魏書卷七十三 列傳第六十一 崔延伯
淮堰・隴右の名将
- 博陵の人、祖・崔夀は彭城陥落で江南に取り残された。延伯は勇壮で知られ、蕭賾に仕え縁淮遊軍・濠口戍主となり、太和中(477〜499年)魏に帰順、高祖に重んじられた。荆州刺史として蠻左の乱を鎮圧、定陵男を賜った。
- 幽州刺史として蕭衍将趙祖恱の峽石侵攻に対し、都督崔亮と共に車輪を利用した浮橋防禦策を用いて撃退、祖悅らを俘虜とした。平南将軍・光禄大夫。靈太后の西林園での謁見で、楊大眼の速攻論に対し延伯は「水戦の訓練に一年をかけるべき」と慎重論を説き、太后に容れられた。
- 并州刺史として貪汚の評があり降格、岐州刺史として莫折念生の弟・天生の隴東侵攻に対し、行台蕭寶夤と共に討伐。当初は慎重論を唱えて寶夤に叱責されたが、寡兵で誘引し敵を大破する策を成功させ、俘斬十余万の大功を挙げた。当利県開国男(食邑二百戸)に封ぜられ新豐子に改封。
- 万俟醜奴・宿勤明逹らの涇州侵攻に対し、寶夤と共に甲卒十二万・鉄馬八千の大軍を集結。延伯は功に驕り「排城」(大楯を連ねた陣)戦術で先駆けを唱えたが、賊の偽降策に前後から挟撃され二万の死傷を出す大敗を喫した。
- 涇州で再起し彭阬谷で寶夤の単独攻撃を大破するも、掠奪で乱れた自軍が敗走する中、延伯自身は流矢に当たり戦死。士卒の死者万余人。撫能で衆望を得た将であり、奚康生・楊大眼と並び称された。贈使持節・車騎大将軍・儀同三司・定州刺史、諡は武烈。
その他の将帥(附伝)
- 王足は驍果多策略で邢巒の伐蜀に従軍し功があったが、後に蕭衍に奔った。王神念も同様に潁川太守から江南へ奔った。冀州の李叔仁・李龍瓌兄弟は軍功で名を挙げ、叔仁は車騎大将軍・儀同三司・陳郡開国公、後に梁州刺史として関西で没した。龍瓌は正光中(520〜525年頃)白道での北征戦で戦死。
- 平州刺史王買奴・南秦州刺史曹敬・南兗州刺史樊魯・益州刺史邴虬・玄州刺史邢豹、及び屈祖・嚴思達・呂叵・崔襲・柴慶宗・宗正珍孫・盧祖遷・髙智方らも将帥として名があったが事跡は伝わらず、奚康生・楊大眼・崔延伯ほど著名ではない。
史論
君主が鞞鼓(軍太鼓)の響きを聞けば将帥の臣を思うのは、国難を平らげ外侮を防ぐことが国の要となるからである。奚康生らはいずれも熊虎の如き資質で征伐の気を奮った、一時の驍猛・壮士の功名であった。