魏書卷四十八 列傳第三十六 髙允
髙允(字は伯恭、渤海の人、?–太和十一年〔487年〕、享年98)。清廉な学識で知られた北魏の重臣で、崔浩とともに『国記』を編纂したが崔浩の獄に連座しかけ、恭宗の弁護と自らの直言により死を免れた。世祖・恭宗・高宗・顕祖・高祖の歴代に仕え、郡国立学を建言するなど文教興隆に尽くし、清貧を貫いて長寿を保った。子孫も学識・治績で知られた。
年表(10件)
- 皇興年間太常を兼ね兖州に至り孔子廟を祭る
- 神䴥三年430年陽平王杜超の従事中郎となり諸州の獄訟停滞を裁く
- 神䴥四年431年盧玄らと共に徴召され中書博士を拝す
- 太延中(頃)440年弟の推、劉義隆への使者として建業に赴き疾を得て客死
- 太和二年478年老いて郷里に還りたいと上表するも聴されず、後に帰郷を許され安車で徴される
- 太和十年486年光禄大夫金章紫綬を加えられる
- 太和十一年487年正月に卒す。享年98
- 太和十五年491年孫の綽、奉朝請・太尉法曹行参軍となる
- 延昌初年(頃)512年綽、尚書右丞となる
- 正光三年522年綽、后将軍并州刺史のまま急病で卒す。享年48
髙允
髙允、字は伯恭、渤海の人。祖の髙泰は叔父髙湖の伝にあり、父の髙韜は若くして英朗の名があり、同郡の封懿に敬慕され慕容垂の太尉従事中郎となった。太祖が中山を平定すると韜は丞相参軍となったが早世した。允は幼くして孤児となり夙成、清河の崔玄伯は允を見て「髙子は黄中内潤・文明外照、必ず一代の偉器となろう、ただ吾が見届けられぬのが惜しい」と評した。10余歳で祖父の喪に服し財産を二弟に譲って沙門となり法淨と名乗ったがほどなく還俗、学を好み千里を厭わず経史・天文術数・春秋公羊を修めた。郡の功曹に召され、神䴥3年(430年)世祖の舅陽平王杜超が征南大将軍として鄴に鎮するや従事中郎となり、諸州の獄訟停滞を裁くため呂熙らと共に諸州に派遣されたが、熙らが賄賂で罪を得た中、允のみ清廉で賞を得た。帰郷して教授し、受業者は千余人に及んだ。神䴥4年(431年)盧玄らと共に徴召され中書博士を拝し、侍郎に遷り太原の張偉と共に楽安王范(世祖の寵弟)の従事中郎として西の長安鎮に随い匡益あり、秦人に称えられた。塞上翁詩を作り得喪を超越した心境を詠んだ。驃騎大将軍楽平王丕の上邽西討に従軍し功により汶陽子・建武将軍を加えられた。詔により司徒崔浩と『国記』を編纂し著作郎を兼ねた。
浩が術士を集め漢以来の日月薄蝕・五星運行を考校し前史の誤りを難じ「魏暦」を作って允に示した際、允は「天文暦数は空論すべきでない、遠を験するにはまず近を験すべし、漢元年冬十月に五星が東井に聚ったというのは暦術の浅きもの、今漢史の誤りを譏りながらこの謬りに気づかぬのは、後人が今を古を譏るように譏るのを恐れる」と論じ、浩との問答の末、東宮少傅游雅も允の暦数の精しさを認めた。後年、浩は改めて考究し允の指摘(三月に東井に聚ったのであり十月ではない)が正しかったと認め、游雅に「允の術は后羿の弓射のようなものだ」と語り、衆は允に服した。允は暦数に明るかったが軽々に論説せず、游雅がしばしば災異を問うても「知るは甚だ難く、知れば漏泄を恐れる、知らぬに如かず」と答え多くを語らなかった。允は秦王翰の傅となり、また侍郎公孫質・李虚・胡方回と共に律令を定め、世祖に刑政を論じて称旨を得た。世祖が「万機の務め、何を先とすべきか」と問うと、允は農事を説き「方一里なら田三頃七十畝、百里なら三万七千頃、勤めれば畝ごとに三升増え、怠れば三升減る、百里の損益で粟二百二十二万斛の差が出る、まして天下の広さにおいてをや」と論じ、世祖はこれを善しとして田禁を廃し民に授けた。
崔浩が冀定相幽并五州の士数十人を推挙し郡守に起用しようとした際、恭宗(皇太子)は「先に召した者は州郡選により既に久しく職にあり労勤に報いられていない、まず彼らを外任の郡県に補い、新召の者を郎吏に代えるべき」と浩に説いたが、浩は固く争って推挙を通した。允はこれを聞き東宮博士管恬に「崔公はその非を通し上に勝とうとして免れられまい」と語った。遼東公翟黒子が世祖に寵愛され并州で布千疋を受けた事が発覚した際、黒子は允に「首実(自白)すべきか隠すべきか」と問い、允は「帷幄の寵臣たる者は実を答え忠誠を告げれば罪は無きに等しい」と勧めたが、中書侍郎崔覧・公孫質らは隠すよう勧め、黒子はこれに従い允に反って怒り絶交した。黒子は結局虚偽の申告により世祖に疎まれ罪に伏した。
このころ著作令史の閔湛・郄檦は崔浩に取り入り、浩の注した詩論語尚書易を上疏して馬融・鄭玄・王肅・賈逵の注に優ると称え、諸書を廃して浩注を天下に頒布すべしと請い、浩もまた両人の著述の才を薦め、浩の撰した国史を石に刻んで不朽に垂れることを勧めた。允はこれを聞き著作郎宗欽に「閔湛の企みは崔門万世の禍となろう、我らも類を免れまい」と語った。ほどなく崔浩の獄が起こると、允は直宿していた中書省を恭宗の東宮侍郎呉延に召され宮内に留められ、翌日恭宗が入奏する際、允を驂乗させ「至尊にお会いすれば私が導くから私の言葉に従え」と諭したが、允は事の内容を問わず入宮した。恭宗は世祖に「中書侍郎髙允は臣の東宮に長年仕え小心慎密であり、浩と同事したとはいえ允は微賤で事は浩の主導だった、その命を赦されたい」と弁護した。世祖が允に「国書はすべて崔浩の作か」と問うと、允は「太祖の記は前著作郎鄧淵の撰、先帝記及び今の記は臣が浩と共に作った、ただし浩は総裁に過ぎず、注疏は臣の方が多い」と答え、世祖は激怒して「これは浩以上の罪だ、生きる道はない」と言ったが、恭宗が「允は小臣、迷って辞を失っただけです、先ほど私に問うた時は皆浩の作だと言っていました」と取り繕おうとすると、世祖が允に確かめ、允は「臣は下才をもって著作に謬って参じ、逆を犯した罪は滅族に値する、今すでに死を分かった以上、虚妄は申せぬ、殿下は臣が長く侍講したことを哀れんで命乞いをされているだけで、実際にお尋ねになってはおらず、この言葉もありません、臣は実をもって答え迷乱いたしません」と貫いた。世祖は恭宗に「直なるかな、これは人情の最も難しいところだ、臨死に志を変えぬとは、まして君に対し実をもって答えるとは貞臣というべきだ、一人の有罪を見逃す方を取ろう」と述べ允を赦した。浩を召して詰問すると浩は惶惑して答えられず、允は事ごとに条理をもって申し明かした。世祖は激怒し允に浩以下僮吏以上百二十八人を夷五族とする詔を書かせようとしたが、允は疑って書かず、再度の督促にも「今一度お目通りしてから詔を作りたい」と願い出て、「浩の罪がもし他の釁があるなら臣は知らぬが、ただ犯触の罪だけならば死には至らぬ」と直言、世祖は激怒して介士に允を捕らえさせようとしたが、恭宗が跪いて願い、世祖は「この人がいなければ朕は忿りのあまり数千の命を絶っていたであろう」と述べた。結局浩は族滅、他は皆身のみ死し、宗欽は臨刑に「髙允はほとんど聖人だ」と嘆じた。
恭宗は後に允を責め「人は機を知るべきなのに、機を知らずに学んで何の益があるか、あの時私が端緒を導いたのになぜ人の言葉に従わなかったのか、帝があれほど怒られたことを思うたび心が悸える」と言うと、允は「臣は東野の凡生、もとより宦意なく、たまたま招聘を受けて仕えたに過ぎず、史籍は帝王の実録・将来の炯戒であるからこそ人君は慎むもの、浩は殊遇を受けながら自ら滅びを招いたが、その跡には論ずべき点もある、浩は蓬蒿の才で棟梁の重を荷い、朝にあって諫めの節なく退いて委蛇の称もなく、私欲・愛憎が公廉の理を蔽ったのが浩の責である、ただ朝廷起居の跡・国家得失の事を書いたこと自体は史の大体として大きな違いはない、臣は浩と実に同事しており死生栄辱を分かつべきでない、殿下の大造の慈に感謝しつつも心に違えて免れるのは臣の本意ではない」と答え、恭宗は感激した。允は後に人に「私が東宮の意向に従わなかったのは翟黒子への義理を欠くことを恐れたからだ」と語った。恭宗の晩年、左右を近づけ田園を営んで利を求めたことに対し、允は「天地は私なきゆえに覆載でき、王者も私なきゆえに包養できる、昔の明王は金を山に珠を淵に蔵し天下に無私を示し至倹を訓えたからこそ美声千載に衰えぬ、今殿下は国の儲貳として四海の属心を負いながら私田を営み鶏犬を畜い酤を販じ市に交わって民と利を争えば議声は追い掩えぬものとなる、天下は殿下の天下であり富は四海にあるのに何を求めて商人と尺寸を争うのか、昔は虢が亡ぶ前に神が降って土田を賜り遂に国を喪い、漢の霊帝も人君の重きを修めず宮人と市肆を開いて小利を営み顛覆の禍を招いた、これらの前鑒は畏るべきである、人君は人を審らかに択ぶべきで知人則哲は帝も難しとする、商書にも小人に近づけば不遜、遠ざければ怨むとあり、武王は周召を愛して天下に王たり、殷紂は飛廉・悪来を愛して国を喪った、古今の存亡はみなこれに由る、東宮に人材が乏しいのではなく近頃の侍御左右は朝の選にあらざる恐れがある、佞邪を斥け忠良を親しみ、田園は貧者に分与し畜産販売は時を守るべきだ」と諫めたが、恭宗は納れなかった。恭宗が崩じた際、允は久しく参内しなかったが、世祖に召されると階に昇るや歔欷し悲しみが止まらず、世祖も涙を流して允を退出させた。左右が「髙允がなぜ泣くのか、至尊まで哀傷させて」と怪しむと、世祖は「崔浩が誅された時、允も本来死すべきところ東宮の苦諫で免れた、今は東宮がおらぬので允は朕を見て悲しんだのだ」と語った。允は上表し「かつて天文災異を集めよとの勅を受けた」として、箕子の洪範・宣尼の春秋の故事を引き、天人の理は遠くとも報いは速いと論じ、漢の劉向が洪範春秋の災異報応の伝を作りながら成帝に容れられず遂に漢が危うくなった例を挙げ、陛下の神武叡鑒に応えるべく洪範伝・天文志の要を撮って八篇を撰したと述べ、世祖はこれを善しとし「允の災異への明察は崔浩に劣るまい」と評した。
高宗(文成帝)即位後、允は謀に与り功があったが、司徒陸麗らが重賞を受けたのに対し允は褒異を受けず、忠を尽くしても誇らなかった。給事中の郭善明が髙宗に大々的な宮室造営を勧めた際、允は「太祖道武帝が天下を定めて都邑を建てたのも農閑によったもの、今国を建てて久しく宮室は既に備わり、永安前殿は朝会に足り西堂温室は御身を安んずるに足り紫楼は遠望に足る、もし壮麗を広く修めるなら漸次にすべきで倉卒にはできぬ、材を斫り土を運ぶだけで二万人、供給の丁夫を合わせ四万人、半年で二万余の民の飢寒を招く、これは古今に験される必然の効なり」と諫め、髙宗はこれを容れた。允はまた髙宗が承平の業を継ぎながら婚娶喪葬が古式に依らないことを諫め、「五異」を挙げた。第一に、前朝は婚娶に楽を作すこと・葬送に歌謡鼓舞・殺牲燒葬を厳禁したが、今は諸王の婚礼に楽部が伎を給する一方で庶民にのみ楽を禁じているのは異である。第二に、古の婚姻は徳義の家を選び媒聘・礼物を尽くし親迎の礼を重んじたが、今は諸王が15歳で妻を賜り別居させ、配偶が長少不相応であったり掖庭の罪人の女を宗王妃嬪に配したりする失礼が甚だしく、皇子の妻の多くが宮掖から出ているのに小民には礼限を守らせているのは第二の異である。第三に、古の哲王が葬礼を制したのは生を毀って死に奉らせぬためであり、堯は穀林に葬られ農は畝を易えず、舜は蒼梧に葬られ市は肆を改めず、秦始皇は地市を作り三泉を錮したが死してすぐ尸は焚かれ墓は掘られた、今国家の営葬は巨億を費やしながら一旦焼いて灰燼とするのは靡費に過ぎず、上がこれを止めず下にのみ禁ずるのは第三の異である。第四に、祭りには尸を立てて昭穆を序し亡者に憑らせるのが礼であるが、今は葬った後の魂に貌の似た者を求めて父母・夫妻のごとく仕えるのは風化を損ない情理を瀆すもので、上が禁ぜず下が改めぬのは第四の異である。第五に、饗宴は礼儀を定め万国を訓ずるためのものなのに、今の大会は内外相混じり酔喧に儀式なく俳優の鄙芸が視聴を汚しているのに朝廷はこれを美とし風俗の清純を責めているのは第五の異である。「陛下は百王の末に当たり晋乱の弊を承けながら矯め改めねば天下蒼生は永く礼教を聞かぬままとなろう」と允は繰り返し諫め、髙宗は従容として聴き、時に触忤する箇所は左右に扶出させたが、事が不便な折には允に会って屏人し待ち、朝臣の誰も知らぬまま晨に入り暮に出ることもあった。髙宗は群臣に「君父は一つだ、父に非があれば子は書を人中に作って諫めず家内で隠すもの、それは父の恥が外に彰れるのを恐れてのこと、今国家の善悪を面陳せず表を上げて顕らかに諫めるのは君の短を彰し己の美を明らかにするに等しい、髙允のような者こそ真の忠臣だ、朕に是非があればいつも正言面論し、朕が聞きたくないことでも侃々と述べて避けることがない、朕はその過ちを知りながら天下はその諫めを知らぬ、これこそ忠ならざるか、お前たちは左右にいて正言を聞いたことがなく、朕の喜ぶ時をうかがって官職を求めるばかりだ」と述べ、允を中書令に拝し著作は故のごとくとした。司徒陸麗が「允は寵待を蒙りながら家貧しく妻子も立たず」と告げると、髙宗は「なぜ先に言わなかった、今用いてから貧しさを言うとは」と怒り、その日のうちに允の第を訪ねると草屋数間・布被縕袍・厨中は塩菜のみで、髙宗は「古人の清貧もこれに及ぶまい」と嘆じ、帛五百匹・粟千斛を賜い長子の忱を綏遠将軍・長楽太守とした。允は固辞したが許されなかった。允と共に徴された游雅らは通官・封侯に至り、允の部下の吏百数十人も刺史・二千石に至ったが、允自身は郎として二十七年官を変えなかった。百官に禄がなかった当時、允は常に諸子を樵采させて自給させた。かつて尚書竇瑾が事に坐して誅され、子の遵は逃亡し母の焦氏は官婢に没したが、老いて後赦されるまで允は焦氏を六年間保護し、瑾の親故で誰も恤む者がなかった中、遵は後に赦されその篤行を得た。允は太常卿に転じ本官はそのまま、代都賦を上って風諭を寓し二京の賦の流れを汲んだ(文は多く載せず)。中書博士索敞が侍郎傅黙・梁祚と名字の貴賤を論じ議論が紛糾した際、允は名字論を著してその惑いを解いた。祕書監を兼ね太常卿を解かれ梁城侯に進爵、左将軍を加えられた。允と游雅・太原の張偉は同業の友であったが、雅は允を評して「喜怒は人が免れ得ぬもの、前史に卓公寛中・文饒洪量・褊心の人を載せても信じられぬ者があろう、しかし私は髙子と四十年遊んだが是非慍喜の色を見たことがない、髙子は内は文明外は柔弱でその言は訥々として口をつかぬ、私は彼を文子と呼んだ、崔公も『髙生は豊才博学の一代の佳士だが矯々たる風節に欠ける』と言い私もそれに頷いていたが、司徒の譴が起こり詔責に及んで崔公は声を嘶らし股を戦かせて言葉を発せられず、宗欽以下は地に伏して流汗し人色なきほどであったのに、髙子だけは事理を敷陳し是非を申釈して辞義清弁・音韻高亮、明主も動容し聴く者は皆称善した、その仁は僚友に及び元吉を保った、かつての矯々たる風節とはまさにこれではないか、宗愛が権勢を振るった際、百司を都座に召すと王公以下庭に望んで拝したが、髙子だけは階を昇って長揖した、汲長孺が衛青に臥して会えたことに何ら抗礼の遜色はない、風節とはまさにこの類だろう、人を知るのは容易でなく人にも知られにくいものだが、私は心の内でこれを見誤り崔公も外面の姿でこれを見誤った、鍾子期が伯牙に、鮑叔が管仲に見出されたのと同じである」と称えた。允の人望はこの通りで、髙宗は允を重んじ実名で呼ばず常に「令公」と呼び、令公の号は四方に知られた。髙宗崩御後、顕祖が諒闇にあり乙渾が朝命を専擅して社稷を危うくすると、文明太后は乙渾を誅し允を禁中に引いて大政に参決させた。太后はまた允に「近頃学業が久しく廃れ子衿の嘆きが再び見える、朕は大業を纂ぎ八表宴寧となったので旧典に稽え郡国に学宮を置いて後進の道を開きたい、卿は儒宗元老であるから中祕二省と議して奏せよ」と詔した。允は「経綸大業は教養を先とし、辟雍は周詩に光り泮宮は魯頌に顕れたが、永嘉以来舊章は殄滅し釈奠の礼も廃れて百五十年、先朝も憲章を望みながら果たせなかった、陛下は洪烈を纂ぎ祖宗の遺志を申べ周礼の絶業を興すべく、学校を崇建して先王の道を明時に光演すべき」と表し、大郡には博士2人・助教4人・学生100人、次郡には博士2人・助教2人・学生80人、中郡には博士1人・助教2人・学生60人、下郡には博士1人・助教1人・学生40人を置き、博士は博く経典に通じ世に忠清の誉れある40歳以上、助教も同年限で30歳以上(道業夙成の才は年齢に拘らず)、学生は郡中の清望の家から高門を先に中第を次に取るべきと定め、顕祖はこれに従い、郡国立学はここに始まった。允は老いて疾のため乞骸骨を上表したが許されず、「告老詩」を著し、また昔同徴された者が凋落し尽くしたのを感じて「徴士頌」を作った。頌には応命した者のみを載せ、命を受けながら至らなかった者は闕いた。以下にその名を掲げる――中書侍郎固安侯の范陽盧元(字子真)、郡功曹史の博陵崔綽(字茂祖)、河南太守下楽侯の広寧燕崇(字元略)、上党太守高邑侯の広寧常陟(字公山)、征南大将軍従事中郎の渤海髙毗(字子翼)、同じく渤海李欽(字道賜)、河西太守饒陽子の博陵許堪(字祖根)、中書郎新豊侯の京兆杜銓(字士衡)、征西大将軍従事中郎の京兆韋閬(字友規)、京兆太守の趙郡李銑(字令孫)、太常博士鉅鹿公の趙郡李霊(字虎符)、中書郎中即丘子の趙郡李遐(字仲熙)、営州刺史建安公の太原張偉(字仲業)、輔国大将軍従事中郎の范陽祖邁、征東大将軍従事中郎の范陽祖侃(字士倫)、東郡太守蒲陰子の中山劉策、濮陽太守真定子の常山許琛、行司隷校尉中都侯の西河宋宣(字道茂)、中書郎の燕郡劉遐(字彦鑒)、中書郎武恒子の河間邢潁(字宗敬)、滄水太守浮陽侯の渤海髙済(字叔民)、太平太守平原子の鴈門李熙(字士元)、祕書監梁郡公の広平游雅(字伯度)、廷尉正安平子の博陵崔建(字興祖)、広平太守列人侯の西河宋愔、州主簿の長楽潘天符、郡功曹の長楽杜熙、征東大将軍従事中郎の中山張綱、中書郎の上谷張誕(字叔術)、祕書郎の鴈門王道雅、祕書郎の鴈門閔弼、衞大将軍従事中郎の中山郎苗、大司馬従事中郎の上谷侯辯、陳留郡太守髙邑子の趙郡呂季才。允は序に「魏は神䴥以後、赫連の僭を誅し窮髪の寇を掃い、南は江楚を摧き西は涼域を盪し、殊方も義を慕って至ったので偃兵息甲して文学を修め俊造を登延し、有司に名士を求めさせたところ范陽盧元ら42人が推挙され、その就命した者35人、その余は州郡の遣わした者で記すに堪えない」と述べ、頌詞では建国以来の武功と文治への転換、招賢の盛事を讃えたうえで、盧元の量遠く思純なること、崔綽の焭単不遇ながら家道を隆んじたこと、燕崇・常陟の徳行、髙毗・李欽の相知り相和すこと、許堪の恩顧、杜銓の孤高、韋閬の淑量、趙郡三李(李銑・李霊・李遐)の清風、張偉の淵長清到、祖邁・祖侃の兼済の志、劉策・許琛の忠竭、宋宣の道茂、劉遐の思参文雅、邢潁の政平、髙済・李熙の先覚、游雅の出類、崔建・宋愔の英偉、潘天符・杜熙の清潔、張綱・張誕・王道雅・閔弼の各々の徳、郎苗の智足周身、侯辯の敬慎、呂季才の柔にして執競なることを、それぞれの名を挙げつつ一人一人讃えるという構成であった。皇興年間、詔により允は太常を兼ね兖州に至り孔子廟を祭った。允が顕祖の北伐に従い大捷して武川鎮に至った際、「北伐頌」を上り北虜討伐の武功と仁徳による招撫を讃えた。顕祖はこれを善しとした。また顕祖が不豫の際に髙祖(孝文帝)が幼く京兆王子推を立てようとした際、諸大臣を集め順に召問すると、允は跪いて涕泣し「臣は多言を憚りますが、陛下には宗廟を思い周公が成王を抱いた故事を追念されたい」と願い出、顕祖は結局位を髙祖に伝え、允に帛千匹を賜って忠亮を標した。允は中書監に遷り散騎常侍を加えられ、久しく史事を掌ったが専勤はできず、校書郎劉模と共に崔浩の旧業を続け春秋の体に準じて刋正を加え、髙宗から顕祖に至る軍国の書檄の多くは允の文であった。晩年に髙閭を薦めて自らに代え、定議の勲により咸陽公・鎮東将軍を加えられ、使持節・散騎常侍・征西将軍・懐州刺史を授けられた。允は秋に境を巡り民の疾苦を問い、邵県で邵公廟が廃毀しているのを見て「邵公の徳が欠礼のままでは善を為す者が絶えよう」と表して修葺させた。允はこの時すでに90歳近かったが勧学に励み風化はよく行われた。後の正光年間、中散大夫中書舎人の常景は允を追慕し郡中の故老を率いて野王の南に允の祠を建て碑を樹てて徳を紀した。太和2年(478年)、允は老いて郷里に還りたいと十余章を上表したが聴されず、疾を告げて帰郷、その年に安車で徴され州郡が発遣、都に至って鎮将軍・領中書監を拝したが固辞し、また引かれて内に入り皇誥の改定に参じた。允は「酒訓」を上表し、被勅で古今の酒の敗徳を集めた旨を述べ、太皇太后(文明太后)の日昃憂勤を至誠と讃え、酒訓一篇を作った。その詞は玄酒と薄酒の礼義の別、商辛が酒に眈り殷が亡び周公が誥を陳べ徳が昌え、子反が酔って斃れ穆生が飲まず身を全うした故実、晋人が放縦を高達とし堯舜の千鍾百觚の飲を偽って称えた誤り、子思の「夫子の飲は一升に及ばず」の言などを引き、酒を度とし徳を経とし敬慎を彌栄すべきことを説くものであった。髙祖はこれを悦び、允に車に乗って入殿し朝賀に拝せぬことを許した。翌年には律令の議定を命じ、允は年すでに期頤に近いが志識は損なわれず旧職に心を留め史書を披考した。詔により允の家貧を憂い楽部の絲竹十人を五日毎に遣わして允を娯しませ、蜀牛・四望蜀車・素几杖・蜀刀を特賜し、珍味を毎春秋に送り、朝晡の膳・朔望の牛酒・衣服綿絹を毎月給し、允はこれらを親故に分け与えた。当時貴臣の門は皆顕官が列していたが允の子弟は無官爵で、その廉退はこの通りであった。允は尚書散騎常侍に遷り、朝廷は允を延いて几杖を備えさせ政治を問うた。太和10年(486年)光禄大夫金章紫綬を加えられ朝の大議は皆允に諮問された。魏初の法は厳しく朝士の多くが杖罰を受けたが、允は五帝に歴事し三省に出入りすること50余年、譴咎は一度もなかった。真君中(440年代)獄訟の滞留を解消すべく中書に経義で疑事を断じさせて以来、允は律に拠って刑を評すること30余年、内外はその公平を称えた。允は「獄は民の命である」としてしばしば嘆じ「皋陶こそ至徳、その後の英・蓼は先に亡び劉項の際に英布も黥刑ののち王となっても刑の余釁があった、まして凡人が咎なきことなどあろうか」と語った。その年4月、西郊の祭祀に際し詔により御馬車で允を迎え郊所の板殿に赴かせたが馬が驚いて車が覆り眉を三箇所傷つけ、髙祖・文明太后は医薬を遣わして問い、允は「恙なし、罪を免じられたい」と啓した。允には中黄門蘇興寿が侍していたが、允が雪中で犬に驚いて倒れた時も扶者を責めず慰めて事を表沙汰にしなかった。興寿は「允に仕えて三年、忿色を見たことがない」と語り、允は昼夜手から書を離さず吟詠し、貴重の身にありながら性は貧素を好み、伶人の弦歌鼓舞には常に節を撃って称善し、仏道を篤信して斎を設け、生を好み殺を厭い、簡素で妄りに交遊しなかった。顕祖が青齊を平定し士人を代に徙した際、遠く来た流移の人々は飢寒に苦しんだが、その中に允の姻戚も多く、允は財を散じ産を竭して彼らを賑わせ問い、その才能を表奏して用いさせた。時の議者は新附ゆえに異を唱えたが允は「材を取り能を任ずるにこの故に抑え屈すべきでない」と語った。允は方山に召された折にも頌を作り、志気は衰えず旧事を談じて漏らすことがなかった。太和11年(487年)正月に卒し、享年98であった。允は常に人に「私は中書にいた時、陰徳を積んで民命を救った、陽報に狂いなければ寿は百歳に及ぶはずだ」と語っており、卒に先立ち体調不良ながら寝臥せず医薬を求め出入り行止・吟詠は常のごとくであった。髙祖・文明太后は医の李脩を遣わして脈を診させたが、脩は入って密かに允の栄衛に異があると告げ、久しからざるを懼れて御膳・珍羞(酒米から塩醢まで百余品)や牀帳・衣服・茵被・几杖を庭に羅列させ、王官の往還する慰問が相続いた。允は喜色をたたえ「天恩により篤老の私に多くの賚があり客をもてなせる」と語り、表を上げて謝すのみで数日を経て夜中に卒し、家人も気づかなかった。詔により絹一千匹・布二千匹・綿五百斤・錦五十匹・雑綵百匹・穀千斛を喪用に給し、魏初以来存亡に蒙賚された者の中で允に及ぶ者はなかった。将に葬るに際し侍中・司空公・冀州刺史・将軍公はそのまま追贈され、諡を文とし命服一襲を賜った。允の詩賦誄頌箴論表讃・左氏公羊釈毛詩拾遺・論雑解議・何鄭膏盲事等は凡そ百余篇、別に文集が世に行われ、算法にも明るく『算術』三巻を著した。
允の子の忱(字士和)は父の任により綏遠将軍・長楽太守となり寛惠の政を行い民に安んじられたが、後に例により侯に降格しほどなく卒した。孫の貴賓は爵を襲ぎ州治中で官に卒した。忱の弟の懐(字士仁)は任城王雲の郎中令・大将軍従事中郎を経て中散を授かり怡淡退静で世利を争わず、散位に18年ありながら官を易えず、太和中に太尉東陽王の諮議参軍で卒した。懐の子の綽(字僧裕)は幼くして孤児となったが恭敏で自立し、身長八尺・腰帯十囲、沈雅な度量あり経史に広く通じ、太和15年(491年)奉朝請・太尉法曹行参軍となり尚書祠部郎を兼ねたが母の喪で去職、後に治書侍御史・洛陽令に転じ、強直な政で豪貴を憚らせ邑人に憚られた。律令の議定に参じ長兼国子博士・行潁川郡事に遷り、假節行涇州刺史を経て延昌初年(512年頃)尚書右丞となり壬子(律令)の議に参じた。粛宗初年、司徒清河王懌の司馬・冠軍を歴任し懌に随い太尉司馬となったが、その秋、大乗の賊が冀州で起こり都督元遙の討伐に随い、綽は散騎常侍・持節を兼ね白虎幡を掲げて軍前で招慰し、その信望により降る者が相継いだ。軍還により汲郡太守を固辞し、御史中尉元匡が髙聰・綽らを髙肇への朋附と弾劾したが詔で罪は原された。滎陽郡事を行い本将軍のまま豫州刺史となり清平・抑強扶弱の政で百姓に愛され流民の帰附二千余戸を得た。後将軍并州刺史に遷ったが正光3年(522年)冬に急病で卒し、享年48。翌年9月、詔により安東将軍・冀州刺史・諡簡が追贈された。綽の子の炳(字仲彰)は太尉行参軍から征虜将軍・開府掾に遷ったが早世した。
允の弟の推(字仲讓、小名檀越)は早くより名誉あり、太延中(440年頃)前後の南使が不評であったため游雅の推薦で応選し散騎常侍を兼ねて劉義隆への使者となり、南人にその才弁を称えられたが疾を得て建業で卒し、朝廷はこれを悼み輔国将軍・臨邑子・諡恭を追贈、命服衣冠を賜り、允が誄を作った。推の弟の燮(字季和、小字淳于)も文才があったが世祖の徴召に病と称して応じず、允の屈折した宦歴を常に譏笑し、京邑に従容として家に栖泊し、州辟の主簿で卒した。孫の市賓は奉朝請・冀州京兆王愉の城局参軍となったが、愉の反逆に際し逃げ帰り、のち青州安南府司馬・永熙中の冠軍将軍開府従事中郎となった。神䴥中、允と仲叔の済・族兄の毗・同郡の李金が共に徴された。済(字叔民)は初め中書博士を補し楚王の傅となり、真君中に員外常侍を仮され浮陽子に叙爵、劉義隆への使者となり世祖の臨江の際に盱眙太守となり、超授されて游撃将軍、後に滄水太守に出て享年67で卒し、鎮遠将軍・冀州刺史・諡宣を追贈された。子の矯は爵を襲ぎ卒し、子の師が爵を襲いだ。師(字孝則)は学識あり詹事丞・太子舎人・尚書主客郎を歴任、通直散騎侍郎・従事正員郎に転じ光禄少卿・行涇州事に累遷し卒し、龍驤将軍・河州刺史を追贈された。子の和仁(字徳舒)は爵を襲ぎ員外散騎侍郎・領殿中御史に釈褐、清簡で文才があり五言詩を太尉に贈って盧仲宣に激賞され、髙尚の志があったが洛州録事参軍に任ぜられても赴かず汲郡白鹿山で服餌し、程なく卒し人々に惜しまれた。和仁の弟の徳偉は武定末(550年頃)東宮斎帥。矯の弟の遵は別に伝がある。毗(字子翼)は郷邑に長者と称され従事中郎に至った。孫の当は尚書郎で卒し、楽陵太守・諡恭を追贈された。
允が引いた劉模は長楽信都の人で、若い頃ひそかに河表に遊び河南に至って潜行して帰り、経籍にやや通じ注疏の用があった。允が祕書を領し著作に典じた際、校書郎に選ばれ、允の国記修撰に共に管籥を持って日々史閣に入り膝を接して事を叙し、允が90歳を過ぎ手が衰えると模に執筆させ允が指授裁断した。允の成した篇卷・著論の上下には模の功もあった。太和初年、模は中書博士に遷り李彪と僚友となり互いに愛好したが、国胄の訓導・風範の甄明では彪に及ばなかった。潁州刺史に出て、王粛が帰闕の途中懸瓠を経て羈旅窮悴の時、誰も気づかぬ中で模のみが必要な物を給し礼をもって待ち、粛はこれに感じ入り、後に粛が豫州に臨んだ際に模はなお郡にあってその報復を受け、新蔡太守に転じた。二郡合わせて10年在任し寛猛相済み治称を得た。正始元年(504年)陳留太守に出た時すでに70余歳で老いを飾り年を昧まして禁を犯し自効に努め、遂に南潁川に家し旧郷に帰らなかった。子の懐恕は聡率だが多くの闕があり潁川で情和を収め、襄武将軍・本州冠軍府功曹参軍に至った。懐恕の弟の懐遜は医術にやや通じ左軍将軍・鎮遠将軍で卒した。
史論
史臣曰く、仁に依り芸に遊び義を執り哲を守るとは、まさに司空髙允のことである。危禍の機を踏み雷電の勢いに抗い、死に処して夷然と身を忘れて物を済い、遂に明主を悟らせて身命を全うした。体が命を知ることに隣し鑒照が窮達を貫く者でなければ、これほどのことができようか。四世にわたり光寵を保ち百年の齢を享けたのは、魏建国以来この人のみである。子の綽が学治で名を聞こえたのも、家業を修めた義によるものである。