魏書卷四十七 列傳第三十五 盧𤣥

盧𤣥(字は子真、范陽涿の人)を祖とする北魏の名族・范陽盧氏一族の伝。𤣥は儒学で聞こえ神䴥四年に儒俊の首として辟召され中書博士となった学者官僚。子の度世、孫の淵・昶ら子孫も代々学問と政務に優れ書法でも一門は称され、青齊没落者の救恤や礼法を重んじる家風で知られた。子孫は北魏中期以降も高官を輩出し「盛門」として世に重んじられた。

年表(14件)

盧𤣥

  • 盧𤣥、字は子真。范陽涿の人。曾祖の諶は晉の司空劉琨の従事中郎、祖の偃、父の邈はともに慕容氏に仕えて郡太守となり皆儒雅で称された。神䴥四年(431年)儒儁を辟召した際、𤣥を首とし中書博士を授けられた。司徒崔浩は𤣥の外兄で常に𤣥と語るたび「子真に対すると懐古の情がさらに深まる」と歎じた。浩は大いに人倫を斉整し姓族を分明にしようとしたが、𤣥はこれを勧めて「そもそも制を創り事を立てるにはそれぞれ時があります、これを楽しんでする者がどれほどいるでしょうか、宜しく三思されるべきです」と述べ、浩は当時異言はなかったものの結局納れず、浩が敗れたのは頗るこれによる。後に寧朔將軍・兼散騎常侍として劉義隆に使いした際、義隆はこれと語り良久しくして「中郎(劉琨の官職)は卿の曾祖だ」と歎じ、還って病で卒した。

𤣥の子・度世

  • 度世、字は子遷。幼くして聡達で計数に長じ中書学生となり東宮に応選され、弱冠にして従兄の遐とともに学行をもって時流に重んじられた。度世は後に崔浩の事に坐して官を棄て高陽の鄭羆の家に逃れ、羆はこれを匿った。使者が羆の長子を囚え捶楚を加えようとすると、羆は「君子は身を殺して仁を成す、汝は死んでも言うな」と戒め、子は父命を奉じ拷掠されて火で体を焚かれるに至っても遂に何も言わなかった。度世は後に弟に羆の妹を娶らせその恩に報いた。世祖が江に臨んだ際、劉義隆はその殿中將軍黄延年を朝貢させ、世祖は延年に「范陽の盧度世は崔浩に親通した罪で命を逃れ江表に至っているはずだ、彼に会ったか」と問うと、延年は「都下では聞きません、必ず至っていないでしょう」と答えた。世祖は東宮に度世の宗族で逃亡・籍没した者を赦す詔を出し、度世は出でて京に赴き中書侍郎を拝し爵を襲いだ。興安中、太常卿を兼ね保太后の父の遼西獻王の廟を立て鎮逺將軍を加え侯に爵を進め、後に散騎侍郎を除せられ劉駿に使いした際、駿はその侍中柳元景を遣わして対接させたが度世の応対は失衷でありまもなく禁劾に遭い年を経て釈された。假節・鎮逺將軍・齊州刺史を除せられ、州は辺境に接し將士がしばしば相い侵掠していたが度世は所統を禁勒しその俘虜を還し二境は寧んじた。後に事に坐して久しく囚繫され還鄉した。まもなく徴されて京に赴き平東將軍・青州刺史を除せられたが未拝のうちに患いに遇い延興元年(471年)卒した。年五十三、諡を惠侯とした。四子の淵・敏・昶・尚は初めての元妻の子で五人の嫡子があったが、ただ度世のみが正嫡で他はみな別生であった。崔浩の難に際しその庶兄弟は常に度世を危害しようとし度世は深くこれを忿恨し、度世に子ができてからは常に妾の子孫を絶ち長ぜしめず後患を防ごうと戒めた。淵兄弟の代になっても婢賤生の子は容貌が相似ていても皆挙用されず識者に非とされた。

度世の子・淵

  • 淵、字は伯源。小名は陽烏。性格は温雅・寡欲で祖父の風があり学業を敦尚し閨門は和睦、侯爵を襲ぎ主客令・典屬國を拝し祕書令に遷り、始平王師を例により爵を降されて伯となり給事黄門侍郎を除せられ兼散騎常侍・祕書監・本州大中正に遷った。この頃、高祖が馮后を立てようとして朝臣を集めて議した際、高祖はまず淵に「卿の意はどうか」と問い、淵は「これは古来慎むべきこと、愚意は改めて簡卜されるべきかと存じます」と答えると、高祖は「先后の姪であることに朕の意はすでに定まっている」と述べ、淵は「勅を奉りますが、しかし臣の心には実に未だ尽くせぬものがあります」と述べた。朝臣が集議し及んでも執意は前の通りであり、馮誕は盛寵を受けていたためこれを深く恨んだが、淵は介懐しなかった。高祖が蕭賾を伐とうとした際、淵は表して「臣は識る所が周からず頗る篇籍を尋ねますに、魏晉より以前、承平の世に皇輿が親ら六軍を御し行陣の間で勝を決した者はありません。勝っても武とするに足りず、勝てなければ威を虧きます。千鈞の弩は鼷鼠のために機を発しないというのはこのためです。昔、魏武は敝卒一萬をもって袁紹を土崩させ、謝元は歩兵三千をもって苻堅を瓦解させました、勝負は衆寡によらず成敗は須臾にあります。もし田豐の謀を用いていれば孟徳(曹操)は坐して制されていたでしょう。魏がすでに蜀を併せて晉の世に至るまで、呉は江水がその上流に居るという地の利があり、大小の勢いは殊なり徳政の理も絶していましたが、なお君臣は謀を協せて数十載を垂れ、孫皓の暴戾に及んで上下は攜爽し水陸ともに進んで一挙にして始めて剋ちました。今、蕭氏は簒殺の燼をもって政は虐に役は繁く、また支属は相屠り人神ともに棄てられ、呉會の民は皇澤に踵を延ばしています、まさに齊軌の期・一同の会にあたります。もし大駕が南巡すれば必ず左袵は面を革め閩越は戈を倒すでしょう、それは山を運んで卵を圧するようなもので征はあっても戦いはないでしょう。しかし愚考するに万乗の親戎は転漕が継ぎ難く千里に糧を饋れば士に飢色があり、大軍の後には必ず凶年があります。命将して精鋭を簡び江右を盪滌させ、その後で鸞を鳴らして巡省し東岳に成を告げれば天下は幸いというべきです、率土は戴頼するでしょう。臣はまた聞くところ、関右の民は比年より競って齋会を設け豪貴を假称して相い扇惑し顕然と衆坐の中で朝廷を謗り無上の心を示す者があるといい、これは甚だしいものです。愚考するに速やかに懲絶しその魁帥を戮すべきで、そうでなければ黄巾・赤眉の禍を成す恐れがあります、その微萌を育てて芟らねば毫末が斧斤に一たび加われば害を蹈む者が衆くなる恐れがあります。臣は世々皇家に奉じ義は休戚を均しくします、干忤の愆を誠に知りながらも不忠の罪はさらに大きいと存じます」と述べた。詔に「至徳は一なりといえども功を樹てるには多途あり、三聖は文を殊にし五帝は律を異にする、あるいは張りあるいは弛むのはどうして必ず相因るものであろうか。遠く承平の主が旆を親らせぬのは由あってのこと、英明の主あるいは同軌の征なく、守庸の君あるいは志劣により伐を寝める。今、もし英皇に喩えるなら時は昔の類ではなく、庸后に比べるなら意に恧じるところがある。もし元極の尊が本より二公の徒を駕すべきでないとするなら、革輅の戎とはあるいは謬りではないか。昔人を尋ねるに必ずすでにして世を済うのであれば、どうして広く先業を及ぼせぬことがあろうか。定火の雄は不武を聞かず、世祖の行はみな疑懾ではなかった。しかも曹操が袁を勝ったのは徳義が内挙されたことにより、苻堅の瓦解は立政が至らぬことに縁る、決して敝卒の力・彊十萬の衆の寡によるのではない。今は先天の術を駆馳し仁義の師を用い、成敗を審かに観れば咎を免れよう。長江の阻みは未だ憚るに足らず、紀を踰える略はどうして必ず師とすべきか。洞庭・彭蠡は殷の固めに非ず、奮臂の一呼が漢業を成すこともあった。経略の義はまさに機に臨むに付し、足食の籌は蕭相(蕭何)に寄望した。将に混一を希うのに、どうして好んで軽動し利を見る事を人に委ねられようか。また水旱の運は必ずしも兵に由らず、堯湯の難はどうして興旅に因ろうか。頗る豐かな後もなお静かならず、関左の小紛はすでに勑して禁勒した。流言の細事はどうして天功を紆するに足りようか、誠心を深く録し恨みを相い遂げぬままにしないように」とあった。車駕の南伐に及び趙郡王幹が関右諸軍事を督すると、詔により淵に使持節・安南將軍を加え副とし衆七萬を勒して子午に出ようとしたが、蕭賾の死により停師した。この頃、涇州の羌が叛き城邑を残破していたため淵は歩騎六千・号三萬を率いて徐行して進み、未だ三旬を経ぬうちに賊衆は逃散し降る者は数萬口、ただ首悪のみを梟し余はみな問わなかった。侍中を兼ねる詔が下った。初め淵が年四十の頃、長安に詣で還ろうとした際、諸相餞送する者五十余人が渭北で別れたが、相者の扶風の人王伯達が「諸君はみなこの盧郎に及ばない、位は実に副わないがそれでも徳声は甚だ盛んで望は公輔を踰える、後二十余年で関右に制命するはずだ、忘れないでほしい、この行いを」と述べた。相者は年八十を過ぎて軍門に詣で見を請い平生を叙べた。まもなく儀曹尚書を拝し、高祖の考課で在位が降された折、淵は王師を守る常侍として尚書を降され常侍の禄を奪われること一周であったが、まもなく豫州刺史を除せられたが母の老いにより固辞した。蕭昭業の雍州刺史曹虎が使者を遣わして降を請うと淵は使持節・安南將軍として督前鋒諸軍として樊鄧に径赴くこととなり、淵は「臣はもとより儒生、頗る俎豆のことは聞きましても軍旅の事は未だ学んでおりません、陛下裁いてください」と面辞したが軍期はすでに逼っており高祖は許さなかった。淵は「ただ曹虎が周魴のようになるのではと恐れます、陛下審らかにされますように」と述べたが、虎は果たして偽降であった。淵が葉に至ると曹虎の譎詐の問を具さにしその利害を陳べ、詔により淵は南陽を進取させられたが淵は兵が少なく糧が乏しいことにより先んじて赭陽を攻めることを求めた、葉倉に近いためである。高祖はこれを許し赭陽を進攻したが蕭鸞の将垣歴生が救援に来ると淵はもとより将略に乏しく賊に敗られ官爵を免じられ庶民とされた。まもなく母の憂に遭い、高祖は謁者を宅に遣わして宣慰し服闋すると兼太尉長史となり、高祖の南討にまた彭城王中軍府長史を兼ね、まもなく徐州京兆王愉の長史を兼ね絹百疋を賜られた。愉は年少で事のことごとくが多く淵に決せられ、淵は誠信をもって物を御しよく東南の民和を得た。南徐州刺史沈陵が密かに外叛を謀ると淵はその萌漸を覚り密かに諸戍に微かに備えさせ屡々表聞したが朝廷は納れず、陵は果たして将佐を殺し宿豫の衆を勒して逃叛し濱淮の諸戍もこれによって備え全きを得た。陵は辺にあること歴年で陰結すでに広く二州の人情はみな相い扇惑されていたが、陵の余党は多く執送され淵はみなこれを撫でて赦し、ただ陵に罪を帰したためこれにより衆心は乃ち安んじた。景明初年(500年)祕書監を除せられ二年、官で卒した。年四十八、安北將軍・幽州刺史を贈られ本爵の固安伯を復され諡を懿とした。初め湛(諶)の父の志は鍾繇の書法を家伝とし累世業を伝え能名あり、邈に至るまでみな草書に善通し、淵は家法を習い代京の宮殿の題は多く淵の書によるものであった。白馬公崔元伯もまた善く書き衞瓘の体を伝え、魏初の工書者は崔盧の二門とされた。淵は僕射李沖と特に相い友善であり、沖は淵の門風を重んじ淵は沖の才官を私しこれにより婚姻を結び往来は親密であった。淵が高祖の意遇を荷ったのも頗るこれによる。淵には八子あった。

淵の長子・道將

  • 道將、字は祖業。父爵を襲ぐべきところをその第八弟の道舒に讓り有司がこれを奏聞すると、詔して「長嫡承重は礼の大経、どうして輒授できようか」とあったが、道將は清河國王常侍韓子熙が弟の仲穆に讓った魯陽男の例を引き、尚書李平が重ねて奏しこれにより道將に許された。道將は経史に渉獵し風氣は謇諤で頗る文才あり一家の後来の冠であった。諸父もみなこれを敬憚し、彭城王勰・任城王澄もみな虚襟をもって待遇した。勰が中軍大將軍となると行參軍に辟され司徒東閤祭酒・尚書左外兵郎中に遷り祕書丞に転じ出でて燕郡太守となった。道將は下車して樂毅・霍原の墓を表し祠を立て儒生を優礼し勤学を励まし農桑を敦課し墾田は歳ごとに倍し、入って司徒司馬となり卒し龍驤將軍・太常少卿を贈られ諡を獻とした。文章数十篇を著した。

道將の子・懷祖

  • 懷祖、太学博士・員外散騎侍郎で卒した。

懷祖の弟・懷仁

  • 懷仁、武定中に太尉鎧曹參軍となった。

道將の弟・亮

  • 亮、字は仁業。仕えずして終わった。子に思道がある。

亮の弟・道裕

  • 道裕、字は寧祖。少くして学尚をもって知られ風儀も兼ね美しく顯祖の女の樂浪長公主を尚し駙馬都尉・太子舎人を拝しまもなく洗馬に転じ散騎侍郎に遷り安逺將軍・中書侍郎に転じ祕書丞を兼ねまもなく母の憂で去官し服が終わると復び中書侍郎を拝し龍驤將軍・太子中庶子・幽州大中正に遷り長兼散騎侍郎に転じ左將軍を加え、神龜二年(519年)左將軍・涇州刺史を除せられその年七月に官で卒した。年四十四、撫軍將軍・青州刺史を贈られ帛三百匹を賜り諡を文侯とした。

道裕の子・景緒

  • 景緒、武定中に儀同開府録事參軍となった。

道裕の弟・道䖍

  • 道䖍、字は慶祖。粗略に経史に閑じ算術に兼通し高祖の女の濟南長公主を尚した。公主は驕淫で声は遐邇に穢れていたが、先に疹患なく倉卒に暴薨し、時に道䖍が害したと言われた。世宗はその醜悪を秘め窮治せず、尚書がかつて道䖍を国子博士に奏したがのちに靈太后が主の薨事を追及し道䖍を黜けて庶民とし終身仕えさせなかった。孝昌末年、臨淮王彧が出征する際に啓されて道䖍は奉車都尉を除せられ、道䖍の外甥の李彧が莊帝の姊の豐亭公主を尚したことによりこれを藉り相い託した。永安中、輔國將軍・通直常侍を除せられまもなく征虜將軍を加え、議歴の勲により臨淄伯を賜爵し散騎常侍に遷り、天平初年、征南將軍・都官尚書に転じ本州大中正となり出でて驃騎將軍・幽州刺史を除せられまもなく衞大將軍を加え官で卒し、都督幽瀛二州諸軍事・驃騎大將軍・尚書右僕射・司空公・瀛州刺史を贈られ諡を恭文とした。公主には二子(昌㝢・昌仁)があったが昌㝢は不慧で昌仁は早くに卒した。道䖍はまた司馬氏を娶り子の昌裕を儲けたが司馬氏が出された後、また元氏を娶り二子(昌期・昌衡)を儲けた。兄弟は父爵を競って今なお襲がれていない。

道䖍の弟・道偘

  • 道偘、字は希祖。州主簿で沉雅で学尚あり孝昌末年卒した。二子は早夭し弟の道約の子正達を後嗣とし武定中に征虜將軍・太尉記室參軍となった。

道偘の弟・道和

  • 道和、字は叔維。兄弟の中で人望は最も下で冀州中軍府中兵參軍で卒した。

道和の子・景豫

景豫の弟・景熙

  • 景熙、武定中に儀同開府諮議となった。

道和の弟・道約

  • 道約、字は季恭。起家して員外郎となり累遷して司空録事參軍・司徒屬・幽州大中正・輔國將軍・光禄大夫となり司徒右長史に転じた。太傅李延實が出でて青州となる際、延實が先に病んでいたため道約はその妻弟であったことにより延實の長史とする詔が下り散騎常侍を加えて匡維を寄せられた。永熙中、車騎將軍・左光禄大夫として廣平王贊の儀同開府長史を領し、天平中、開府儀同の髙岳が長史に請い、岳が青冀二州に転じても道約はなお長史を仍ね両藩に随い毗佐の称があった。興和末年、衞大將軍・兗州刺史を除せられ州にあって頗る民和を得た。武定元年(543年)卒し年五十八、使持節・驃騎大將軍・儀同三司・幽州刺史を贈られた。

道約の子・正通

  • 正通、開府諮議で少くして令誉あり晉陽に徴赴し患いに遇い卒した。妻の鄭氏は正通の弟の正思と淫乱し武定中、御史に弾劾され人士にこれを疾まれた。

道約の弟・道舒

  • 道舒、字は幼安。父爵を襲ぎ尚書左主客郎中より冠軍將軍・中書侍郎となり卒した。

淵の弟・敏

  • 敏、字は仲通。小字は紅崖。少くして大量あり太和初年、議郎を拝しまもなく卒し威逺將軍・范陽太守を贈られ諡を靖とした。高祖はその娘を納れて嬪とした。五子があった。

敏の子・義僖

  • 義僖、字は逺慶。早くに学尚あり識度は沉雅、年九歳で父を喪って至性あり、少くして僕射李沖に歎美された。起家して祕書郎となり太子舎人・司徒中郎を歴任し、神龜初年、任城王澄が義僖を挙して散騎侍郎に除せられ冠軍將軍・中散大夫に転じ母の憂により去職した。幽州刺史王誦は義僖と交款し常に旧故の李神儁らへの書に「盧冠軍がここにあってまたも旧好を惠み留連すること数日、政道を諮詢できた」と語り、その重んじられ方はこの如くであった。齊王蕭寳夤が開府諮議參軍に啓するも疾を辞して赴かず、まもなく司空長史を兼ね征虜將軍・太中大夫を拝し秩を散じること多年、澹然として自ら得るところあり李神儁は干謁して当途に就くことを勧めたが義僖は「先王の道を学ぶのは先王の志を行うことを貴ぶ、どうして苟くも富貴を求められようか」と述べた。孝昌中、散騎常侍を除せられ、時に靈太后が臨朝し黄門侍郎李神軌が勢いを朝野に傾け婚姻を結ぼうとしたが、義僖はその必ず敗れることを慮り拒んで許さなかった。王誦は義僖に「昔人は一女を五男に易えなかった、卿はどうしてこれを易えるのか」と述べ、義僖は「従わなかったのはまさにこのためだ、従えば禍が大きく速いことを恐れる」と述べ、誦は乃ち義僖の手を堅く握り「私はある命を聞いても人に告げない」と述べ、遂に他族に嫁した。婚礼の夕、靈太后は中常侍を遣わして服景(服喪の礼装をする景の意か)を家に就かせ内外を勑停めさせ惶怖したが、義僖は夷然として自若としていた。建義初年、都官尚書を兼ねまもなく安東將軍・衞尉卿を除せられ、普泰中、都官尚書を除せられ驃騎大將軍・左光祿大夫を加えられた。義僖は少時、幽州が頻りに水旱に遭い先に穀数万石を民に貸していたが、年穀が熟さないことにより契を燔き州閭はその恩徳を悦んだ。性格は寛和・畏慎で妄りに交款せず魏子建と情好は尤も篤く言葉を隠すことはなかった。義僖は性格清儉で財利を営まず、位は顕くとも困乏に至るたび麦飯蔬食を忻然として甘んじた。永熙中、風疾が頓発し興和中に卒した。年六十四、大將軍・儀同三司・瀛州刺史を贈られ諡を孝簡とした。

義僖の子・遜之

  • 遜之、武定中に太尉記室參軍となった。

遜之の弟・世猷

  • 世猷、齊王開府集曹參軍となった。

義僖の弟・義悰

  • 義悰、字は叔預。司空行參軍・本州治中・散騎侍郎・司徒諮議參軍を歴任した。

義悰の子・孝章

  • 孝章、儀同開府行參軍で早亡した。

義悰の弟・義敦

  • 義敦、字は季和。征北府黙曹參軍となった。

義敦の子・景開

  • 景開、字は子達。武定中に儀同開府屬となった。

義敦の弟・義安

  • 義安、字は幼仁。仕えなかった。義僖の諸弟はみな遠く兄に及ばなかった。

敏の弟・昶

  • 昶、字は叔達。小字は師顔。学は経史に渉り早くに時誉あり太和初年、太子中舎人・兼員外散騎常侍として蕭昭業に使者として遣わされた。高祖は昶に「卿はあちらに至ればもう彼我の隔てにこだわらぬように、江揚に密邇していれば早晩それは朕の物になる、卿らも言いたいことがあれば疑い難じることはない」と勅し、また副使の王清石に「卿は自分が南人であるからと言語で慮ることはない、もし彼が先に知り識る所があれば見るべきものは見、論ずべきは論じるべきだ、盧昶はまさに寛柔の君子で多くの文才はない、あるいは主客が卿に詩を作らせることがあれば卿の知る所によって率いてよい、昶が作らないからといってまたやめることはない。およそ使人の体は和を貴ぶ、遞いに相い矜誇し色貌に見して将命の体を失うことのないように、卿らは各々知る所を率いて相い規誨せよ」と勅した。昶が彼に至ると蕭鸞が僭立し高祖はこれを南討し、昶の兄の淵は別道の将となったため蕭鸞は朝廷が兵を加えていることを憂い昶らを酷遇した。昶はもとより骨鯁ではなく南人が「兄は将となり弟は使者となった」と言うのを聞いて大いに恐怖し涙と汗を流した。鸞は腐米・臭魚・莝豆をこれに供したが、謁者張思寧は辭氣謇諤でいささかも屈撓せず、遂に壮烈に死して館中で終わった。昶が還ると高祖はこれを責め「銜命の礼は死あって辱なし、たとえ海隅に流されても節を抱いて殞ぬべきである、卿は長纓で首を羈さぬのみか、なぜ眉を俛れ飲啄し自ら犬馬に同じたのか、生あれば必ず死あり修短は幾何もない、卿がもし身を殺して名を成し竹素にこれを貽していたらどうだったか、なぜ彼の芻菽に甘んじて君父を辱めるのか、遠く蘇武に慙じずとも近く思寧に愧じないのか」と述べ、昶は「臣の器は陸随(陸賈・随何)に乏しく閩越に忝く使いし蕭鸞の昬狂に遭って誅戮無道、聖時に仰奉できず母を養うために帰ろうとしただけです、尺蠖の屈をもって伸を求めようとして朝命を負辱し罪は万死に合します、司㓂に帰り斧鉞を伏聴させてください」と述べ遂に罷黜された。久しくして復び彭城王友を除せられ祕書丞に転じ、景明初年、中書侍郎を除せられ給事黄門侍郎に遷り本州大中正となり、昶は外禄を請うたが世宗は許さず散騎常侍に遷り尚書を兼ねた。時に洛陽縣で白鼠が獲られたことに昶は奏し「謹んで瑞典を按ずるに外鎮の刺史・二千石・令長が上命を祗まず百姓を刻暴し人民が怨嗟すれば白鼠が至ります。臣が聞くに禎は虚しく見られることなく徳合すれば必ず符し、妖は妄りに出ることなく咎彰われれば至るといいます。それゆえ古の人君はあるいは瑞に怠って徳を失いあるいは変に祗んで功を立てました、これは万古の殷鑒・千齡の炯誡です。比者、災気が沴を作し恒陽が度を虧いておりますが、陛下は如傷の慈を流し納隍の㫖を降し百姓の無辜を哀しみ在予の深責を引かれ賢を挙げ佞を黜ける詔は堯に道を映し進んで諫を納れる言は舜に光を及ぼしています。伏して明旨を読み徴譴を俯観し敢えて庸瞽を布して万一を陳べます。ひそかに惟うに一夫の耕は食すら口を充たすに裁か足らず、一婦の織は衣がやっと形を蔽うのみです。年租嵗調はこれ常理なるのに、この外に何を求めて足りとするでしょうか。しかし比年よりこのかた兵革はしばしば動き荆揚二州は屯戍やむことなく、鍾離・義陽は師旅相い継ぎ、兼ねて荆蛮は凶狡で王師は薄伐し原野に暴露し秋を経て夏に淹り、汝潁の地は戸を率いて戎に従い河冀の境は丁を連ねて転運しています。また戦えば必ずしも勝たず、加えて退けば死喪離曠、十室に九つが細役煩徭は日月ますます甚だしくなっております。苛兵酷吏はこれによりいよいよ威福を逞しくし、通原遥畛は田が蕪れ耘するもの罕く、連村接閈は蠶が飢えて食するものなく、監司は公に因って貪求し豪彊は私を恃んで逼掠し、遂に短褐を鬻いで千金の資を益し口腹を制して一朝の急を充てさせています。これはみな牧守令長が多くその人を失い、郡には黄霸の君を闕き縣には魯恭の宰なく、安民の道を思わず潤屋の道を思うことによります、それゆえ士女は嗟を呼び道路に相い望み守宰の暴貪は魏闕に風聞しています。往歳、法官が案騐して多く刑網に挂かったのは必ず顕戮して勧誡を明らかにせんとしたためですが、その後に使を遣わして覆訊するに公然と憲典に違い、あるいは風を承け俠って請い軽く私恩を樹て、あるいは情を容れ賄を受けて輒ち已の惠を施し、御史の劾する所はみな誣枉と言われ罪人はさらに清白と称され侮りの源を長じ陵下の路を滋しています。忠清の人はこれを見て自ら怠り犯暴の夫はこれを聞いてますます快とする、白鼠の至るは信にして徴あります。伏して願わくば陛下は叡哲の鑒を垂れ妖災の起こる所を察し、公卿と対を延ばし広く庶政を詢ね樞納を引見して博く民隱を求め孤寡を存問し、その苛碎を去り徭賦を軽くし民と休息をともにし、貞良忠讜は朝に置き姦回貪佞は市に棄てられれば、九官は戒めずして恒に敬い百縣は厳ならずして自ら粛み士女は欣欣として人に望みあるでしょう」と述べた。詔に「朕は鴻緒を纂承し寳暦を伏膺し八方を靖んじ四海を惠康することを思い必世の期に当たろうとしているが、麟鳳は降らず勝残の会に属して白鼠が咎を告げている、万邦の罪は実に朕の躬にある、尚書は機猷を敷納し献替はここに寄せられ讜言は聞こえた、朕は実にこれを嘉美とする」とあり、侍中に転じまた吏部尚書を兼ねまもなく即ち正となりなお侍中を仍ねたが、昶は職を守るのみで激揚するところはなく、侍中元暉らと更に相い朋附し世宗に寵せられ時論にこれを鄙しめられた。出でて鎮東將軍・徐州刺史となり、永平四年(511年)夏、昶は表して「蕭衍の琅邪郡民王萬夀らが款誠内結し密かに臣に胊山戍が今まさに交換されようとしておりつけこむべき機会があると告げてきました、臣はただちに旌賞を約束しその還入を遣わしたところ、三月二十四日夜、萬夀らは同盟を率いて胊城を攻掩し衍の輔國將軍琅邪東莞二郡太守・帶朐山戍主劉晰および將士四十余人を斬り首を伝えて州に至りました。臣はただちに兼郯城戍副張天惠を遣わして驍勇二百を率いて赴かせ、琅邪諸戍は絡繹として継援し衍の郁洲はすでに二軍を遣わして天惠を拒みましたが、天惠は萬夀らと内外齊しく撃ち数百を俘斬してすぐに城に拠りました」と述べた。詔に昶に「彭宋の地は辺疆に接し勢いは淮海に連なる、威禦の術は功が易きにあらず、朐山の険塞は宼の要衝を防ぎ水陸交湊し揚郁の路衝は凶徒を畜聚し邊鄙を虔劉し青光齊兗は常にその患いに罹る。卿の妙算はすでに敷かれ城を克し衆を殄ぼし疆を展べ土を闢いた、何もこれに善しくすることはない。庸勲の懋、朕はこれを嘉とする」とあり左右直長閻遵業を遣わして往懐を具さに宣べさせ、「この戍は郁洲の本、存亡の繋る所、今すでに失守すれば存せざるの心があり、彼は咽喉を扼されたと見て救援の計を図るだろう、今、水雨は盛んに行われている、防守を須つべきである、卿は深く擬捍の規・攘敵の略を思案し還って具さに聞かせよ」とあった。昶はまた蕭衍の将張稷・馬仙琕・陰䖍和らがそれぞれ精兵を領して諸堰に分屯し、昌義之・張惠紹・王神念・王茂光が彼の伝信を承け続けて建鄴自存の計を発してみなここに帰したことを表し、「力を量り宼事を準ずるに恐らく軽くはありません、なぜなら、この兵は九千、賊衆は四萬、名将健士は遠近に畢く集まり両熱を邀憑して決死に来戦し、衆に藉り凶に乗じ巣穴を傾け国を挙げて挙げるのは朐山のためだけではないでしょう、恐らく王師が固く六里を拠って湖を衝き南は淮浦を截つのを恐れて勢いは崩れ難測となりましょう。海利・鹽物は交わりに常貢が闕けることを慮っています、大有の必争の心があることが慮られます。もし皇家の経略がまさに討つべきところがあるなら必ず簡将増兵し糧仗を加益し、これと亢擬相持し秋に至れば天麾が一動して開拓は図りやすくなり南図の計は本より今にあります、請うらくは兵六千・米十万石を増し、そうでなければ朝議を伏聴します」と述べた。昶はまた表して「賊徒は大いに集まり衆旅は彊盛で朐山に柵を置いて門井を屯守し併せて固城を圍み昼夜連戦しており、恐らくは狡勢がすでに彊いので後に除揃し難くなる恐れがあり、輙ち征虜將軍趙遐に見兵を率勒させ決勝させようと思いますが、遐は衆が少なく敵に及ばぬのではと慮り大衆が倶に至るのを待ってから鋭を奮って撃つことを求めています。竊かにこの謀は孟浪にあらずと思います、具臣は本より朝規を奉り相い拒守して涼月を待つよう命じられましたが、今嵗はすでに秋高風漸の時、経算大図の時事はすでに至り、且つ鮑口以東は陸連にして閡なく朐固の間は本より停潦なく、時宜しく掩撃すべきですが賊は夏よりこのかた甲を貫いて歇まず、六里以北より城柵は相い連なり兵人を役使してすでに疲殆しています、もし大衆がこれに臨めば必ず禽捷でき、一城が退潰すれば衆壘は土崩し勝ちに乗じてこれを図れば振朽より易いでしょう。もし兵が速やかに至らなければ彼の熾心を長じ軍士は憂惶し自ら異議を生じます、請うらくは速やかに配を簡んで事機に及ばせてください」と述べた。詔に「朐山を克獲したのは計は昶に本づき乗勝の規はついに寄せる所があるべし、これによって起兵の始に即ち処分を委ね前機経略はもっぱらこれに任せている、今すでに兵を請うたのだから理としてすみやかに遂げるべきで、冀定瀛相四州の中品羽林虎賁四千人をこれに赴かせるべし」とあり、また詔して昶に「朐山を克ったのは実に卿の開疆拓土によるものだ、実に長策とすべし。しかし経討はいまだ服さず、卿でなければ誰がこれをなせようか、しかるに蟻徒が死を送って王略を規侵するのは天が小賊を亡ぼすには遠くない、それゆえ前に卿に親臨指授を命じたが、卿の疾がまだ癒えないことを以て消息を待った、今すでに痊復した以上、前旨に遵い戈を秉り鋭を揮い宼を殄ぼすことに専念せよ、すでに虎旅五萬を発し機に応じて電のごとく赴かせる、辰を指せば至るだろう、卿の本請の通り彼の東南を截つべきである、亮しく髙算に委ねる」とあり、また詔して昶に「朐を取り戍を置くのはみな卿の計だ、始終の成敗はことごとく卿に帰す、卿は兵少なきをもって益を請いすでに卿の本意を遂げた、聞くところ東唐の陸道は甚だ狹く一軌の外はみな大水だという、彼は必ずこれを拠って軍路を断つだろう、もしすでにそうなら更に何の策を設けるべきか、その軍の竒兵の変じ来たれば表聞せよ、また聞くところ衍の軍の將帥にはしばしば流言があり、魏博・淮陽・宿豫はこれ両宜であると言うという、もし実にこれがあれば卿は朐山の薪水がいくら支えられるか量ってほしい、もし事の往返を容れるなら馳駅で速やかに聞かせよ、もし理としてそれができないなら薪水が少なく急ならばすぐに計を量ってほしい、もし理としてしかりとするなら亦将軍の裁決に任せる」とあった。昶はもとより儒生で本より将略に乏しく、また羊祉の子燮が昶の司馬となり専ら戎事を征し昶の耳目を掩い将士はこれを怨んだ。朐山戍主傅文驥は糧樵ともに罄き城を以て衍に降り、昶はその城が降るのを見て先んじて走り退き諸軍は相い尋いで奔遁し、大寒雪に遭い軍人は凍死し手足を落とす者三分の二に及んだ。国家が江左を経略してより唯中山王英が鍾離で敗れたのみで、昶の朐山での失利はもっとも甚だしいものであった。世宗は黄門甄琛を遣わして駅を馳せて昶を鏁しその敗状を窮せしめ、詔して「朐山の敗は傷損実に深い、始を推し末を究めるに罪は鍾元帥(元英)にも及ぶが、すでに大宥を経ている、軽重は別とすべきだ、昶は一人官を免ずるのみで論坐せよ、自余の將統以下はことごとく赦に依り任に復すことを聴す」とあり、まもなく太常卿を拝しまた安西將軍・雍州刺史を除せられ、また鎮西將軍に進号し散騎常侍を加え、熙平元年(516年)官で卒し征北將軍・冀州刺史を贈られ諡を穆とした。昶は寛和で矜恕あり撫綏に善く、その徐州にあった際、戍兵が疾めば親ら検恤し番兵の年限が満ちても帰らせず後役に充てさせ、昶の一政が終わって初めて還らせたので人庶はこれを称した。

昶の子・元聿

  • 元聿、字は仲訓。他の才能はないが高祖の女の義陽長公主を尚し駙馬都尉を拝し太尉司馬・光禄大夫に位し卒し中書監を贈られた。

元聿の子・士晟

  • 士晟、儀同開府掾となった。

元聿の第五弟・元明

  • 元明、字は幼章。羣書に渉歴し兼ねて文義あり風彩は閒潤で進退見るべく永安初年、長兼尚書令臨淮王彧に欽愛され、彧が開府すると兼屬に引かれなお部曲を領し、出帝の登阼に及び郎任をもって禮に行い城陽縣子に封じられ中書侍郎に遷った。永熙末年、洛の東の緱山に居し幽居賦を作った。この頃、元明の友人の王由が潁川に居し忽ち由が酒を携え元明を訪ね別れの詩を贈る夢を見、元明はその詩の十字を憶えて「自ずこの一去の後、市朝を復び遊ばず」とあり、元明は「由は俗に狎れない性格で人間に旅寄しているのにこのような夢を見るのは必ず他の故があるはずだ」と歎じたが、三日経つと果たして由が乱兵に害されたと聞き、その亡くなった日を尋ねると夢を得た夜であった。天平中、兼吏部郎中として李諧の蕭衍への使いに副い南人はこれを称し、還って尚書右丞を拝し散騎常侍・監起居に転じ史館に積年あってまったく意を置かず、また黄門郎・本州大中正を兼ねた。元明はよく自ら標置し妄りに交遊せず、飲酒賦詩は興に遇うと返るのを忘れた。𤣥理を好み史子新論数十篇を作り、文筆は別に集録があった。少時、鄉より洛に還る途上で相州刺史中山王熙に遇い、熙は博識の士でこれを見て「盧郎はこのような風神を持ちながらただ離騒を誦し美酒を飲むべきだけの佳器だ」と歎じ、これを留めること数日、帛と馬を贈って別れた。元明は凡そ三たび娶り、次妻の鄭氏は元明の兄子の士啓と淫汙し元明は離絶できなかった。また世地をもって自ら矜ることを好み時論はこれにより貶した。

元明の弟・元緝

  • 元緝、字は幼緒。凶率で酒を好み、かつて婦氏の飲宴で小さな不平から手ずから客を刃で殺した。起家して祕書郎となり司徒祭酒に転じ稍く輔國將軍・司徒司馬に遷り官で卒し、散騎常侍・都督幽瀛二州諸軍事・驃騎大將軍・吏部尚書・幽州刺史を贈られ諡を宣とした。

元緝の子・士深

  • 士深、開府行參軍となった。

昶の弟・尚之

  • 尚之、字は季儒。小字は羡夏。また儒素をもって重んじられ太和中、議郎を拝し趙郡王征東諮議參軍に転じ母の憂により去官し後に太尉主簿・司徒屬・范陽太守・章武内史を歴任し兼司徒右長史となり冠軍將軍を加え左長史に転じ出でて前將軍・濟州刺史となり入って光禄大夫を除せられ、正光五年(524年)卒した。年六十二、散騎常侍・安東將軍・青州刺史を贈られた。

尚之の長子・文甫

  • 文甫、字は元祐。少くして器尚あり文史に渉歴し時に誉あり位は司空參軍に至り年四十九で卒した。

文甫の子・敬舒

  • 敬舒、文学あり早くに卒した。

文甫の弟・文翼

  • 文翼、字は仲祐。少くして甚だ軽躁であったが晩年に頗る節を改め員外郎となり、後に郷里に帰り永安中、都督として范陽三城を守り賊帥韓婁を拒いで功あり范陽子を賜爵し、永熙中、右將軍・太中大夫を除せられ桑井に栖遲して卒した。年六十。

文翼の子・士偉

  • 士偉、興和中に中散大夫となった。

文翼の弟・文符

  • 文符、字は叔僖。性格は通率で員外郎・羽林監・尚書主客郎中を歴任し通直散騎侍郎に遷り永安中に卒した。年四十。

文符の子・子濳

  • 子濳、武定中に齊文襄王中外府中兵參軍となった。

  • 度世は李氏の甥にあたり、その齊州にあった際、国家が升城を初めて平らげた頃、無鹽の房宗吉の母の傅氏(度世の外祖母の兄の子婦)や、兗州刺史申纂の妻の賈氏(崇吉の姑の娘)はみな亡破軍の中で老病憔悴していたが、度世は中表の情誼を推し量りその恭恤を尽くし、覲見のたびに傅氏に跪いて起居を問い時に応じて衣被・食物を送り届け、賈氏にもその服膳を賑わした。青州がすでに陥ちると諸崔は零落し度世は多くこれを収贖した。淵・昶らもみな父の風に循い遠親疎属も長者に叙され尊行として拝礼を尽くされないことはなく、閨門の礼は世に推された。謙退簡約で世と競わず、父母亡くしても同居共財を続け祖より孫に至るまで家内百口、洛にあって饑年に自賑する術がない時も尊卑は怡穆・豊儉ともにし親従の昆弟は常に朝に省謁し諸父は座を別にして暮に至って入り、朝府の外では妄りに交遊せずその相い勗めることは礼のようであった。また一門に三人の主(婿の三公主か)があり当時これを榮とした。淵の兄弟が亡くなり道將が卒した後は家風は衰損し子孫は多く非法で帷薄が混穢し論者に鄙しめられた。

度世の従祖弟・神寳

  • 神寳、中書博士となった。太和中、高祖は髙陽王雍のためにその娘を納れて妃とした。初め元は従祖兄の溥が慕容寳の末に郷部を摠攝し海濱に屯し遂にその郷姻の諸祖十余人を殺し自ら征北大將軍・幽州刺史を称し天興中郡縣を攻掠したが討禽された(帝紀にある)。

溥の𤣥孫・洪

  • 洪、字は曾孫。太和中に中書博士を歴任し稍く髙陽王雍の鎮北府諮議參軍・幽州中正・樂陵陽平二郡太守に遷った。三子があった。

洪の長子・崇

  • 崇、字は元礼。少くして美名を立て識者はこれを遠大と許した。景明中、驃騎府法曹參軍で早くに卒した。

崇の子・子剛

  • 子剛、司空行參軍・荆州驃騎府主簿で関中で没した。

崇の弟・仲義

  • 仲義、小名は黑。世に知名で髙陽王雍の司空行參軍・員外散騎侍郎・幽州別駕となった。

洪の弟三子・叔矩

  • 叔矩、字は子規。武定中に尚書郎となった。

子規の弟・子正

  • 子正、司徒法曹參軍となった。崇兄弟は官は達しなかったが婚姻は常に元家(皇族)と斉等であった。

仲義の弟・幹

  • 幹、字は幼禎。州主簿となった。

幹の子・讓

  • 讓、儀同開府參軍となった。

洪の弟・光の子・觀

  • 洪の弟の光の子の觀、觀の弟の仲宣は文苑傳にある。

仲宣の弟・叔䖍

  • 叔䖍、武定初年に司徒諮議參軍となった。

洪の従弟・附伯・侍伯

  • 洪の従弟の附伯、附伯の弟の侍伯はともに学識あり、附伯は滄州平東府長史に至り侍伯は永熙中に衞大將軍・南岐州刺史となった。

侍伯の従弟・文偉

  • 文偉、興和中に驃騎大將軍・青州刺史・大夏縣開國男となった。

史論

  • 盧元(𤣥)は業を緒として聞こえ首として旌命に応じ、子孫は迹を継いで世々盛門となった。その文武の功烈はほとんど記すに足りるものはなかったが、時に重んじられ声は冠帶に高く、これは徳業・儒素に人に過ぎるものがあったからである。淵の兄弟にもまた二方(南北)の風流雅道と家声が備わっていたが、諸子は及ばず余烈の被る所も盈ちなかった。