魏書卷五十一 列傳第三十九 封勑文
封勑文(?–466年)は代の人。西部尚書から秦益二州刺史となり、上邽に鎮して氐羌の反乱や辺冏・梁会の乱を鎮圧した北魏の地方官。
年表(2件)
- 始光初年(424年頃)西部尚書から秦益二州刺史となり上邽に鎮する
- 天安元年5月466年卒する
封勑文
封勑文、代の人。祖の豆は皇始初年(396年頃)衆三万を領し東征して幽州を平定し三郡を定め幽州刺史を拝し、後に使持節・都督冀青二州諸軍事・前将軍・開府冀青二州刺史・関内侯となった。父の湼は太宗時に侍御長となり卒し、龍驤将軍・定州刺史・章武侯・諡隠を追贈された。勑文は始光初年(424年頃)中散から西部尚書に遷り、出て使持節・散騎常侍・鎮西将軍・開府・護西夷校尉・秦益二州刺史を除せられ天水公に叙爵し上邽に鎮した。詔で勑文に歩騎七千を率いて吐谷渾の慕利延の兄子拾歸を枹罕に征討させたが衆少なく制せず、詔で安遠将軍広川公乙烏頭ら二軍を遣わし勑文と隴右で会わせ武始に軍を進めると拾歸は夜に遁れ、勑文は軍を枹罕に入れて拾歸の妻子・民戸を虜にし千家を上邽に分徙し、烏頭を留めて枹罕を守らせた。金城の辺冏と天水の梁会が謀反し秦益二州の雑人万余戸を扇動して上邽の東城に拠り西城を攻逼したが、勑文は先に備えを設け賊百余人を殺し傷者も多く出て賊は退いた。冏・会は再び衆四千を率いて城を攻め、氐羌一万が南嶺に屯し休官・屠各及び諸雑戸二万余人が北嶺に屯して冏らの援となった。勑文は二将に騎二百を率いさせて門内に備えさせ、別に騎を出撃させると偽って退き、冏が衆を率いて追撃したところ勑文の軽騎が横衝し大破して冏を斬った。北嶺の賊は高所から射かけ勑文の軍に矢が雨のごとく降ったが、梁会は北嶺に逃れて再び会を主として推した。勑文は兵二百人を分けて南城に突入し門楼を焼くと賊は火を見て皆驚乱し、さらに歩卒に門を攻めさせて剋め、騎士を率いて馳入すると賊の残衆は門を開いて出走し東城に奔ったので、背後を乗じて追撃し千余人を殺した。安豊公閭根が軍を率いて勑文を助けた。勑文は上表し「安定の逆賊帥路那羅が使いを遣わし書を逆帥梁会に贈り、会はその書を城中に射入れたところ、那羅は衆旅を纂集し期を剋して会を助けると称した、また仇池城民李洪が自ら応王を称し玉璽を天授されたと擅に符書を作って百姓を誑惑した、梁会は使いを遣わし楊文徳を招引したが文徳は権寿胡に兵二十人を率いさせ会の間に到らせ州土を扇動し『李洪は自ら応王を称するが両雄並び立たず、もし我を須つならまず李洪を殺せ、さもなくば自ら往く』と告げると、梁会は文徳を引き寄せようと李洪を誘って東城に来させすぐさま洪の首を斬って文徳に送った、仇池鎮将淮陽公臣豹子は使いを潜行させ今月24日に臣の鎮に至り、楊文徳が劉義隆の職爵を受け兵を領して衆を聚め仇池境中で民人を沮動し城鎮を竊取しようと企てていること、梁会の反逆以来南に文徳と結び援勢が相連なり武都の氐羌がみな脣歯となって文徳のために起軍し所在で兵衆を屯結し来着は遠くないことを伝えてきた、臣は辺鎮を備えて賊と相持ち賊は東城にあって墻を隔てるのみだが、腹背に敵を受ければ攻城に疑いが生じる、文徳が来て会を助けるのを剋期で推測すれば、もし文徳が至れば百姓が響応し賊党はいよいよ甚だしくなり用功はいっそう難しくなる、今文徳がまだ到らず会もまだ事に熟していない今こそ速やかに撃つべき時、伏して願わくば天鑒により特に大軍を遣わし臣を助けて誅翦されたい」と述べたが、表がまだ返答されぬうちに梁会は逃遁を図った。先に勑文は東城の外に重塹を掘って賊の走路を断っていたため、会は車陳を組み飛梯で塹を越えて逃げようとしたが、勑文は先に塹外に兵を厳しく備え夜から朝まで拒戦した。勑文は衆に「困った獣も猶お闘う、まして人においてをや、賊衆は生路なきを知れば人は自ら死を致し必ず士衆を傷つける、平定は容易ではない、もし生路を開けば賊は必ず上下離心し剋つは易くなろう」と諮ると衆は皆然りとした。勑文は初め白虎幡を掲げて賊衆に「もし帰降できれば生命を原す」と宣告しており、これに応じて即時に降った者は六百余人、会は人心が沮壊したのを知り分遁したため、勑文は騎を縦にして追跡し死者は大半、俘獲は四千五百余口。略陽の王元達は梁会の乱に乗じ衆を聚めて城を攻め休官・屠各の衆を招引し天水の休官王宦興を推して秦地王とした。勑文は臨淮公莫真と共に討ち、軍が略陽に次ると使いを遣わして慰諭したが、元達らの三千余人は松多川に屯した。そこで諸軍を三道に分け並び攻めると賊は営を出て拒戦し大破、三千人を俘にした。髙宗時、新平公周盆と共に劉駿の将殷孝祖を清東で撃ったが剋てず、天安元年(466年)5月に卒した。長子の万護は爵を弟の翰に譲った。当時譲る者は万護と元氏侯趙辟悪の子元伯が弟の次興に譲る例のみで、朝廷は議して許した。翰の族孫の静は世宗時に征虜将軍・武衞将軍・太子左衞率を歴任し幹用をもって称され、延昌中(513年頃)平北将軍・恒州刺史・臨朐都護に遷ったが事に坐し免官され卒した。子の熙は奉朝請から員外散騎侍郎・給事中に遷り薛曇尚と共に涼州で蠕蠕主婆羅門を迎え、また鎮遠将軍・河陰令を除せられ卒し輔国将軍・朔州刺史を追贈された。子の纘は武定末、潁川太守。