魏書卷五十八 列傳第四十六 楊津

楊津(字は羅漢、469年–531年、享年63)は楊椿の弟。文明太后・高祖に近侍し、地方官として各地で善政を敷き、特に定州刺史として鮮于脩禮・杜洛周ら反乱軍の長期包囲に耐えて抗戦した。司空・北道大行台などを歴任したが、洛陽で爾朱氏に害された。

年表(1件)

医薬から地方官へ

  • 順の弟の津、字は羅漢は本名は延祚、高祖が名付けた。若くして端謹で器度をもって称され、11歳で侍御中散を除せられた。当時高祖はまだ幼く文明太后が臨朝していた頃、津がかつて久しく左右に侍った際、突然咳逆して声を失い数升の血を吐き衣袖に隠したが、太后は声を聞いて理由を問い、事実をありのまま言ったため敬慎をもって知られ縑百匹を賜った。符璽郎中に遷り、津は身が禁密にあることから外の交遊を絶ち、司徒馮誕との旧交にも退避し招命にも病を理由に辞し、人に問われても「勢家に厚くされるのはまた何と容易なことか、ただ私の今日を全うすればそれで足りる」と答えた。
  • 振威将軍・領監曹奏事令に転じ、また直寝となり太子歩兵校尉に遷った。高祖の南征に際し津は都督征南府長史とされ懸瓠に至って直閤将軍を加えられ、後に駕に従い淮を済り司徒誕が薨じた際高祖は津に柩を送らせ都に還らせ、長水校尉に遷りなお直閤とした。
  • 景明中、太尉咸陽王禧が謀反した際、当時直閤の中に禧の謀に同じい者がいたがみな従限にあった。禧が平定されると帝は「直閤は半ば逆党であったが至忠の者でなければどうしてこの謀に与らずにいられようか」と述べ、津を左中郎将に拝し驍騎将軍に遷らせなお直閤とした。出て征虜将軍・岐州刺史を除せられ、津は巨細を躬親し孜孜として倦まず武功があった。民が絹三匹を齎して城を去ること十里で賊に劫られた際、津は教を下し被劫者の特徴を告げさせ、家人を名乗る老母が現れるとただちに騎を遣わし追収し絹とともに獲た。これより境内はみな畏服した。守令寮佐に貨を瀆する者があれば公に罪を言わず私書で切責し、官属は感厲し法を犯す者がなかった。母の喪により職を去った。

華州の善政と定州籠城

  • 延昌末、右将軍・華州刺史に起用され、兄の播と前後してともに本州を牧し当世これを栄とした。先に調絹を受けるにあたり匹の尺度が特に長く百姓を苦しめていたが、津は公尺に依るよう命じ、輸物のとくに良いものには杯酒を賜り、劣るものも受け取るが酒はなくその恥を示した。これにより官調はますます勝った。旧に還って北中郎将・帯河内太守を除せられたが、太后は津が自分に貳心があるのではと疑い河山の要に処させたくなく平北将軍・肆州刺史に転じ、なお并州刺史に転じ将軍はそのまま、右衛将軍に徴拝された。孝昌初、散騎常侍を加えられ、まもなく本官のまま定州事を行なった。近鎮が擾乱し旧京に侵逼するに及び、津に安北将軍・仮の撫軍将軍・北道大都督・右衛を加え、まもなく左衛に転じ撫軍将軍を加えた。
  • 初め津は命を受け靈丘に出拠したが賊帥鮮于脩禮が博陵で起こり定州が危急となったため師を回して南に赴いた。城下に至ったばかりで営塁がまだ立たず州軍は新たに敗れていたため、津は軍を城に移して後図を図ろうとしたが刺史元固は門を閉じて入れず、津が刀を揮って門者を斬ろうとするとようやく軍は入城できた。賊は果たして夜に至り柵が空なのを見て去った。その後賊が州城を攻め東面はすでに羅城に入り、刺史は小城の東門を閉じ城中は騒擾して出戦できなかった。津は賊を禦ごうとしたが長史の許被が門を守り聴かず、津は手ずから剣で被を撃ったが中らず、被はついに逃げた。津は門を開いて出戦し賊帥一人を斬り賊数百人を殺し、賊は退いて人心はやや安んじた。詔で衛尉卿を除せられ征官はそのまま、津の兄の衛尉卿椿がこれに代わり左衛となった。まもなく鎮軍将軍・討虜都督を加えられ吏部尚書・北道行台を兼ねた。
  • 初め津の兄椿がこの州で罪を得たのは鉅鹿の人趙略が投書したことによるものであったが、津が至るとともに略は一家をあげて逃走した。津は教を下し慰喩しその業に還るよう命じ、これにより州じゅうが愧服し遠近これを称えた。時に賊帥薛脩禮・杜洛周が州境を残掠し孤城が独り立ち両寇の間にあったが、津は柴粟を貯積し戦具を修理しさらに雉堞を営み、賊が来攻するたびに機械が競って起こった。また城中で城から十歩の所から地を掘って泉に至り広く地道を作り潜兵を涌出させ、炉を置いて鉄を鋳造しこれを持って賊に灌がせた。賊はついに「利槊堅城を畏れるのではなく、ただ楊公の鉄星を畏れる」と語った。
  • 津は賊帥元洪業及び賊中の督将尉霊根・程殺鬼・潘法顕らに書を送り曉喻し、あわせて鉄券を授け爵位を約束して賊帥毛普賢を図らせようとした。洪業らは感悟し普賢を殺そうと密議していると返書し、また城中の北人はみな殺すべきだと進言したが、津は城内の北人を殺すに忍びず内子城に収めて防禁するのみとした。将吏はみなその仁恕に感じた。朝廷が委ねた鉄券二十枚は津が賊中の首領の間を潜行して送り、脩禮・普賢はやや多くこれによって死んだ。まもなく杜洛周が州城を囲むと津は力を尽くして捍守した。詔で衛将軍を加え開国県侯・邑一千戸に封じ、将士に功のある者は津が科して賞させ兵民に八年間の復を給した。葛栄が司徒の位をもって津を説いたが津は大いに怒りその使を斬ってこれを絶った。

蠕蠕への救援要請と捕囚

  • 攻囲を受けて経ること三年、朝廷は救援に赴くことができず、長子の遁を遣わし包囲を突破して蠕蠕主阿那瓌に討伐を求めさせた。瓌はその従祖の吐豆発に精騎一万を率いさせ南出させ前鋒はすでに広昌に達したが、賊が隘口を防塞したため蠕蠕は持疑してついに還った。津の長史李裔が賊を城に引き入れ賊が転じて多くなり、津は苦戦したが敵せずついに捕らわれた。洛周は津の衣服を脱がせ地牢の下に置き数日後烹ろうとしたが諸賊が還ってこれを諫止しついに害を免れた。津はかつて裔と相見えた際諸賊帥の前で大義をもってこれを責め辞涙ともに発した。裔は大いに慙じたが洛周はこれを責めなかった。葛栄が洛周を併呑すると津はまた榮に拘守されたが榮が破れるとようやく還ることができた。
  • 永安初、詔で津は本将軍・荊州刺史を除せられ散騎常侍・当州都督を加えられたが、津は先に中山で賊に陥ったことを理由に固辞し結局赴任しなかった。二年、吏部尚書を兼ね、また車騎将軍・左光禄大夫を除せられなお吏部を除せられた。元顥が内逼した際、荘帝は自ら親征しようとし津を中軍大都督・兼領軍将軍としたが未だ行かないうちに顥が入り、顥が敗れると津は宮中に入って掃洒し宮掖を清め、第二子の逸を遣わし府庫を封閉しそれぞれ守らせた。帝が入ると津は北邙で迎え涙を流し謝罪し、帝は深くこれを嘉し慰めた。まもなく津は司空とされ侍中を加えられた。
  • 爾朱栄が死ぬと津を都督并肆燕恒雲朔顕汾蔚九州諸軍事・驃騎大将軍・兼尚書令・北道大行台・并州刺史とし侍中・司空はそのままとし、津に胡討伐の経略を委ねた。津は馳せて鄴に至ったが手下にはただ羽林五百人のみで士馬は寡弱であり、募兵を始めて滏口から入ろうとした時、すでに爾朱兆らが洛を剋いており相州刺史李神らは津とともに城を挙げて通欵しようとしたが津は従わなかった。子の逸がすでに光州刺史であり兄の子の昱が東道行台として部曲を梁沛で鳩率していたため、津は東転してさらに方略を図ろうとし軽騎を率いて済州に望み河を渡ろうとしたが、爾朱仲遠がすでに東郡を陥落させていたため図ったことは遂げられず京師に還った。普泰元年(531年)洛でも害に遇った、享年63。太昌初、都督秦華雍三州諸軍事・大将軍・太傅・雍州刺史を追贈され諡は孝穆とし、本郷に葬るにあたり詔で大鴻臚に持節して喪事を監護させた。津には六子があった。

楊津の子ら――遁・逸・謐・遵彦

  • 長子の遁、字は山才は性が澹退で年近く三十でようやく鎮西府主簿となり、しだいに尚書郎に遷った。荘帝の北巡に詔を奉じ山東を慰労し、車駕が洛に入ると尚書左丞を除せられ、また光禄大夫となりなお左丞であった。永安末、父の津が河北の委任を受けた際兼黄門郎として鄴に詣で行省の事に参じ、まもなく征東将軍・金紫光禄大夫に遷りこれも洛で害に遇った、享年42。太昌初、車騎大将軍・儀同三司・幽州刺史を追贈され諡は恭定。
  • 遁の弟の逸、字は遵道は当世の才度があり、員外散騎侍郎から起家し功により華陰男の爵を賜り給事中に転じた。父の津が中山で賊に攻逼された際、逸は爾朱栄に使いを願い出て師を徴して救いに赴かせるよう詔で許された。建義初、荘帝がなお河陽にあった時逸独り帝に謁し特に給事黄門侍郎・領中書舎人を除せられ、昼夜陪侍し常に御牀の前で寝宿した。まもなく吏部郎中を除せられ平西将軍・南秦州刺史に出仕し散騎常侍を加えられた(時に年29)が路が阻まれ赴任できず平東将軍・光州刺史に改められた。逸は節を折り綏撫に努め民務に心を尽くし、日昃・夜分を問わず兵人の従役に自ら送り、法令は厳明で寛猛相い済い全境は粛然とした。災儉が連年続き人が多く餓死したため、逸は所司の反対を押し切り「国は人を本とし人は食を命とする」として倉粟を出し表を上げ、尚書令臨淮王彧の取りなしで二万を貸すことが聴された。老小残疾で自存できない者には州門で粥を煮て食べさせ、死にかけて済われた者は万を数えた。逸は豪猾を憎み耳目を広く設け兵吏に自ら糧を持たせ暗室での食も進まず、人は「楊使君は千里眼を持つ」と語った。家禍に及ぶや爾朱仲遠は使いを州に遣わし逸を害した、享年32。太昌初、都督豫郢二州諸軍事・衛将軍・尚書僕射・豫州刺史を追贈され諡は貞。
  • 逸の弟の謐、字は遵智は太尉行参軍に辟され員外散騎常侍を歴任し功により弘農伯の爵を賜り鎮軍将軍・金紫光禄大夫・衛将軍を歴任し、晋陽にあって爾朱兆に害された。太昌初、驃騎将軍・兗州刺史を追贈された。謐の弟の遵彦は武定中吏部尚書・華陰県開国侯。
  • 津の弟の暐、字は延季は性は雅厚で頗る文学があり、奉朝請から起家ししだいに散騎侍郎・直閤将軍・本州大中正を歴任し武衛将軍・尚食典御を兼ねた。孝昌初、武衛将軍を正式に除せられ散騎常侍を加えられ安南将軍となり、荘帝の初め河陰で害に遇い、衛将軍・儀同三司・雍州刺史を追贈された。子の元譲は武定末尚書祠部郎中。

楊播一族の家風

  • 播の家は世々純厚で、みな義譲を敦くし昆季相事えることは父子のようであった。播は剛毅で椿・津は恭謙であり、人と語る際は自ら名字を称し、兄弟は朝には庁堂に集まり終日相対し、いまだかつて内房に入らなかった。一つの美味があっても集わなければ食べなかった。椿が年老いてかつて他所で酔って帰った際、津が扶侍して室に還らせ、なお仮寐して閤前で安否を伺った。椿・津は年六十を過ぎともに台鼎に登ったが、津はかつて旦暮に子姪を参問させ階下に羅列させ、椿が命じなければ座らず津も敢えて座らなかった。食事の際は津が自ら匙箸を授け味はみな先に嘗め、椿が食を命じてから食べた。津が司空であった時、府主が寮佐を通じ官を求めても「この事は家兄の裁くべきところ」と答えた。津が肆州にあり椿が京宅にあった時、四時の嘉味があるたびに使いのついでにこれを附し、もし寄せられなければ先に口にせず、椿は寄せられるたびに涙を流した。兄弟にはみな孫があったが椿だけは曾孫があり、椿はこれを早く娶らせ玄孫を見ることを望んだ。昱以下はおおよそ学尚多く、時人はみな欽羨した。一家の内、男女百口、緦服を同じくして庭に間言なく、魏世以来ただ盧淵兄弟及び播昆季のみが当世に及ぶ者はなかった。
  • 世隆らが椿の家を害そうとして逆であると誣告し収治を奏請したが、前廃帝は許さず、世隆はさらに苦執し已むを得ず有司に付し検問させることを詔した。世隆はついに歩騎を遣わし夜にその宅を囲み、天光もまた同日に椿を華陰で収え、東西両家は少長を問わずみな禍に遇った。その家を籍没した後、世隆は「楊家は実に反した、夜に軍人を拒んだのでことごとく格殺した」と奏し、廃帝は久しく惋恨したが世隆の縦擅をどうすることもできないと知り言わずにいた。永熙中、椿は合家で華陰に帰葬され、衆はみなこれを観て悲傷した。

楊鈞系の一族

  • 播の族弟の鈞は祖の暉が庫部給事からしだいに洛州刺史に遷り卒し弘農公・諡は簡を追贈された。父の恩は河間太守。鈞は頗る幹用があり廷尉正から長水校尉・中塁将軍・洛陽令に転じ、中山太守に出仕し入って司徒左長史を除せられ、また徐州・東荊州刺史を除せられ、還って廷尉卿となり恒州刺史を拝命し懐朔鎮将に転じ、居るところ強済をもって称された。後に撫軍将軍・七兵尚書・北道行台となり卒し、使持節・散騎常侍・車騎大将軍・左光禄大夫・華州刺史を追贈された。
  • 長子の暄は尚書郎で卒した。暄の弟の穆は華州別駕。穆の弟の儉は寧遠将軍・頓丘太守で建義初太府少卿を除せられ、まもなく華州中正となり左将軍を加えられた。儉は元顥と旧交があり顥が洛に入るとその位を受けたが荘帝が宮に還ると連座して免ぜられた。後に本将軍のまま頴州刺史となり、まもなく散騎常侍・平南将軍を加えられたが州は罷され赴任しなかった。普泰初、征南将軍・金紫光禄大夫を除せられ、永熙中に大将軍として北雍州刺史を除せられたがなお関西に陥った。儉の弟の寛は宗正丞から建義初通直散騎侍郎・領河南尹丞となり、しだいに散騎常侍・安東将軍に遷り、永安二年(529年)中軍将軍・太府卿を除せられ、後に散騎常侍・驃騎将軍・右光禄大夫・澄城県開国伯となり、太昌初給事黄門侍郎を除せられまもなく驃騎大将軍を加えられ華州大中正・監内典書事を除せられたが事に坐して官を去った。永熙三年、武衛将軍を兼ね、また黄門郎を除せられ出帝に随い関に入った。儉・寛はみな軽薄で無行、人々に鄙まれた。

史論

  • 史臣曰く、楊播兄弟はともに忠毅謙謹をもって内外の任を荷い、公卿牧守として累朝に栄赫し、いわゆる門生故吏は天下に遍く、その言色は恂恂として誠から出て恭徳慎行は世の師範となった、漢の万石の家風・陳紀の門法もこれに過ぎるものではない。諸子は秀立し青紫が庭に満ちたのはその積善の慶であろうか。しかし胡逆が朝を専らにし淫刑毒を肆にするに及び、この族をもってこの禍に遇うとは、報施の理はどうしてこれほど相反するのか。