魏書卷六十 列傳第四十八 程駿
出自と学問
- 字驎駒、本貫は広平曲安。六世祖は晋の都水使者、事に坐して涼州に流された。少くして孤貧、喪に服して孝を称された。
- 劉昞に師事し昼夜学問に励んだ。老荘思想を「経世に切実でない」とする世評に反論し、独自の見解を示した。沮渠牧犍に東宮侍講として登用された。
- 太延五年(439年)、世祖が涼州を平定すると京師に遷り、司徒崔浩に知られた。文成帝の即位後、著作佐郎・著作郎に任じられ、任城王雲の郎中令として王を諫めた。
- 皇興中、高密太守に任じられるが、尚書李敷の奏で数年留任を許され、方伯(地方官)として実績を積んだ。
顕祖・高祖時代の活躍
- 顕祖はしばしば駿と易・老子を論じ、その受け答えを喜んだ。延興末、高麗王璉が娘を後宮に納めることを求めた際、駿は使者として高麗に赴くが、璉が偽って娘の喪を理由に拒み、駿を長く抑留した。璉は駿を害そうとするも、顕祖の崩御により事は流れ、駿は帰国し祕書令となった。
- 神主を太廟に遷す際、旧例では執事の官に爵を賜るべきとされたが、駿は一人反対し、功なくして賞を得るべきでないと上表、文明太后もこれを支持した。
- 対南朝戦略についての上表では、まず劉昶を用いて招喩し、応じなければ武力に訴えるべきとし、守りを固めつつ機を待つ「守本」の重要性を説いた。
- 沙門法秀の謀反が誅されると、駿は「上慶国頌」十六章とその序を献上し、太皇太后の徳を称え世を戒める内容を著した。文明太后はこれに応え、慰労の令を下した。
- 太和九年(485年)正月、病篤くなった駿は「自分は生前より倹約を旨とした、死してから奢ることがあってよいか」と遺言し、時服のまま簡素に葬るよう命じて卒去、享年七十二。高祖・文明太后は東園祕器・朝服等を賜い、冠軍将軍・兖州刺史・曲安侯を追贈、諡は憲。
- 六子(元継・公達・公亮・公礼は無官、公義は侍御史等、公稱は主文中散等)はいずれも早くに卒去した者が多い。
程駿の一族(附伝)
- 公礼の子・畿(字世伯)は学才があり荆州府主簿となった。駿の従祖弟・伯達は文才で知られたが早世。
- 伯達の弟の子・靈虬は幼くして孤児となり文才を持ちながら久しく下級の吏職に留まったが、駿の臨終の推薦で著作佐郎に抜擢された。のち罪に問われ免官となるも崔光の推薦で復官し、著作郎に任じられた。
史論
韓麒麟は才器と識見によって斉王(慕容白曜配下時代を含む)に重んじられた。その子・顕宗は文学と直言で名を挙げたが、実録の功績にまでは至らなかった。子熈は清廉で名声が父祖を超えた。程駿は才能・功績が多くは世に知られなかったが、それもまた時勢というべきであろう。