南朝での軍歴と北魏への降服
- 字休達、河東汾陰の人。父・広は司馬徳宗の上党太守。安都は驍勇で騎射に優れ、真君五年(444年)東雍州刺史・沮渠康の謀反に連座して劉義隆の下へ逃れた。
- のち弘農を襲い太守李抜らを捕らえ陝城に迫るが、秦州刺史杜道生に討たれ撤退。劉宋で武功により将軍に累進し、劉駿(孝武帝)の下で左衛率にまで至った。
- 劉昶の帰順後、劉子業(前廃帝)により平北将軍・徐州刺史・彭城鎮となる。和平六年(465年)、劉彧(明帝)が劉子業を殺して自立すると、安都は沈文秀・崔道固・常珍奇らと共に晋安王・劉子勛を推戴して挙兵。
- 劉彧が張永を派遣して討たせると、安都は北魏に降伏を請い、顕祖はこれを容れて第四子・道次を人質として受け、鎮東大将軍・尉元、城陽公・孔伯恭らを派遣した。
- 安都は使持節・散騎常侍・都督徐南北兖青冀五州豫州の梁郡諸軍事・鎮南大将軍・徐州刺史・河東公に叙せられたが、尉元らの入城後に一時内応を後悔し謀ったものの、事は露見せず、女婿・裴祖隆に罪を帰して収拾した。
- 皇興二年(468年)、畢衆敬と共に京師に朝見し厚遇された。子弟や門生まで多く官位を得、邸宅を賜るなど手厚く遇されたが、皇興三年(469年)卒去。贈本将軍・秦州刺史・河東王、諡は康。
薛安都の子孫(附伝)
- 子・道標は爵を襲い、鎮南将軍・平州刺史・相州刺史・秦州刺史を歴任、太和十三年(489年)卒去。
- 道標の子・達(字宗允)は爵を降されて侯となり、五等開国制で河東郡開国侯、後に華陰県侯に改封。漢陽太守は固辞し卒去。
- 道標の弟・道異は早世、寧西将軍・秦州刺史・安邑侯を贈られた。
- 道異の弟・道次(人質として京師にいた者)は南中郎将等を歴任、太和十五年(491年)光禄大夫で卒去。その子・巒は正光五年(524年)莫折念生の乱鎮圧に従事したが敗退、後に撫軍将軍として孝昌二年(526年)軍中で卒去。
- 安都の兄の子・碩明も北魏に入り蒲坂侯を賜った。
- 安都の従祖弟・真度は安都の長史として活躍、太和初め河北侯・鎮遠将軍・平州刺史・陽平公。房伯玉に敗れて免官の危機に陥ったが、高祖は安都と共に帰順した功績を評価して復爵させた。荆州刺史・豫州刺史・大司農卿等を歴任、永平中(508〜512年頃)に卒去、享年七十四。贈左光禄大夫、諡は荘。
- 真度の嫡子・懐徹は爵を襲い征虜将軍等を歴任、車騎将軍・左光禄大夫で卒去。庶長子・懐吉は父の妓女らを世宗に献上し、驃騎将軍・恒農郡試守・益州刺史等を歴任し、蕭衍軍との戦いで各地の軍司として活躍したが、汾州刺史時代には賄賂を好んだと評され、正光四年(523年)卒去。贈平北将軍・并州刺史。
- 懐吉の弟に懐直・懐朴・懐景・懐儁があり、懐儁は益州刺史時代に蕭衍の将・蘭欽に捕らえられ、蕭衍に厚遇されたが帰国を願い出て許された。
- 真度の諸子は多く母を異にし、互いに毒殺の疑いをかけあう訴訟沙汰を起こし、世の恥とされた。