魏書卷五十二 列傳第四十 隂仲達

隂仲達

隂仲達、武威姑臧の人。祖の隂訓(字処道)は李暠に仕え武威太守。父の隂華(字季文)は姑臧令。仲達は若くして文学で知られ、世祖が涼州を平定すると代都に内徙され、司徒崔浩は仲達と叚承根を共に涼土の才華として国史修撰に招くべきと啓し、祕書著作郎を除せられたが即座に卒した。華の次子の周達は徐州平南司馬・太山太守。周達の子の遵和(小名虎頭)は音律を好み武事を尚び、初め髙祖の挽郎となり奉朝請を拝し、後に広平王懐に国常侍に取られ、遵和は便辟で人に善く事え懐に深く親愛され、司空法曹・太尉中兵参軍に転じ、また汝南王悦の郎中令となり再び愛信を受け龍驤将軍・驍騎将軍・豫州都督に遷り懸瓠に鎮した。孝荘末年(530年頃)左将軍・行豫州刺史を除せられたが、当時前の行州事元崇禮が徴されて還ろうとしていたところ、爾朱兆の洛陽入城を聞いて遵和を矯って殺し州の任を擅に攝った。後に平南将軍・涼州刺史を追贈された。遵和の兄の子の道方は性は和雅で書伝に渉ることが多く李神儁に深く知賞され、神儁が前将軍・荆州刺史となると道方をその府長流参軍に請うた。神儁はかつて道方を蕭衍の雍州刺史蕭綱のもとに遣わし辺事を論じさせたが、道方の風神沈正は綱に称えられた。正光末年(525年頃)蕭綱がその軍主曹義宗らを遣わして辺蛮を擾動させると、神儁は道方を新野に馳せさせ軍事を処分させたが、道中で土着の村蛮に掠奪され義宗に送られ、義宗はさらに襄陽に伝送し蕭衍に送って尚方に囚われた。孝昌中(526年頃)ようやく帰国を得て奉朝請を拝し員外散騎侍郎に転じ、孝荘初年(528年)尚書左民郎中に遷り起居注を修め、永安2年(529年)詔で道方と儀曹郎中王元旭を蕭衍への使者とし南兖州に至ったところで召還の詔を受け、安東将軍・光禄大夫に転じ右民郎中を領し太昌初年(532年)享年42で卒し、人士は皆嗟惜し撫軍将軍・荆州刺史を追贈された。

史論

史臣曰く、趙逸らはいずれも経史に通渉し才志は群を抜き、価値は西州に重んじられ東国にも聞こえ、離散流播の中から泥滓の上に抜け出た者たちである、人に才能なくてはならぬことがまことに分かる。胡叟の顕晦の間、優游として悶えなかったのも、また一世の異人というべきであろう。