魏書卷七十五 列傳第六十三 尒朱天光
関西平定の将
- 榮の従祖兄の子。勇決で弓馬に優れ榮に重用され、并肆の統将から撫軍将軍・肆州刺史・長安県開国公(食邑千戸)に至った。建義初、葛榮討伐中の榮に代わり本拠地の守備を委ねられた。
- 元天穆の邢杲討伐、元顥の乱への対応を経て、并肆雲恒朔燕蔚顕汾九州行台として并州を鎮撫。建義元年(528年)夏、万俟醜奴の反乱に対し雍州刺史・討伐大都督に任ぜられ、賀拔岳・侯莫陳悦らと共に出征した。
- 当初は兵力不足で榮に叱責されたが、岐州で醜奴軍を破り、「待秋」の偽情報を流して敵の油断を誘い、涇州の元進の柵を急襲・平定、醜奴を平涼で捕らえ、蕭寶夤も高平城で降した。
- 万俟道洛・王慶雲の隴右反乱に対しては、水源の乏しい永洛城での籠城戦を利用し、槍と伏兵で突囲を粉砕、投降者一万七千人を坑殺する苛烈な措置をとった。三秦・河渭・瓜涼・鄯善が次々帰順した。
- 秦州・南秦州の反乱も鎮圧し関西を平定、侍中・儀同三司(増邑三千戸)に進んだ。榮の死後、世隆らの求めに応じて洛陽に赴き前廃帝擁立に加わり、開府儀同三司・尚書令・関西大行台となった。
- 斉獻武王の挙兵に際しては当初出兵を渋ったが、斛斯椿の強い要請でやむなく東下、韓陵の戦いで敗北。河梁での渡河を阻まれ、雨中の敗走の末に捕らえられ、度律と共に斉獻武王に送られ洛陽の市で斬られた。享年三十七。関西平定の功があり、兆・仲逺に比べれば酷暴の度は低かったと評される。
史論
尒朱兆が晋陽に、天光が隴右に拠り、仲逺が東南を鎮め、世隆が朝政を専断していた頃、君主の廃立は将棋を打つが如く容易で、慶賞威刑もすべて彼らの手中にあった。もし徳義を布き公を憂え私を忘れ、唇歯の如く協力していれば、その勢力は磐石であったろう。しかし彼らは庸才で遠い見識を欠き、争うのは権勢、好むのは財色のみで、あたかも溪壑にも勝る貪欲は豺狼の如くであった。天下の人心を失い、強敵につけ込まれ、内部は互いに疑い合い外面だけ和合を装った。広阿の役では枯葉が飛び散るように、韓陵の戦いでは氷が崩れるように瓦解し、一朝にして殄滅した。まことに哀しむべきことである。「師は和を克つを以て貴しとなす」「貪る人は類を敗る」との古の言葉どおり、貪って和せざれば事は成らないのである。