魏書卷五十九 列傳第四十七 劉昶

出自と南朝からの逃亡

  • 字休道。劉宋の文帝(義隆)の第九子で、義陽王に封じられていた。
  • 兄・孝武帝(駿)の子である劉子業が即位すると暴虐が極まり、義陽王への疑いも深まったため、劉昶は恐れて北魏への内応を図った。
  • 和平六年(465年)、母・妻子を残し妾の呉氏とともに男装させ、義従の徒六十余人と潜行して北魏に投降した。道中で多くの従者が離散し、最終的に従い着いたのは二十人ほどであった。

北魏での厚遇

  • 侍中・征南将軍・駙馬都尉に任じられ丹陽王に封じられ、武邑公主を娶った(公主没後は建興長公主を娶る)。
  • 皇興年間、劉彧(宋の明帝)との往復書簡で、母を彧の「国の妾」として遇するよう命じられたが、劉昶は上表して固辞し、認められた。
  • 南朝風の質素な服装を通し、言動に難があって諸王にしばしば侮弄されたが、高祖(孝文帝)は変わらず厚遇した。
  • 蕭道成が劉準(宋の順帝)を殺すと、南伐の将として派遣され、道中で彭城の亡母の旧宅に哭拝するなど哀切な様子を見せ、将士を感動させた。
  • 儀同三司・儀曹尚書として朝儀改革に参与し、旧制を整理して高祖に高く評価された。
  • 太和十七年(493年)春、高祖が経武殿で南伐を大議した際にも参列し、自らの故国滅亡の悲しみを訴えて高祖を感涙させた。
  • 中書監に転じ、五等開国制で斉郡開国公・宋王の号を受けた。
  • 太和二十一年(497年)四月、彭城で薨去、享年六十二。仮黄鉞・太傅・揚州刺史、九錫に准じる礼を追贈され、諡は明。

劉昶の子孫(附伝)

  • 嫡子・承緒は病弱で早世、贈員外常侍。
  • 承緒の弟・輝が世子となり蘭陵長公主(世宗の姉)を娶ったが、輝が公主の侍女に密かに手をつけたことから不和となり、正光初年(520年頃)には公主が輝から傷害を受け死去。輝は罪を得て官爵を削られ、事件に連座した女たちは処罰されたが、輝自身は赦免を経て後に官爵を回復、まもなく死去し、家は衰えた。
  • 文遠(輝の兄)は歩兵校尉・前将軍として統軍となったが、刺史・王肅殺害の謀反に連座して伏誅した。
  • なお劉武英という人物は劉裕の弟の曾孫を称して太和十九年(495年)に投降したが、劉昶とは別族として扱われた。