魏書卷五十二 列傳第四十 劉昞

劉昞

劉昞、字は延明、敦煌の人。父の劉寳(字子玉)は儒学をもって称された。昞は14歳で博士郭瑀に学び、瑀の弟子五百余人のうち経業に通ずる者は八十余人あった。瑀は初笄の娘の良縁を選ぶにあたり昞に心を寄せ、坐前に別に一席を設けて諸弟子に「私に一人の年頃の娘があり快い婿を求めている、この席に座る者を婿としよう」と告げると、昞は衣を奮って進み出て座り「先生が快い婿を求めているとうかがった、それは私のことだ」と神志粛然として述べ、瑀は娘を昞に妻あわせた。昞は後に酒泉に隠居し州郡の招聘に応じず、受業する弟子は五百余人に及んだ。李暠は私署して儒林祭酒・従事中郎に徴した。暠は文典を好み書史が破損すると自ら補治しており、昞が側に侍って代わりに行うことを願い出ると、暠は「自ら手ずから行うのは、人にこの典籍を重んじさせるためだ、私と卿がこうして出会えたのは孔明が元徳(劉備)に会ったのと何が違おうか」と答え、撫夷護軍に遷り政務があってもなお手から書を離さなかった。暠が「卿の注記篇籍は燭を継いで昼に及ぶほど熱心だが、白日それでよいのだから夜は休むべきではないか」と語ると、昞は「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり、老いの至らんとするを知らず、とは孔子の言葉、私ごときが従わずにいられようか」と答えた。昞は三史の文が繁多であるとして「略記」百三十篇八十四巻を著し、『涼書』十巻、『敦煌実録』二十巻、『方言』三巻、『靖恭堂銘』一巻を著し、また周易・韓子・人物志・黄石公三略に注をつけいずれも世に行われた。蒙遜が酒泉を平定すると祕書郎を拝し専ら注記を管し、西苑に陸沈観を築いて自ら赴いて礼を尽くし「元処先生」と号した。学徒数百人、月々羊酒を送り、牧犍は国師として尊び自ら拝礼し官属以下は北面して受業した。当時同郡の索敞・隂興が助教となり共に文学をもって挙げられ、巾衣を整えて入っていたという。世祖が涼州を平定すると士民は東遷し、夙にその名を聞いていたため楽平王の従事中郎を拝した。世祖は「年七十以上の者はみな本郷に留まり一子に扶養させよ」と詔したが、昞はすでに老いており姑臧に留まって歳余、鄉を思って帰る途中、涼州西四百里の韭谷窟で疾を得て卒した。昞には六子があった。長子の僧衍は早世。次子の仲礼は郷里に留まった。次子の仲次・貳歸・少歸・仁はみな代京に遷り後に諸州に分属され城民となった。歸仁には二子があり、長子は買奴、次子は顕宗。太和14年(490年)尚書李冲は「昞は河右の碩儒であるのにその子孫は沈屈し禄潤を得ていない、賢者の子孫にはよろしく顕異を蒙らせるべき」と奏し、その一子を郢州雲陽令に除せられた。正光3年(522年)太保崔光は「太上は徳を立て、その次は功を立て言を立てるという、死しても朽ちぬのは前哲の尚ぶところ、人を思い樹を愛でるのは古よりの美事、故楽平王従事中郎敦煌劉昞の著業は涼城に遺文として今もあり篇籍の美は観るに足るもの、たとえ過ちがあっても数世の宥しを蒙るべきであるのに、祖から孫までさほど遠くない世代でありながら久しく皂隷に沈み顕異を得られずにいるのは儒学の士のために嘆かわしい、臣は史職を忝くする身として敢えて聞こえさせる、尚書に敕して所属を推検させ雑役を免除し聖朝の旌善継絶・敦化厲俗を広めるべきである」と上奏した。正光4年(523年)6月、詔して「昞の徳は前世に冠たり儒宗として蔚然たるもの、太保の啓陳は深く勧善に合う、その孫ら三家は特に免を聴す」とされ、河西の人々はこれを栄とした。