魏書卷五十九 列傳第四十七 蕭寶夤

南朝での挙兵と逃亡

  • 字智亮。蕭鸞(斉の明帝)の第六子で、蕭宝巻の同母弟。建安王に封じられていたが、蕭宝巻の暴政下で劉霊運らの謀に応じていったん挙兵、失敗して逃亡した。
  • 蕭宝融(和帝)の下で衛将軍・南徐州刺史・鄱陽王に改封されたが、蕭衍が建業を陥すと、家人の助けで密かに脱出し、変装して江を渡り、華文栄父子に匿われながら潜行、景明二年(501年)に壽春に至った。
  • 壽春の戍主・杜元倫に保護され、揚州刺史・任城王澄に迎えられた。兄の喪に服する礼を尽くし、名士としての礼遇を受けた。

北魏帰順後の軍功

  • 景明三年(502年)、詔により正式に迎えられ、世宗に厚く遇された。姜慶真の攻撃を壽春の栖賢寺付近で退け、武勇を示した。のち梁郡開国公に封じられる。
  • 中山王英の南伐に従軍したが鍾離で水害により敗退、免官削爵となったものの矜恕され復爵、南陽長公主を娶った(夫婦仲は良好であった)。
  • 永平四年(511年)、盧昶を助けて蕭衍軍と戦うが盧昶軍は敗北、寶夤の軍のみ全うして帰還した。
  • のち使持節・散騎常侍・都督荆・□(原文欠字)・東洛三州諸軍事・衛将軍・荆州刺史に任じられたが赴任せず、殿中尚書に復した。
  • 延昌年間、瀛州刺史等を歴任し、大乗の乱鎮圧などで軍功を重ねた。
  • 熙平初(516年)、蕭衍が浮山に堰を築いて淮水を堰き止め揚徐を水攻めしようとした際、寶夤は堰の上流に新たな水路を掘って水勢を弱め、夜襲で賊の営塁を焼くなど各地で戦功を挙げた。
  • 蕭衍から旧知として降伏を勧める長文の書簡を受けるが、寶夤はこれを朝廷に提出して拒絶の意を示した。
  • 正光二年(521年)、車騎大将軍・尚書左僕射となる。四年、考課制度の厳正化を求める長文の上表を行い、詔により諸官に議論させたが結論は出なかった。
  • 蕭衍の甥・蕭正徳の投降を巡っては、寶夤は不孝の徒を受け入れるべきでないとする上表を行ったが用いられず、正徳は厚遇されずのちに離反した。

西征と乱の勃発

  • 秦州の薛珍・劉慶・杜遷らの反乱、莫折大提・莫折念生父子の自立(念生は「天建」と改元)に対し西征都督として派遣され、大都督崔延伯とともにこれを大破するも、追撃の遅れで隴の乱が長引いた。
  • 呂伯度の帰順・離反、莫折念生の再反、部下・元修義らの停滞など複雑な経過を経て、孝昌二年(526年)侍中・驃騎大将軍等に進んだが、三年(527年)に大敗して免官の危機に陥るも赦され、雍州刺史等に復した。
  • 御史中尉・酈道元が関中大使として派遣されると、粛清されると疑った寶夤は部将・郭子恢らに命じて酈道元を殺害させ、ついに反乱を起こし「隆緒」と改元して独立を宣言した。
  • 官軍の反撃を受けて敗北し、公主および少子とともに逃亡、万俟醜奴に降った。永安三年(530年)、尒朱天光の討伐によって醜奴とともに捕らえられ、京師に送られた。
  • 側近の王道習の進言により荘帝は寶夤を誅殺と決し、大僕駞牛署にて死を賜った。寶夤は動じず「天命に委ねる」と述べて死んだ。公主は男女を連れて訣別に赴き慟哭したという。

蕭寶夤の子(附伝)

  • 三子はいずれも公主の所生。長子・烈は建徳公主を娶ったが寶夤の反乱に連座し伏誅した。
  • 次子・権と少子・凱は射戯の際の事故で凱の矢が権に当たり権が死去。凱は司徒左長史となったが、妻(長孫稚の娘)との不和から公主を殺害させ、凱は轘刑に処され、一族は絶えた。

蕭贊――蕭寶夤の兄の子(附伝)

  • 字徳文、本名綜。蕭宝巻の遺腹子とされ、蕭衍に実子として育てられ豫章王に封じられたが、実母から出自を明かされて以来、密かに北朝への内応を志した。
  • 元法僧の彭城反乱に際して密かに北魏軍に内応、孝昌元年(525年)秋に洛陽へ投降。司空・丹陽王等に封じられた。
  • 寶夤の反乱の際は無関係とされ慰撫を受けたが、建義の変後、姉婿にあたる公主が害されると出家して逃亡、まもなく病没した。享年三十一。王の礼をもって公主と合葬された。