魏書卷六十二 列傳第五十 李彪

出自と学問

  • 字道固、頓丘衛国の人(高祖により名を賜った)。家は貧しかったが幼くして大志を抱き学問に励んだ。長楽の監伯陽に師事し、その後、高悦・陽尼らと隠棲を志すも果たさず、悦の兄・閭の蔵書を借りて寝食を忘れて学んだ。
  • 平原王叡に見出され孝廉に挙げられ、京師で高閭・李沖の推挙を受けた。高祖初め中書教学博士、のち員外散騎常侍・建威将軍・衛国子として蕭賾(南斉)へ使いし、祕書丞・著作事に転じた。
  • 従来の国書は編年体で史料が散逸していたため、彪は祕書令・高祐と共に紀伝表志の体裁を創始することを提案した。

太和年間の七か条の上表

  • 彪は皇帝への長大な上表で七か条を進言した。
  • 倹約の勧め:貴族・富豪の奢侈が民の負担となっていることを指摘し、車服・第宅の等級制を定めて身分に応じた制限を設けるべきとした。子産の故事(鄭の民の評価が三年で変わった例)を引き、漸進的な改革の効果を説いた。
  • 太子への師傅の重要性:秦の胡亥が趙高に悪しく教育され二世で滅んだ例、後漢明帝が張佚に良く教育された例を挙げ、太子に正しい師傅を付けるべきとした。
  • 穀物備蓄と農政:常平倉の設置や屯田制の整備、州郡の調の一部を備蓄に回すこと、河表七州の人材登用などを提言した。
  • 刑罰執行の時期:断獄・処刑を三統(冬至前後の陽気の萌す時期)を避け初秋から孟冬に行うべきとし、漢代の制度の変遷(章帝の十月断獄)を根拠に挙げた。
  • 大臣への礼遇:大臣が罪を得た際、獄吏に辱められることなく自裁を許す漢文帝の先例を永制とすべきとした。
  • 連座の緩和:父兄・子弟が連座して罪を得た場合、互いに慚愧の意を示す儀礼(素服・肉袒での謝罪)を定めるべきとした。
  • 服喪制度の徹底:三年の喪を終えるまで朝臣が公務を控える制度を整備し、喪に服す者への配慮を求めた。
  • 高祖はこれらを善しとし、いずれも施行された。彪は禮志の議論でも活躍し、中壘将軍に進んだ。

剛直な官歴と蕭賾との応酬

  • 文明太后の崩御に際し、群臣が高祖に公除(喪の短縮)を求めたが高祖は許さず、彪と往復問答を交わした。高祖は「才能さえあれば出自を問わない」として彪を秘書令に抜擢した。
  • 蕭賾への使者として六度赴き、喪礼を巡る問答(劉繪との応酬)で機知に富んだ受け答えを示し、南人にその弁舌を称された。蕭賾は彪を送別する際、詩の贈答を通じて深い敬意を示した。
  • 帰国後、御史中尉・著作郎を歴任、剛直な性格で多くの弾劾を行い、高祖は彪を前漢の汲黯になぞらえて「李生」と呼んだ。汾州の胡族反乱の際は持節して慰撫にあたった。

尚書李沖との対立と失脚

  • 車駕の南征に伴い彪は度支尚書として留台の事を任されたが、僕射・李沖らとの意見対立が激化し、専恣が過ぎるとして沖に弾劾された。沖は尚書省で彪の罪状を並べ、免職の上表を行った。
  • 彪も反論の上表を行い、沖こそ表裏があり自分は直言のみで忠を尽くしたと主張、両者は互いに相手を偽善者と非難した。高祖は大辟の議を退け、除名にとどめた。
  • 彪は本郷に帰るが、高祖の病篤しと聞いて鄴に参内、謝罪ではなく見舞いのためと弁明した。宋弁の推挙で復職の機運もあったが、留台からの誣告事件でさらに紛糾、結局赦免のみで復職には至らなかった。
  • 高祖崩御後、世宗の代に王肅・邢巒の助力を得て国史編纂の再開を求める上表を行い、皇魏の歴史編纂の意義を長文で説いた。北海王詳・尚書令王肅の援助で祕書省にて白衣のまま史書編纂に従事、崔光の推挙もあったが、世宗はこれを許さず汾州の任を命じた。
  • 彪は赴任を固辞するも聞かれず、病を得て景明二年(501年)秋、洛陽で卒去、享年五十八。中尉時代は厳酷で知られ、拷問の逸話も伝わる。贈鎮遠将軍・汾州刺史、諡は剛憲。史業は未完に終わったが、体裁の区分は彪の功績とされ、春秋三伝の合本十巻や詩文集も著した。
  • 宋弁とは親交が篤かったが、家格を巡っては互いに一定の緊張関係があった。郭祚・任城王澄との確執もあったが、澄は最終的に彪の子・志の推挙に応じた。

李彪の子女(附伝)

  • 子・志(字鴻道)は幼くして文才を示し、崔鴻と並び称された。符璽郎中・徐州平東府司馬等を歴任、建義初に南朝へ離反した。
  • 彪の娘は聡明で経史に通じ、世宗に召されて婕妤となり、後宮で経史を教授、世宗崩御後は比丘尼となり講義を行い僧侶にも重んじられた。