驍勇の将
- 河南洛陽の人、その先は代の人。世々部落大夫。祖・奚直は平逺将軍・柔玄鎮将、内外三都大官、贈幽州刺史、諡は簡。父・奚普憐は不仕のまま卒去。
- 太和十一年(487年)蠕蠕の来寇に際し柔玄鎮都将李兠に従軍、驍勇と弓力十石の技量で知られた。鍾離出兵の際、高祖の「中渚の賊を破った者は直閤将軍とする」との勅に応じ、火攻めで敵船を焼き払い直閤将軍を仮授された。
- 吐京胡の反乱では章武王元彬に従い五百人で千の精騎を撃破、蕭鸞配下との戦いでも戦功を重ね、蕭寶卷将裴叔業の渦陽包囲では王肅の命で急行し大破、二階昇進・帛千匹を賜った。
- 寿春帰順時には羽林千人を率いて先んじ、桓和・陳伯之の軍を撃退し梁城・合肥・洛口の三戍を抜いた。安武県開国男(食邑二百戸)に封ぜられ南青州刺史となり、蕭衍軍の徐濟を撃破して捕虜とした。
- 蕭衍は康生の弓力(十余石を引く技量)に感嘆し特製の大弓二張を贈った。母の喪中に別将として蕭衍軍を撃退、その後も武衞将軍・持節・平南将軍として蕭衍軍を破り、華州・涇州刺史等を歴任。官炭瓦の私用で一時削爵となるも復された。
- 郁州の内附と再叛、揚州別駕裴絢の反乱対処等を経て、父の喪の間に安西将軍として蜀討伐(世宗崩御で班師)に従軍。相州刺史として天旱の際に石虎の画像を鞭打つなど強引な祈雨を行い、災いが続いたとの逸話が伝わる。
- 光禄卿・領右衛将軍として元乂と共に靈太后廃立の陰謀に加担、撫軍大将軍・河南尹となった。子・奚難は元乂の妹婿・侯剛の娘を娶り三者は密接な関係にあったが、康生の粗暴な性格を元乂は次第に憚るようになった。
- 正光二年(521年)三月、靈太后の宴席で「力士の舞」を舞い、太后を睨みつけ殺害の身振りを示す挙に出た。太后は意図を察しながらも黙し、その夜、肅宗を伴い宮を出ようとした際、康生は「陛下は皇子であり自ら判断できる」と発言、万歳を唱えて肅宗を殿内に引き入れる行動に出たが、元乂に捕らえられた。
- 元乂・侯剛は詔を偽って康生を斬刑、子・奚難を絞刑とした。康生は死を前にしても慷慨し悲しまなかった。享年五十四。仏道への帰依が篤く四州で寺塔を建立していた。靈太后の反政後、贈都督冀瀛滄三州諸軍事・驃騎大将軍・司空公・冀州刺史、追封夀張県開国侯(食邑千戸)。子・奚剛は武定中青州開府主簿、齊の受禅で降格。弟・奚定国は康生の安武県開国男を襲爵。