魏書卷六十一 列傳第四十九 沈文秀

節義を貫いた降将

  • 字仲遠、呉興武康の人。伯父は劉駿の司空公・沈慶之。青州刺史となり、劉子業殺害後の混乱で劉子勛を推戴。子勛の敗北後、崔道固と共に北魏に降伏を請うたが、劉彧の弟・文炳の説得で再び彧側に帰順した。
  • 慕容白曜の攻撃を受け、当初降伏を考えるも軍の略奪を見て翻意し籠城、長期の包囲戦の末に陥落。捕らえられた際、節義の衣冠を正して座し、「臣従の礼はない」と拒んで撾撻を受けるが、白曜は後にこれを礼遇した。
  • 京師に送られ下客として遇されたが、顕祖はその節義を重んじて外都下大夫、太和三年(479年)外都大官に登用。南征都将、懐州刺史・吳郡公を歴任し、清廉で財を蓄えず、水田開発など民政に功があった。在州数年、享年六十一で卒去。
  • 子・保沖は南徐州冠軍長史時代の敗戦で死刑となるところを、高祖の詔で特赦され洛陽作部に配され、のち下邳太守で卒去。
  • 族子・嵩は文秀の司馬として重用されたが、文秀死後は宋王劉昶に冷遇され困窮のうちに卒去。族子・陵は太和十八年(494年)高祖に帰順したが、高祖崩御後に叛意を抱いて挙兵し、多数を殺害・略奪して南走、下邳の戍人に射殺された。