魏書卷四十六 列傳第三十四 竇瑾

竇瑾

  • 竇瑾、字は道瑜。頓邱衛國の人で自ら漢の司空竇融の後裔と称した。高祖の竇成は頓邱太守となりこれにより家した。瑾は少くして文学をもって知られ、中書博士より中書侍郎となり繁陽子を賜爵し寧逺將軍を加え軍國の謀に参与し、しばしば軍功あり祕書監に遷り衞國侯に爵を進め冠軍將軍を加え西部尚書に転じた。三秦を初めて定めた頃、人はなお去就を定めがたかったため使持節・散騎常侍・都督秦雍二州諸軍事・寧西將軍・長安鎮將・毗陵公を拝し、鎮にあること八年、威惠著しく殿中都官尚書・仍散騎常侍に徴された。世祖の親待は甚だ厚く、蓋吳征伐の先驅として慰諭し、これにより巴西の氐羌酋領を平らげ降下した数千家、下らぬ者は誅した。また蠻酋仇天尒ら三千家を五将山で降した。蓋吳が平定されると瑾は長安に留鎮し還京してまた殿中都官として左右の執法を典り、世祖は「古の右賢左戚こそ国の良輔だ、毗陵公はまさにこれである」と歎じた。恭宗が東宮で薨じると瑾は司徒を兼ね詔を奉じて冊諡し出でて鎮南將軍・冀州刺史となった。清約沖素で王事に憂勤し当時に称され、還って内都大官となった。興光初年、瑾の女婿の鬱林公司馬彌陁が臨涇公主を選尚した際、瑾が彌陁に誹謗呪詛の言を教えたことで彌陁とともに誅せられた。瑾には四子(秉・持・依)があり中書学生としてともに父と同時に伏法したが、ただ少子の遵のみが逃匿して免れた。

瑾の子・遵

  • 遵、楷篆をよくし北京の諸碑・臺殿樓觀・宮門の題署の多くは遵の書によるものであった。官は尚書郎・濮陽太守に至ったが受納が多く、その子の僧演が民婦と姦通したことを民の賈邈に告げられ免官された。後に善書により庫部令を拝し官で卒した。