魏書卷七十 列傳第五十八 傅永

清河の人、字は修期。若い頃に無学を恥じて発奮し読書に励んで才を成した。南朝から北魏に帰順して平斉民となり、王肅に見出されて豫州・義陽などの各地を転戦、七十歳を超えてなお自ら先陣を切る猛将として知られた。熙平元年、八十三歳で没した。

年表(1件)
  • 熙平元年八十三歳で死去し、安東将軍・斉州刺史を追贈された

出自と若年

  • 傅永、字は修期、清河の人。幼くして叔父の傅洪仲・張幸とともに青州から北魏に入ったが、まもなく再び南に奔った。気骨があり腕力に優れ、鞍橋を手で持ち逆立ちしたまま馳騁できるほどだった。二十余歳の時、友人からの手紙に返事が書けず叔父の傅洪仲に助けを請うたところ深く咎められ返事をもらえなかったため、傅永は奮起して読書に励み経史を渉猟して才華を身につけた。東陽の禁防を経て崔道固の城局参軍となり崔道固とともに降り平斉民となった。父母が老いて飢寒に苦しむ十数年を、人並み外れた働きで傭仕・物乞いをして支え続けた。
  • 晩年に召され兼治礼郎として長安に赴き文明太后の父・燕宣王の廟令を拝し貝丘男を賜り伏波将軍を加えられ、中書博士、改めて議郎、尚書考功郎中を経て大司馬従事中郎、まもなく都督任城王元澄長史・兼尚書左丞に転じた。王肅が豫州に赴任した際、傅永は建武将軍・平南長史となり、咸陽王元禧は王肅を信頼しきれず孝文帝(高祖)に懸念を伝えたが、孝文帝は「既に傅修期をその長史に選んだ、威儀は足りぬかもしれぬが文武の才は十分にある」と答えた。王肅は傅永を宿老として厚く礼遇し、傅永も孝文帝の眷遇に報いる思いで王肅に誠心を尽くし情義は篤かった。
  • 蕭鸞が将魯康祚・趙公政ら号一万を遣わし豫州の太倉口を侵した際、王肅は傅永に甲士三千を率いて撃たせた。魯康祚らは淮南に陣を布いたが、傅永は淮北十里余りに宿営し、呉楚(南朝)の兵が夜襲を好むと見て夜に兵を二部に分けて営外に伏せ、賊が渡河する場所を火で示す偽装を仕掛けた。密かに人を遣わし瓠に火を入れて淮南岸の深瀬に置かせ、火が上がれば呼応させると命じておいたところ、その夜、魯康祚・趙公政らが自ら軍を率いて夜襲に来たため、東西の伏兵で挟撃、魯康祚らが淮水へ逃れる際に方々で火が上がって本来の渡河点が分からなくなり、傅永の置いた偽の火を目指して争って渡ろうとし、深みに溺死する者が続出、数千級を斬り趙公政を生け捕り、魯康祚も人馬ごと淮に沈み夜明けにその屍を得て、首級と趙公政を京師に送った。趙公政は岐州刺史超宗の従兄であった。
  • 裴叔業が王茂先・李定らを率いて楚王戍を侵した際、傅永がちょうど州に戻った所を王肅が再び大討伐を命じた。傅永は心腹一人を馳せて楚王戍へ先行させ、外塹を埋め城外に千人の伏兵を夜のうちに配置、明けて裴叔業らが到着し城東で陣を布き長囲を敷こうとすると、伏兵が間道から後軍を襲って破り、裴叔業は将佐に陣を守らせ自ら精鋭数千で救援に向かったが、傅永は門楼から様子を窺い、裴叔業が南に五、六里進んだところで門を開いて奮撃し撃破、裴叔業は進退を失って逃走、周囲が追撃を勧めたが傅永は「弱卒三千に対し彼の精鋭はなお盛んだが、力尽きて敗れたのではなく我が計に落ちただけだ、我が虚実を測れず胆を失わせたなら十分、追う必要はない」と述べた。裴叔業の傘扇・鼓幕・甲仗万余を鹵獲し、二ヶ月で連勝を重ね、孝文帝はこれを嘉して謁者を遣わし豫州で傅永を安遠将軍・鎮南府長史・汝南太守・貝丘県開国男・食邑二百戸に策拝させ、孝文帝は常々「馬に乗れば賊を撃ち、馬を下りれば露布(戦勝報告)を書けるのは傅修期だけだ」と称えた。

渦陽・義陽の戦い

  • 裴叔業がさらに渦陽を囲んだ際、孝文帝は豫州にあって傅永を統軍とし高聰・劉藻・成道益・任莫問らとともに救援に向かわせた。賊に迫ろうとする段になり、傅永は「まず深い溝と固い塁を築いてから図るべき」と説いたが高聰らは従わず輜重も未だ設けぬまま攻撃し、一戦で敗北、高聰らは甲を棄てて懸瓠へ逃走したが、傅永だけが散兵をまとめて徐々に退き、追ってきた賊に伏兵で反撃してその鋭鋒を挫き、四軍の兵の多くはこれに助けられて生還した。傅永は懸瓠に着くと孝文帝により拘束され、高聰・劉藻は辺民に流されたが、傅永は官爵を免ぜられるだけで十日足らずの後、詔で「修期は殿軍でわずかながら擒殺の功があった」として揚武将軍・汝陰鎮将・帯汝陰太守に任じられた。
  • 景明の初め、裴叔業が寿春を挙げて帰国しようとした際に密かに傅永に通じ、傅永は表でこれを報告、迎え入れる際は傅永が統軍として楊大眼・奚康生らと同日に寿春に入ったが、傅永は後列にいたため康生・大眼の二人だけが領地を賞され、傅永には清河男の爵のみが加えられた。
  • 蕭宝巻の将陳伯之が寿春に迫り淮水沿いを侵した際、司徒彭城王元勰・広陵侯元衍が寿春に同鎮し、九江が帰属したばかりで人心が定まらず台からの援軍も来ぬことを深く憂えたため、詔で傅永は統軍として汝陰の兵三千を率いて先行し、水陸両路を進んだ。淮水口は陳伯之が厳重に防備していたため、傅永は二十里余り上流で船を汝南岸に牽き上げ水牛で牽引して南へ進み、淮を渡って南岸に上がったところで賊軍も追いつき、既に夜になっていたが傅永は潜行して明け方には寿春城下に達した。彭城王元勰・広陵侯元衍は外に軍が現れたと聞き門楼から見張ったが傅永とは気づかず、傅永が兜を脱いで示してようやく信じ引き入れた。元勰は「北を望んで久しく、洛陽を回復できないかと案じていたが、卿がここに至るとは思わなかった」と語り、城内に入るよう命じたが、傅永は「兵を執り甲を被るのは敵を求めるため、殿下と共に籠城するのでは救援の意味がない」として孤軍城外に留まり、元勰と勢を合わせて陳伯之を撃ち連勝した。
  • 中山王元英の義陽征伐に、傅永は寧朔将軍・統軍として長囲の南門を遮った。蕭衍の将馬仙琕が陣営を進めて城の包囲を解こうとすると、傅永は元英に「凶徒は猪突猛進する構え、決戦を狙っている、雅山の要地を早く押さえるべき」と進言したが元英は決めかねた。傅永は重ねて「機会は神の如く、逢うは難く失うは易い、今日行かねば明朝には賊のものになる、悔いても及ばない」と説き、元英は夜を徹して山上に築城させ統軍張懐らに山下で防陣を敷かせたが、明け方に馬仙琕が現れると張懐らは敗れて築城中の兵も総崩れとなった。馬仙琕は勢いに乗って長囲に直進し、義陽城人も出撃してきたため、傅永は長史賈思祖に営塁を守らせ、自ら馬歩千人を率いて南から馬仙琕を迎え撃ち、甲を纏い戈を揮って単騎で先陣を切り、軍主蔡三虎だけが副えとなり、賊陣を突破する際に矢が左股を貫いたが、傅永は矢を抜いてさらに突撃し大破、馬仙琕の子を斬り、馬仙琕は営を焼いて敗走した。元英が陣中で「公は負傷している、営に戻るべき」と言うと、傅永は「昔、漢の高祖は足を撫でて他人に知られたくなかった、下官は微賤だが国家の一将、敵に将を傷つけたという名を許すわけにはいかぬ」と答え、諸軍とともに追撃し夜更けまで戦った、時に七十余歳。三軍は皆その壮烈さに感嘆した。
  • 義陽平定後、元英は司馬陸希道に露布(戦勝報告)を作らせたが、その意は傅永に手を加えさせぬつもりだったところ、傅永は文彩を増やすことなく陣列・軍儀・地勢の要点だけを改めた文を作り、元英はこれを深く賞して「この計算を見れば、金城湯池をもってしても守り切れなかっただろう」と嘆じた。京師に還って再び傅永は封爵され(先に男爵があったため位を加増、帛二千疋を賜った)、太中大夫を除され、行秦梁二州事として邢巒に代わり漢中を鎮した。のち京師に戻る道中で恒農太守を除されたが本意ではなかった。元英の東征鍾離に際し重ねて傅永を将に求める表が上がったが朝廷は容れず、傅永は常々「文淵(李広の孫、あるいは名将の代名詞)や充国(趙充国)とは一体何者だ、私だけ白髪の身でこの郡に留め置かれるとは」と嘆いた。ただ治民は得手でなく在任中の評判は目立たなかった。まもなく郡を解かれ太中大夫に還り、行南青州事、左将軍・南兗州刺史に遷り、八十を過ぎてなお馬に乗り矟を振るう武を保ち、老いを口にすることを常に避けて自ら「六十九」と称した。京師に還り平東将軍・光禄大夫を拝し、熙平元年、八十三歳で没した。安東将軍・斉州刺史を追贈された。

北邙の墓所を巡る争い

  • 傅永はかつて北邙山の平坦地に登り矟を揮って馬を躍らせながら周囲を見渡し、終焉の地に定める志を示した。遠く杜預を慕い近くは李沖・王肅に倣い、その墓の近くに葬られたいと数頃の地を買い求め、子の傅叔偉に「これは私の永住の宅である」と遺勅した。
  • 傅永の妻賈氏は本郷に留まっており、傅永は代都で妾馮氏を娶って叔偉と数人の娘をもうけた。賈氏は後に平城に戻ったが男子がなく娘一人だけで、馮氏の子(叔偉)に頼る立場ながら賈氏に無礼を働き、叔偉も賈氏を素直に敬わなかったため賈氏はしばしば忿った。馮氏は傅永より先に没しており、傅永の死後、叔偉は父の遺命により北邙に葬ろうとしたが、賈氏は叔偉が馮氏と合葬させようとしていると疑い、傅永を貝丘県(封地)に葬るよう求めて司徒に訴えた。司徒胡国珍は傅永と征役を共にした縁からその心を汲み叔偉の北邙埋葬を許したが、賈氏は霊太后に直訴し、霊太后は賈氏の意に従い、事は朝堂を経て胡国珍も動かすことができず、結局傅永は東清河に葬られた。かつて傅永が墓所を営んだ際、旧郷にあった父母を新たに移葬してこの地に合わせており、賈氏の強い求めでその配置も乱され、傅永の宗親も止めることができなかった。既に数十年が経っていた父母の棺は桑棗の根が絡みつき地面から一尺余り浮くほどしっかり固定されており、斧で切って取り出す有様に人々は驚いた。この一件から三年も経たぬうちに叔偉は亡くなった。
  • 叔偉は九歳で州主簿となり、成長すると膂力が人並み外れ三百斤の弓を引き、馬上で立って敵と渡り合う馳射もでき、見る者は「傅永の武を継いだが文は継がなかった」と評した。正光中、叔偉の子・傅豊生が封爵を襲いだ。