魏書卷六十 列傳第四十八 韓麒麟
昌黎棘城の人。前漢の大司馬韓増の後裔と自称し、父・瑚は郡太守を歴任した(?–488年)。学を好み容姿端麗、騎射にも優れ、恭宗の監国期から出仕。慕容白曜の升城攻略では降兵の坑殺を諫めて防いだ。斉州刺史として刑罰によらぬ善政を敷き、大飢饉に際しては農本・倹約・備蓄強化を説く長大な上表を行った。清貧を貫き、子孫にも謹厳な家風が伝わった。
年表(5件)
- 太和十一年487年京都の大飢饉に際し農業重視・倹約・備蓄強化を説く上表を行った
- 太和十二年488年在官のまま死去。享年五十六
- 太和十四年冬490年子・興宗が死去
- 太和十九年495年子・顕宗、赭陽の戦功により章武男を賜った
- 太和二十三年499年顕宗、死去
出自と初期の官歴
- 昌黎棘城の人。前漢の大司馬韓増の後裔と自称する。父・瑚は平原郡・秀容郡太守を歴任。
- 幼くして学を好み容姿端麗、騎射にも優れた。恭宗の監国に東曹主書として仕え、高宗即位後は魯陽男・伏波将軍を賜る。
- 父の喪に礼を尽くし、宗族に称賛された。
- 征南将軍・慕容白曜の軍事に従い升城攻略に参加。攻城戦で味方の死傷が多く、白曜が降兵を生き埋めにしようとした際、麒麟は「これは韓信が范陽を降した策と同じであり、今降兵を坑殺すれば以後東方の民が皆守りを固め、攻略が困難になる」と諫めて思いとどまらせた。白曜はこれに従い、斉の民は大いに喜んだ。
- 冠軍将軍として房法壽と共に冀州刺史となり、白曜の東陽攻めに際して義租六十万斛と攻城器械を供給し、軍資を支えた。
斉州刺史としての善政
- 白曜の誅殺後、麒麟も一時召還されて長く滞留したが、高祖の代に給事黄門侍郎として徐兖の叛民を招撫し、四千余家を帰順させた。のち冠軍将軍・斉州刺史・仮魏昌侯となる。
- 刑罰を用いず、属官の劉普慶が「威を示すには誅殺が必要」と説いたが、麒麟は「刑罰は已むを得ぬ時にのみ用いるもの、民が法を犯さぬのになぜ殺すのか」と退けた。
- 新附の斉の士人が朝官に登用されず不遇であることを憂え、守宰の欠員には現地の名望ある人材を登用するよう上表し、朝議はこれに従った。
- 太和十一年(487年)、京都が大飢饉となると、麒麟は農業重視・倹約の徹底・田制整備・穀物備蓄の強化を説く長大な上表を行った。奢侈の風を戒め、珍玩の禁止、吉凶の礼の格式化、口分田制の徹底、穀物備蓄による凶年への備えなどを提言した。斉州の租税制度についても、絹布を減らし穀租を増やして備蓄を厚くすべきと述べた。
- 太和十二年(488年)春、在官のまま卒去、享年五十六。子に質素な棺での葬儀を遺命した。清貧を貫き、臨終時にも俸給の絹数十匹しか残していなかった。贈散騎常侍・安東将軍・燕郡公、諡は康。
韓麒麟の子孫(附伝)
- 長子・興宗は字茂先。学を好み文才あり、太学に学び、司空・高允に見出されて祕書郎・著作事に参与した。太和十四年(490年)冬に卒去、贈寧遠将軍・漁陽太守。
- 興宗の子・子熈(字元雍)は清河王懌の常侍・郎中令となった。爵は父が弟・顕宗に譲ったため襲爵せず、後に顕宗の卒後も自らの本来の爵を弟・仲穆に譲るなど、兄弟仲は篤かった。
- 元义(げい)が清河王懌を殺害すると、子熈は憂悴して仕官を絶ち、王が改葬されるまで喪に服す誓いを立てた。のち靈太后が政に復帰すると、子熈は劉定興・傅靈&KR0710;・張子慎らと共に宋維(懌を讒言で陥れた者)と元义・劉騰の罪を訴える上書を行い、義とされて中書舎人に抜擢された。のち劉騰の棺を暴き、元义には死を賜った。
- 子熈は清廉を貫き、尒朱榮が葛榮を捕らえて京師に送った際、莊帝が榮を面詰しようとするのを「元凶自ら死を知るゆえ会う必要なし」と諫めて榮の怒りを買ったが、莊帝は子熈を咎めなかった。
- 邢杲の乱では慰撫の詔を受けたが、邢杲の偽りの降伏を信じて失態を犯し、大辟に処されるところを免官で済んだ。のち吏部郎・国子祭酒等を歴任、清貧を守った。
- 弟の妻(姑の娘)との縁談の後、寡婦・李氏との間にも子を儲け、両家の不和が長く続いたことを恥じて発病、興和年間に卒去。子は父の遺志に反し贈諡を求めた。武定初、驃騎将軍・儀同三司・幽州刺史を追贈。
- 興宗の弟・顕宗(字茂親)は剛直な性格で知られ、太和初め秀才に挙げられ対策で甲科となり著作佐郎となった。
- 遷都をめぐる上書(其一)で、南征と遷都工事の同時進行による民の疲弊を憂え、輿駕の北都帰還と洛京建設への専念を進言。
- 其二では奢侈の風を戒め、貴賎の別を明らかにする制度整備、都市計画の整然化を求めた。
- 其三では軽装での還幸に伴う危険性を指摘し、水路よりも陸路の安全を説いた(高祖はこれに従い陸路を選んだ)。
- 其四では皇帝自身の過度な勤勉・著述を憂い、心身を大切にするよう進言した。
- また進賢求才についての上言では、門地でなく才能によって人材登用すべきことを説き、法治についての上言では、厳刑よりも防検(未然の統制)が重要であると論じた。
- 代京(平城)の宗廟の地位維持、洛陽での身分別居住制度の是非、僑置郡県の整理、賞賜の乱発の抑制など多岐にわたる政策提言を行った。
- 高祖との問答では、堯舜への自負を語る高祖に対し「著作の任は良史とまでは言えない」とやり取りするなど、率直な議論を交わした。
- 太和十九年(495年)赭陽の戦功により章武男を賜るも、後に上表で自らの功を誇りすぎたことを咎められ免官、白衣のまま諮議として留任した。左遷後は李彪に五言詩を贈るなど不遇を嘆いた。
- 太和二十三年(499年)卒去。馮氏燕志・孝友伝各十巻を著した。子・武華が討寇将軍・太原太守となった。