許彦
- 許彦、字は道謨。小字は嘉屯。高陽新城の人。祖の茂は慕容氏の高陽太守。彦は少くして孤貧、読書を好み後に沙門法叡に従い易を学んだ。世祖初年に徴され卜筮がしばしば験があったことから左右に参与し散騎常侍を拝し博陵侯を賜爵した。彦は質厚で慎密、人と話す際も内事には及ばず、世祖はこれによりいよいよ親待し武昌公に爵を進め安東將軍・相州刺史を拝したが、州にあって受納が多く法度に違うことがあり詔書で切に責められたものの彦は腹心近臣であったため罪せられなかった。真君二年(441年)卒し諡を宣公とした。
彦の子・宗之
- 宗之、初め入って中散・領内祕書となり世祖が江に臨んだ際、高鄉侯を賜爵し高宗が践阼すると殿中尚書に遷り出でて鎮東將軍・定州刺史・潁川公となった。丁零討伐を勅されこれを平定した後、宗之は郡縣に因循して求取を節せず、深澤の人馬超が宗之を毀謗すると宗之は怒って超を毆殺し、超の家人が朝廷にその状を告げ超が朝政を謗訕していたと訴えたが、高宗はこれを聞いて「これは必ず妄言だろう、朕が天下の主として超に何の悪があってこのような言をしようか、これはきっと宗之が罪を懼れて超を誣いたのだ」と述べ按験させると果たしてその通りであった。事は有司に下され司空伊馛らは、宗之は腹心近臣として方伯に出居しながら本朝の宣揚に尽心せず斉民を侵損し良善を枉殺し無辜を妄列して朝廷を上塵した、誣詐不道は理として極刑に合すると論じ、太安二年(456年)冬、都南で斬られた。
宗之の孫・亮
- 亮、字は元規。正光中に盪寇將軍より稍く冀州驃騎長史・司徒諮議參軍に遷り年五十二で卒した。
宗之の長兄・熙
- 熙、字は徳融。武昌公を襲爵し中書郎で早くに卒した。
熙の子・安仁
- 安仁、爵を襲ぎ中書郎を除せられ卒し安東將軍・冀州刺史を贈られ諡を簡とした。
安仁の子・元康
- 元康、爵を襲いだが後に降されて侯となり冠軍將軍・長安鎮副將を拝し監河州諸軍事・河州刺史(將軍如故)に遷り入って廷尉少卿を除せられ魏郡太守を固辞して拝さず、まもなく卒し征虜將軍・營州刺史を贈られ諡を肅とした。
元康の子・廓
- 廓、字は崇遠。爵を襲ぎ奉朝請を除せられ累遷して頓邱東・太原二郡太守となり卒した。年二十八。子の子躬が爵を襲いだ。
廓の子・子躬
- 子躬、武定末に中外府水曹參軍となり齊が受禪すると爵は例により降された。
子躬の弟・子憲
元康の弟
弟の子・瑞
瑞の弟・絢
- 絢、字は伯禮。頗る業尚あり閨門は雍睦で三世同居した。吏部尚書李神儁は常にその家風を称え、侍御史より稍く尚書左民部・司徒諮議參軍に遷り起居注を修め後に太中大夫を拝し興和初年、卒した。年四十七、使持節・都督冀瀛二州諸軍事・征東將軍・吏部尚書・冀州刺史を贈られた。
絢の弟・遜
遜の弟・曄
- 曄、字は叔明。性格は開率で州治中・別駕・西高陽太守・太中大夫を歴任し興和三年(541年)卒した。年四十一、鎮東將軍・瀛州刺史を贈られた。
曄の弟・惇
熙の弟・龍
龍の孫・琰
- 琰、字は長琳。幹用あり初め太學博士を除せられ累遷して尚書南主客郎・瀛州中正となり孝昌中卒した。年四十七、平東將軍・滄州刺史を贈られ、永熙中、重ねて散騎常侍・衞將軍・尚書右僕射・瀛州刺史を贈られた。
琰の弟・璣
- 璣、字は仲衡。識尚あり廣平王常侍・員外散騎侍郎・諫議大夫を歴任し通直散騎常侍・瀛州大中正に遷り散騎常侍・滎陽太守・行南青州事で卒した。年五十五。琰の兄弟はともに通率で勝流と多く交遊し、また博陵の許赤虎という者があり経史に渉獵し善く嘲謔し、延興中著作佐郎として慕容白曜の南討に従い後に江南に使いした際、応対が敏捷で言葉に典故はなくとも南人は頗るその機辯滑稽を称した。使いより還って東郡太守となり官で卒した。
許赤虎の子・陁