初め、奉朝請から出仕し、本州治中、廣平王(愉)郎中令を経て河隂令となった。
- 弟の道璵は先に冀州京兆王愉の法曹行参軍だったが、愉の反乱に巻き込まれ、飜と弟の世景は共に投獄された。道璵は後に愉を離れ罪を帰したが、それでも死罪となった。飜と世景は除名処分を受けた。
地方官としての実績
- 後に治書侍御史・洛陽令・中散大夫・相州大中正、また治書を兼ね、左将軍・南兖州刺史に転じた。
- 蕭衍の将が荊山に拠って寿春が陥落し、賊は項城に迫った。飜は将の成僧達を送って襲撃させ、しばしば撃破し、州境は平穏になった。
- 孝荘帝の時、司徒左長史・撫軍将軍・河南尹。かつて河隂令だった頃、順陽公主の家奴が強盗を働きながら送検されなかったため、飜は兵を率いて公主邸を囲み、公主の婿馮穆を捕らえ、炎暑の日中を歩かせて県まで連行した。
- 県には旧来「彌尾青」と呼ばれる大枷があり、吏がこれを焼こうとしたが、飜は「南牆の下に置いて豪家を待て」と命じた。後に内監の楊小駒が県で無礼を働いた際、彌尾青でこれを鎮圧した。
- 楊小駒が世宗に訴え、世宗は激怒して河南尹に取り調べを命じたが、飜は自ら詳しく弁明し、詔では「卿はことさら朝法に背いたのか、威を作して名を買おうとしたのか」と問われた。飜は「名を買おうとしたのではなく、留めたのは百姓に対してではなく、小駒のような凶暴の徒に備えたまで」と答え、これにより威名は京師に轟いた。
- 洛陽尹・河南尹在任中、権勢を憚らせて評判を得たが、その分、当世での評価はかえって減じたという。
- 永安3年(530年)、在職のまま死去し、侍中・衛将軍・相州刺史を追贈された。出帝の初め、驃騎大将軍・儀同三司・尚書左僕射・雍州刺史を追贈され、諡は貞烈。
宋飜の子・弟たち
- 子の思遠は司空従事中郎で死去した。
- 弟の毓、字道和は篤実で志行があり、平西将軍・太中大夫。子の世軌は斉文襄王大将軍府の祭酒。
- 毓の弟世景は「良吏伝」に記される。
- 世景の弟叔集も学行があり、征東の裴衍が葛栄を討った際に員外散騎侍郎として従軍、裴衍の敗死と同時に戦死した。
- 叔集の弟道璵は若くして敏才があり、世宗の初め才学を認められて召され、秘書丞の孫恵蔚と群書を校訂し是非を考正した。太学博士から京兆王愉の法曹行参軍に転じ、死に臨んで詩と挽歌を作り親朋に贈って怨痛の情を示した。かつて著作佐郎の張始均に詩を贈り、その末章に「子深懐璧憂、余有当門病」とあった。道璵は難を免れず、始均もまた世の禍に遭い、当時の人々はこれを怪しんだ。道璵に子はなく、兄の毓が第三子の子叔を継がせた。