北魏帰順までの経緯
- 小名捺、東平湏昌の人。弓馬を好み、劉駿の徐兖刺史配下で部従事となり、劉彧の即位後は兖州募兵の任にあたる。
- 徐州刺史・薛安都と共に晋安王・劉子勛を推戴して挙兵、兖州事を執り行い、東平太守・申纂と対立(互いに墓を暴くなど深い遺恨を生じた)。
- 安都の北魏降伏には当初同調しなかったが、彭城にいる母子への配慮から降伏を決意、尉元に城を明け渡した。皇興初、散騎常侍・寧南将軍・兖州刺史・東平公に叙せられた。
- 無鹽城が陥落し申纂が焼死すると、衆敬は自らの禍が纂の所為であったと朝廷に訴え、纂の死を喜んだ。
- 太和年間、高祖に厚遇され、咸陽公高允とも親交を結んだ。老齢に達して帰郷を願い出て許され、太和十五年(491年)十月卒去。
畢衆敬の子孫(附伝)
- 子・元賔は父と共に功を立て、兖州刺史を父子で相継いだ。父の在郷中も敬意深く仕え、政は清平で民に慕われた。父の喪により官を辞したが、まもなく卒去。贈撫軍将軍・衛尉卿、諡は平。
- 元賔には前妻・劉氏の子(祖朽・祖髦・祖歸・祖旋)と後妻・元氏の子(祖榮・祖暉)があった。
- 祖朽(身長八尺、腰帯十囲)は経史を好み、正始三年(506年)蒙山での賊軍撃破など軍功を重ね、南城県開国男に封じられた。東豫州刺史・瀛州刺史等を歴任し、鮮于脩禮の乱鎮圧中に卒去。贈衛将軍・吏部尚書・兖州刺史。子なく、弟・祖歸の子・義暢が継いだが、後に叛徒との内通で伏誅。
- 祖髦は東平太守等を歴任、その子・義和は右将軍・太中大夫で卒去。義和の弟・義亮は機密漏洩に連座し賜死。
- 祖暉は正光五年(524年)豳州の乱鎮圧で戦功を挙げ新昌県開国子に封じられたが、蕭寶夤の敗退に伴い免官、のち復官するも永安中(528〜530年頃)宿勤明達との戦いで戦死、享年五十。
- 祖歸・祖旋の子孫も諸官を歴任。
- 衆敬の弟・衆愛も北魏帰順の功で鉅平侯を賜り、贈冠軍将軍・徐州刺史、諡は康。
- その子・聞慰は爵を降されて伯となり、滄州刺史等を歴任、元徐州刺史・元法僧の反乱鎮圧で敗れて京師に召還されるも赦され、卒去。贈散騎常侍・安東将軍・兖州刺史、諡は恭。
- 聞慰の子・祖彦は元法僧の反乱に監軍として巻き込まれるが後に帰還、天平四年(537年)卒去。
申纂(附伝)
- 魏郡の人。皇始初、太祖の中山平定に際し南に逃れ濟陰に住んだ。無鹽で劉彧により兖州刺史とされたが、顕祖に「機を識らず力を量らず、進退窮まった孤城で功を立てようとするのは無謀」と評された通り、無鹽陥落の際に焼死した。子・景義は北魏で官を歴任。
常珍奇(附伝)
- 汝南の人。劉駿の司州刺史として薛安都らと共に劉子勛を推戴したが、敗れて長社鎮に降伏を請うた。顕祖は元石を派遣して迎え、珍奇は平南将軍・豫州刺史・河内公に叙せられた。
- 上表して江南への軍事行動を進言したが、実は誠意は不十分で、子・超の召還を拒み密かに南への離反を図り、懸瓠で反乱、元石に大破され匹馬で逃亡。子・超は殺され、小子・沙彌は捕らえられ宦官とされた。