魏書卷五十二 列傳第四十 索敞
索敞
索敞、字は巨振、敦煌の人。劉昞の助教となり経籍に専心しよく昞の業を伝えた。涼州平定後に入国し儒学をもって抜擢され中書博士となり篤勤な訓授で厳粛にして礼あり、京師の大族貴遊の子弟もその威厳を敬憚し多く成益を得た。前後に顕達し尚書・牧守に至った者は数十人あり皆敞に授業を受けた。敞は10余年講授を続け、喪服が諸篇に散在しているのをもって比べ集めて『喪服要記』を撰し、その「名字論」は文が多いため載せない。後に出て扶風太守を補し在位清貧のまま程なく官に卒し、旧同学の生徒らが請うたことで詔により平南将軍・涼州刺史・諡献を追贈された。子の僧養は中書議郎・京兆太守。僧養の子の演貴は征東府参軍。演貴の子の懐眞(字公道)は武定末、侍御史。初め敞が涼州にいた頃、郷人の陰世隆と文才で相友としていたが、世隆は京師に至って罪に問われ和竜に徙され上谷に至って困窮して先に進めなくなり、土人の徐能に抑掠されて奴となった。五年後、敞が事あって上谷に至り世隆を見つけその事情を語ると対いて泣いて別れ、敞は訴えて理を得させ免れさせた。世隆の子の孟貴は性至孝で田を耘耨するときも父を早朝に拝し帰宅する際も同じくし、郷人はその事親に篤いことを欽んだ。