魏書卷七十六 列傳第六十四 張烈
順陽籠城の功
- 字徽仙、清河東武城の人。高祖から「烈」の名を賜り、それを字とした。曽祖・張悕は慕容儁の尚書右僕射、曽祖・張恂は散騎常侍で慕容徳の南渡に従い斉郡臨淄に居住。烈は若くして経史を渉猟し、当時「三徽」と称された青州の崔徽伯・房徽叔と並び名声を得た。
- 高祖の代に代都で出仕、洛陽遷都後は尚書儀曹・彭城王功曹史・太子歩兵校尉を歴任。蕭寶卷将陳顯達の侵攻が予想された順陽太守の人選で、高祖は群臣の推薦を退け「軍国の議論で意にかなうことが多い」と烈を自ら指名、陵江将軍・順陽太守に任じた。
- 赴任二日で蕭寶卷将崔慧景に七十余日包囲されたが、士卒を励まし持ちこたえ、高祖親征による慧景の敗走で解囲。高祖に「陛下の親征あってこそ危難を免れた」と応え、その謙譲を高祖に称賛された。
- 世宗即位で清河県開国子(食邑二百戸)に封ぜられ、母の老養で十余年帰郷、飢饉の際は粥を施して郷党に慕われた。肅宗初、龍驤将軍・司徒右長史等を歴任。元乂の父・江陽王元繼の旧誼を頼って元乂に取り入り、給事黄門侍郎・平南将軍・光禄大夫に至った。
- 靈太后の反政で元乂党として青州刺史に左遷されたが、家産・僮客が多く郷里での怨望を懸念され瀛州刺史に改められた。清静な政で吏民に安んじられ、致仕後は郷里で兄弟仲睦まじく暮らし、元象元年(538年)享年七十七で卒去。家誡千余言を著し、贈官を求めぬよう子姪に遺命した。子・張質は奉朝請・員外郎・龍驤将軍・諫議大夫を経て興和中(539〜542年)卒去。その弟・張登は州主簿。
張烈の弟(附伝)
- 弟・張僧晧(字山客)は博識で談説に優れ、熙平初(516年頃)諫議大夫、正光五年(524年)国子博士、孝昌二年(526年)散騎侍郎にいずれも徴されたが赴任せず「徵君」と称された。蓄財に励む一方で自らは倹約、しかし妻妾には贅を尽くし博奕を好んで世の譏りを受けた。前廃帝の代、崔祖螭の東陽城攻撃に連座して獄死、家産は没収されたが出帝初(532年頃)名誉回復した。子・張軌は州主簿。
史論
盧同は器量が篤厚で寛容と統率力を兼ね備え、張烈は早くから名声を得て気概を知られた。進退の判断は深沈で、ともに顕達に至ったが、その正しい道の歩みには惜しむべき点もあったであろう。